侵攻編40話 皇帝の憂鬱



娘との通信を終えた皇帝は椅子の背もたれを倒し、暫くの間、瞑目していた。ゴッドハルト・リングヴォルトには王として必要な資質がいくつも備わっており、精力的な政務活動を行える気力と体力も有している。しかし、王とて疲れを感じない訳ではない。激務であろうが物事が順調に進んでいるのなら、疲れも吹き飛ぶ。高揚する心は、どんなビタミン剤よりも人間を活性化させるからだ。


……残念ながら、現在の状況は甚だ不本意であり、なおかつ困難な仕事の連続であった。


「敗戦処理は久方ぶりだ。いつ以来であろう。……メルゲンドルファーがアスラコマンドに敗北した時以来か。」


帝国が負けた戦いは他にもあったが、皇帝自らが戦後処理を行う程の敗北は極めて珍しい。そして、龍の島で喫した敗北は、今までの敗北とは桁が違っている。人員、資源、版図、どれを取っても過去最悪だ。


覇権主義者だが夢想家ではないゴッドハルトは、龍の島での戦役に敗北し、戦後処理を行わねばならないという現実を直視していた。ただ、臣下の前では決して敗戦処理だと口に出さないだけである。


「裏目は裏目を呼ぶ。……かの島には"泣きっ面に蜂"という諺があるらしいが、ヴァレンガルトはさぞやいい気分であろうな。」


失脚していたヴァレンガルト・ベルギウスを宮廷に復帰させた事も、皇帝にとってマイナスに働きそうであった。ベルギウス公爵は傍流とはいえ王家の血を引く男、皇帝の失点は彼の得点に繋がる。


「自殺点が決勝点ではヴァレンガルトも不本意であろう。余から王冠を剥ぎ取りたいなら、自らの手で引き剥がすがよい。……出来るとは思えんがな。」


政略においてはベルギウス公より二枚も三枚も上手うわての皇帝は、既に動き出しているであろう稚拙な宮廷工作の全貌を予想し、先んじて釘を刺す策を考案した。陰謀家は羽根ペンで二通の書状を書き上げ、玉璽を出して押印する。準備を終えた皇帝が卓上のベルを押すと、最側近の騎士団長スタークスが室内に入って来た。


「陛下、お呼びでしょうか?」


「うむ。ここに拘束令状がある。名を記された貴族を捕らえて牢に繋げ。罪状は書面の通りだ。」


宮廷に復帰したベルギウス公はシンパ作りに精を出していたが、皇帝はその動きを黙認していた。もちろん、彼に靡いた貴族の調査は秘密裏に行い、脛に傷のある有力貴族はリストアップしてある。軍の立て直しには金がかかる事だし、彼らが溜め込んだ財貨を吐き出させるとしよう。再建の足しになるはずだ。


「ハッ!直ちに!」


不満分子を処断して機先を制し、没収した財産は軍の再建に充当する。あらかじめ敷いておいた布石を投げての一石二鳥、やはりベルギウス公ではゴッドハルトの相手は荷が重い。かつて皇帝の座を巡って争った二人であったが、ゴッドハルトが勝利したのは血統の差ではなく、単純に能力の差であった。


「それからこの委任状をバルミアンに駐屯するローゼに届けさせよ。特使はメルゲンドルファーの甥がよい。」


「お預かりします。叔父の訃報を受けて落ち込んでおりましたが、かような栄誉を賜り、さぞ喜ぶでしょう。」


甥の方は叔父ほどの武勇はない。しかし、忠誠心だけなら叔父に比肩する。メルゲンドルファーの一族郎党を疎略に扱ってはならない。……アードラー家はどうするか? 奴の裏切りは許せんが、余にも落ち度があった。馬鹿に馬鹿だと気付かせぬよう操るのも王の仕事。余とした事がつまらん勘気を起こして授業料を支払う事になるとはな……


ゴッドハルトは尊大な男ではあったが、冷徹な政治家でもあった。古代でも現代でも、尊大なだけの人間が成功を収め続ける事はない。驕り昂ぶる者は、たとえ時の運を得て、飛ぶ鳥を落とす勢いで飛翔しようとも、必ず失墜する。皇帝は自分が無謬の存在だとは思っていなかった。いずれは目指すにしても、である。


「スタークスよ、アードラー家への誹謗中傷は抑え込め。宮廷のみならず、世論においてもだ。」


極秘船団を足止めし、座標まで書き記したアードラーへの怒りは収まらない。自らが持つ帝国最大の権力を使って、遺族に徹底報復してやりたいのは山々であったが、それを踏み止まるだけの理性もまた、皇帝は持ち合わせていた。服毒したアードラーが死の直前に推定した実像よりは、大物だったと言える。もちろん、無念の死を遂げた官僚軍人にとっては、なんの慰めにもならないのだが……


「承知しました。思えばアードラー卿もお気の毒でしたな。遺族に手を差し伸べますか?」


「そこまではせんでいい。彼らが失った地位を取り戻したいなら、自力で這い上がればよいだけだ。」


目を見張るような功績でも上げない限り、アードラー家の人間を日の当たる場所には戻さないと皇帝は決めていた。私怨を国益に絡めるのは得意技なのだ。


「アードラー卿の嫡男が侯爵位の継承を求めているようですが……」


「認められんな。ヘルマン・アードラーには功績もあったが、今回の失態は積み上げた功を上回る。信賞必罰が帝国の原則、例外はない。」


誹謗中傷を抑え込む慈悲と、安易な権力継承を許さぬ厳しさ、両方があってこそ、王は評価される。世論の反応を予測した皇帝は心中でほくそ笑む。私怨を国益に絡めるだけではなく、自身をプレゼンテーションする才覚にも秀でているのだ。もしゴッドハルトがその計算高さの中に、慈愛の心も持っていれば、真の名君になり得ただろう。


自己演出の巧妙さ、極論すればゴッドハルト・リングヴォルトという人間の価値はそこに集約される。外見、仕草、発する言葉の端々にまで気を配る彼は、民主主義国家に生まれていても、煽動型政治家として成功していたに違いない。


「ではメルゲンドルファー家も同様に計らいますか?」


「いや、一族が望むなら、甥に家督相続を認めよう。"堅将"メルゲンドルファーの戦死には情状すべき点が二つある。一つは、帝国情報部が同盟軍の動きを察知していなかった事。これに関してはしかるべき者に責任を取らせよ。もう一つは、街を守る曲射砲に仕掛けが施してあった事だ。これは策を弄した"昇り龍"の英明さを褒めてやるべきで、情報部にもメルゲンドルファーにも落ち度はない。」


臣下の情状は酌量し、時には敵を褒め称える。戦術家としては凡庸なゴッドハルトだったが、政治家としての嗅覚は鋭敏であった。メルゲンドルファー家とアードラー家を同列に断罪しては、自身の公正さを損ねると判断したのである。


"公明正大さに価値はないが、公明正大に見える事には価値がある"が、ゴッドハルトの哲学なのだ。


「確かに。いかにメルゲンドルファー卿が百戦錬磨の名将であっても、防衛の要である曲射砲が使えず、あまつさえ街門まで破壊されたとあれば、打つ手はなかったでしょうな。」


「それでももう少し戦いようはあったと思うが、それを言っても詮があるまい。対するアードラーには事前情報と準備の時間があった。尾羽刕が陥落した時点で同盟軍の狙いと戦力は明白、その上で選んだ初手が味方撃ちなど、正気の沙汰ではない。」


「アシュレイも呆れておりました。"戦下手なのはわかっていたが、上手下手などというレベルではなかった"と。」


正確には呆れたのではなく"絶句してから呆れ果てた"のであるが……


「卿はどう思ったのだ?」


「"愚者も一周回れば、賢者に似る事もある"と、亡父が言った事がありますが、"馬鹿は何周回っても馬鹿"というのが私の結論ですな。……アシェスめがいささか心配になってまいりました。」


スタークスは一人娘のアシェスが時折見せる直情径行を危ぶんでいるらしかった。


「フフッ。帝国の誇る真銀の騎士、"守護神"を算盤屋と同じにしてやるな。娘とはいえ失礼だぞ。停戦交渉に向かうローゼの護衛はアシェスで決まりだな。」


「陛下、アシェスとクエスターはいけません。帝の護衛には照京兵が付く可能性があります。」


「ローゼは"帝は交渉の場に出て来ないでしょう"と言いおった。余の政治的意図を読み、代理を寄越すだろうとな。それに引き換えアデルときたら、"交渉など無用!自分が兵を率いて極東へ赴き、版図を奪還してみせます!"などと息巻く始末だ。あれには戦の才能もないが、外交の才能もないな。」


「アデル様にも困ったものですな。しかし、ローゼ様がそんな事を仰いましたか……」


皇子と皇女の器の差は明白だな、とスタークスは思った。同時に、出来の悪い皇子のお守りをしてきた盟友の気苦労も察する。しかし、国家の重鎮であるはずの騎士団長は、帝国の後継問題は危惧していない。なぜなら……"現皇帝が退位する日など、永遠に来ない"からである。


「極力、帝を交渉の場に引き摺り出せとは命じておいたが、ローゼにそこまで望むのは酷であろう。」


「皇帝は帝以上の権威であると示したいところでしたが、やむを得ませんな。帝が代理人が指名するなら、やはり義弟の剣狼でしょう。戦の前口上を聞いた限りでは、かなり弁の立つ男ですぞ?」


「余もそう思う。それに恨み骨髄であるはずの八熾一族を帝の元に結集させた事例が示す通り、指導力も高いと見ねばなるまい。……ローゼでは荷が重いかもしれんな……」


剣狼は魔女の森で、敵方の皇女である娘を助けた。あの時の剣狼は一介の曹長で、未来の自分が龍の島の指導者層になるとは思ってもいなかったはずだ。つまりは何の打算もなく、リスクだけを負った。強い男かもしれんが、甘い男でもある。その甘さにローゼがつけ込めるかどうかが問題だな。


そんな事を考えた皇帝に、腹心が提言する。


「帝の義弟、剣狼カナタ……帝本人が出て来るよりも厄介でしょうな。陛下、狼の相手に虎をあてがうのは如何ですかな? 薔薇十字の急成長の影に潜む猛虎、あやつならば……」


「それがよい。ローゼも成長しておるようだが、戦略を授けておるのは死神だ。……まったく、御門我龍も馬鹿な男よ。順当にゆけば八熾彼方、叢雲討魔、御鏡雲水、文武を束ねる三種の人器を擁しておったというのに。さすれば龍の島の覇権どころか、世界に手を伸ばす事も出来たはずだ。それが照京一つを維持出来ず、竜蜥蜴セツナに食われて終わるとはな。」


ゴッドハルトは以前から御鏡雲水の内政能力を評価しており、その政策を模倣していた。当然、彼の帰国には反対したのだが、機構軍でも同盟軍でも、捕虜交換の許諾権は捕らえた者にある。雲水を捕らえた朧月刹那はゴッドハルトの意向を無視し、ネヴィルの要請に応じて雲水とサイラスの捕虜交換を断行した。将官の地位と独自の師団を得た野心家は、もう皇帝の力を恐れなかったのだ。サイラスがネヴィルに支払った多額の金銭は、朧月刹那の懐も大いに潤したのである。


「稚児に名馬を与えても、踏み殺されるのが関の山。陛下、三種ではありませぬが、帝国にも聖剣と神盾がございます。世界皇帝となる計画は、絵空事ではありませんぞ。」


ゴッドハルトとスタークスは同じ夢を抱いている。世界帝国の皇帝と、世界中の兵を率いる騎士団長になる野望を夢と呼んでいいのならば……


見果てぬ夢を追い求める王と騎士の最終目的は、支配者として永遠に君臨し続ける事であった。


「アシュレイにもそろそろ"世界帝国設立計画"の存在を教えてやってもよいのかもしれんな。余の定めた"永続支配者"のリストに載っておるのだから。」


「まだ早いかと。我らの遠大な計画は、道半ばなのですから。それでは私は、不逞貴族の身柄を拘束しに向かいます。陛下、そろそろお休みになってください。体の交換が可能になるまで、無理は禁物ですぞ。」


「うむ。余は誰よりも、そちを頼りにしておるからな。」


これは世辞ではなく、本心である。スタークス・ヴァンガード伯爵は、陰陽問わずに皇帝を支え続ける柱石だった。戦闘では名のある敵を討って輝かしい武勲を上げ、暗闘ならば女子供であろうと容赦なく抹殺する。


騎士としての力量ならばスタークスの盟友、アシュレイ・ナイトレイドも負けず劣らずではあるが、皇帝に全てを捧げられるという点においては優劣があった。剣神の異名を持つ女騎士は、たとえ政敵が相手でも、暗殺をよしとしない。対するスタークスはあらゆる手段を選ばない。であるが故にスタークス騎士団長、アシュレイ副団長なのである。


「有難き幸せ。」


"神盾"スタークスは、うやうやしく一礼してから退出した。本来ならばスタークスの後を継ぐ娘、アシェス・ヴァンガードにも父親と同じような非情さがある事が望ましい。しかし皇帝は"守護神"アシェスの気性や気風に注文をつけた事はない。それは寛大さの発露ではなく、必要性が喪失したからである。


"古代央夏の皇帝は健康長寿の薬湯だと信じて、水銀を飲み続けていたそうだが、愚かな事よ"


ゴッドハルトは網膜に映像を映して、疲れた心を癒す。網膜に映されたレポートの題字、それは……



"極秘:放浪民の巫女、サラサ・ザハトの持つ固有能力。その研究結果について"であった。


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