第三章 高架下の静寂
第17話 草虫はマズい
遠鳴りが聞こえる。
ああそうか、自分は車に乗っているのだった、とコジロウは思う。
車内を見回すと、父も母もヒアキとヨウジもちゃんとそろっていて、みんな楽しそうに話している。
「もうすぐヒッコシだね」
と父が言う。
「そうね、もうすぐヒッコシね」
と母も言う。
「ヒッコシだぞ!」「ヒッコシだよ!」
と、ヒアキとヨウジも言う。
ヒッコシってなんだっけ、誰かに意味を教えてもらったなあ……などと考えていると、また父が「ヒッコシ」と言った。
そして母も「ヒッコシ」と言い、兄弟たちもそれぞれ「ヒッコシ」「ヒッコシ」と言う。
やがて四人の声は重なり合い、ヒッコシ、ヒッコシ、ヒッコシ、ヒッコシ……と繰り返すばかりになった。
車は相変わらず静かに走って行く。
コジロウの棲んでいた町を離れ、どこまでも、どこまでも、どこまでも。
「うわあっ!」
コジロウは弾かれたように飛び起き、頭を
「いたたぁ……」
うす暗い隙間から、光が差し込んでくる方へと這い出す。
どうやら昨夜は無意識のうちに廃車の座席下へ潜り込んでしまったようだ。
どこかで鳩が鳴いている。
「ヒッコシ、ヒッコシ」と聞こえていたのは、どうやら鳩の鳴き声だったらしい。
といっても彼らの鳴き声は「ホロゥ、ホロゥ」なので、まったくとんだ聞き違いだ。
あくびを噛み殺して頭を軽く振ると、嫌な夢を見ただけだということが少しずつ呑み込めてきた。
「コジロウ~。起きたでやんすか~」
外から声がする。
コジロウは後部座席へ移り、窓に前足を乗せて顔をのぞかせる。眼下に広がる草むらの中に、ハチの姿を見つけた。
窓から身を乗り出して、するりと地面へ降りる。
よほどガタがきているのか、廃車がわずかに軋む。
春先の朝の空気はまだ冷たく、ぶるりと身が震えた。湿気が体を包み、
毛がしっとりと重くなる。
「ハチさん。おはようございます」
「おはようでやんす。なんだかパっとしない顔でやんすねぇ」
「ちょっと悪い夢を見ちゃって」
コジロウがそう答えると、廃車の屋根から声が降ってきた。
「寝心地が悪かったか?」
見上げれば、クロが顔をのぞかせていた。
「いえ、鳩の声が気になっただけです。ありがとうございます」
「そうか」
それだけ言うと、クロはまた顔を引っ込めた。
「相変わらずでやんすねぇ」
ハチが小声で呟いたが、コジロウにはそれがどういう意味なのかよくわからなかった。
なんとなく手持無沙汰な気がして、しっぽをぱたぱたと動かしてみる。
近くの草同士が揺れてぶつかり合い、そのかすかな振動に驚いて虫が飛び跳ねた。
「あっ、
そう叫ぶなり、コジロウは地面を蹴った。
「ん? 草虫?」
ハチが首をかしげるが、コジロウは既に草むらの中に飛び込んだところだった。
虫はすんでのところで難を逃れ、また勢いよく飛び出す。共鳴するかのように小さい虫たちが四方八方に散らばったが、コジロウはそちらには見向きもせず、あくまでも最初の一匹を追った。
「ああ、バッタね」
ハチが独り言のように呟いたが、コジロウの耳にはもはや届かない。
虫はコジロウよりもはるかに小さい。それなのに、右へ左へと翻弄する。
どうやら相手の方が一枚も二枚も上手のようだった。
しかし、コジロウも負けてはいられない。何度も追いかけるうちにようやくパターンをつかめてきた。
息を止め、慎重に狙いを定める。
今度も逃れられるものと思ったのだろう、相手は先ほどと同じように草むらから飛び出す。
コジロウは水鉄砲ごとく飛び出し、覆いかぶさった。
肉球に確かな手ごたえがあり、彼は勝利を確信した。
草むらから浮上すると、コジロウは口にくわえた獲物を誇らしげに見せた。
「ほふぁっ、ほへほへ!(ほら、これこれ!)」
「……それ、マズいでやんすよ?」
ハチの忠告も虚しく、コジロウはすでに草虫を噛み潰した後だった。
「かはっ! かはははっ!」
空き地に悲鳴とも笑いともつかぬ声が響き渡る。どうやら草虫は自身の命と引き換えに一矢報いたらしい。
その様子を廃車の上から一瞥し、クロが言う。
「おい、ハチ」
「へいへいへいへい」
ハチはこの上なく面倒くさそうに返事をすると、コジロウに「行くでやんすよ」と声をかけた。
どこに行くのかはわからなかったが、ともかくコジロウは「かふっ」とか「かへっ」とか時には「かははっ」とか言いながらハチの後をついて行った。
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