第15話 ハチの想い人

 夜はさらに深くなり、周りの家々からは人間たちの生活する気配が濃厚に伝わってくる。雑音を吐き出すテレビの音、人間の話す声、食器のぶつかる高い音、水道の蛇口をひねる音、水が排水管を通る音、換気扇が回る音、給湯器が稼働する音。

 そういったものが混ざり合い、夜の空気を作ってゆく。


 その音とは別に、空き地へ向かって近付いてくる音があった。

 人間の足音だ。

 それを聞きつけるなり、ハチはこれ以上ないほどまっすぐしっぽを立てた。


「ウニャ!」

 そう声を挙げると、ハチは待ちきれない様子で駆け出した。

「……ハチさん?」


 コジロウは追いかけようかと迷ったが、クロが「放っておけ」と呟いたので、その場に留まって様子を見ることにした。

 足音はゆっくりと、静かに近づいてくる。

 間もなくして、通りの方から人間の声が聞こえた。


「あら、ハチ。こんばんは。迎えに来てくれたのね」

「ウニャーン」


 普段とは違う甘ったるい声で、ハチが鳴く。

 足音はさらに近付いてきて、街灯に照らされた若い女性の姿が見えた。

 ハチはまるで長い間会えなかった飼い主に甘えるかのように、その足元に頭をこすりつけて甘えている。あまりに何度も頭をこすりつけるので、はげてしまうのではないかとコジロウは心配した。

 草の間からコジロウの姿を見つけて、女性は微笑んだ。


「……初めて見る猫さんかな? 私は美穂ミホっていうの。よろしくね」

「ニャア」とコジロウは答えた。

「虎模様だから、トラって呼んでもいいかしら」

「ニャア」と、再度コジロウは答えた。トラと呼ばれるのには慣れている。


 その時、廃車がわずかに軋む音が聞こえた。

 コジロウが視線をやると、それまではずっと通りのある方を眺めていたクロが、背中を向けてごろりと横になっていた。

 何か呟いたようにも聞こえたが、何と言ったのかまではわからなかった。


 隣のハチをちらりと見ると、まったく気にせず女性に夢中だったので、コジロウもそれ以上は気に留めなかった。


「……ね、トラ。なでてもいいかしら」

 美穂の手が遠慮がちにそっと近づいてきて、コジロウの毛並みをなでた。

 一瞬身構えたが、触れられてみると、とても優しい手だった。


「ナァーン」

 ハチが拗ねたような声を出したので、美穂は「ハチの甘えんぼさん」と言って彼の毛を丁寧になでた。ハチは再びご機嫌になり、ごろごろと喉を鳴らし始めた。

 美穂はハチに微笑みかけ、そして廃車の屋根の上に視線をやった。


「クロは今日も相手をしてくれないのね」

 彼は何も言わず、背中を向けたままだった。

「ニャン」と、なぜかハチが答えたので、美穂は「ふふ」と笑った。



 ハチと一緒に美穂を見送り、その姿がすっかり見えなくなってから、コジロウは待ちかねたように尋ねた。

「ハチさん、さっきの人って誰ですか?」

「ん~、秘密」

 ハチはご機嫌な様子で草むらの上にごろごろと寝転がった。どうやら余韻に浸っているらしい。


「あの人、よくここに来るんですか?」

「そうでやんすよ。優しくて温かくてふわふわ柔らかい、素敵な女性ひとでやんす」


 喉までごろごろと鳴らしているので、またたびに酔っているように見える。

 恍惚とした表情の彼を見て、コジロウは言いようのない不安を感じた。


「まさか、ハチさん、あの人のこと……」

個猫こじんの自由、でやんす」

 ハチはそう言ってのけた。


「だって相手は人間じゃないですか……。そうだ、ボスからもなんとか言ってください」

 コジロウが視線を向けると、クロは廃車の屋根から面倒くさそうに言った。

「好きにすればいい」


 ハチは得意げに言った。

「ボスはこうおっしゃっているでやんす。猫と人間との橋渡しとして、おいらたちの仲を祝福してくれる、と」

「そんなことは言っていない」

 クロはふてくされたように顔をそむけた。


「ありゃ。今日はやけに機嫌が悪いでやんすね」

 クロが半分からかうような口調で言うものだからコジロウはハラハラしたが、クロがそれ以上何か言うことはなかった。

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