第61話 母なる人

 二十一時を過ぎた頃、彼女はやってきた。

 地味という言葉自体、彼女の辞書には存在しないんじゃないかというほどの派手な装いと、身体のラインを強調した服。目を伏せつつ、席へ案内した。

「この前はごめんなさい。取り乱してしまって」

「お構いなく。メニュー表をどうぞ」

 取り乱した話は聞いていない。何を話したんだと目線だけで咎めても、分かっているはずなのにルイは知らん顔だ。

「ナッツと、何かフルーツを使ったものを」

「かしこまりました。フルーツがお好きなのですね」

「ふふ……そうね。美容にも気を使っているから」

 母であろうがなんだろうが、美に対する気遣いは結構なことだ。

 けれど、女の顔を見た息子の立場としては、口から小宇宙を吐き出しそうだ。なにかこう、自然の摂理に逆らった物質がフロアを満たしそうで。

 氷の入ったタンブラーにライチ・リキュールとオレンジジュースを入れ、撹拌する。シンプルで、アルコール度数は少なく飲みやすいカクテルだ。飾りのオレンジもつけ、彼女の前に差し出した。

「パライソ・オレンジでございます。パライソとは、楽園という意味です」

「オレンジジュースを入れているところは見たんですけど、果汁何パーセントなの?」

「ジュースの定義は、百パーセントでなければいけません。それ以外は清涼飲料水などと呼ばれます」

「へえ! そうなんだ」

 働いて長くなるが、初めて知った常識的事実だ。

 ルイは後ろの冷蔵庫へ手をかざした。

 冷蔵庫の中のジュースのラベルを見ると、確かにオレンジジュースだけではなく、パイナップルジュースやライムジュースもすべて百パーセントと書かれている。

「あの……私が言えた義理はないのだけど……お世話になってます」

 俺の気持ちを気にしてか、ちらちらとこちらを見てくる。

「彼がいなくては成り立たない店です。何度助けられたか、数えきれないほどです」

「そうなのね……本当に……」

 大きくなった、としみじみ呟いた。

 それから注文が入り、俺は慌ただしくフロアを動き回った。母……というより、美恵子さんと呼ぶ方がしっくりきた。本人には母とも名前でも呼ばないが、心の中で美恵子さんと呼ぶことにした。

 フロアを行き来するたびに彼女の視線を浴びた。

 彼女はパライソ・オレンジを飲み終わり、メニュー表に目を通している。

「あの……度数の少ないものを」

「かしこまりました」

「それで……その、彼に入れてもらうことってできるかしら?」

「…………俺?」

 どうすべきか。これは俺が答えを出さなければならないのに、ルイに助け船を求めてしまう。正解が一択しかなくても、俺はどちらが正解なのか見当がつかない。

「志樹、頼んでいいか?」

「…………いい……のか?」

 自身に対する問いかけだ。テストであれば、丸か罰かではっきり答えが分かるのに、答えのない試験は難問すぎる。

「私は他のカクテルを作るのに忙しい。度数の少ないもので、お任せだ」

 上手い逃げの言葉だ。俺の負担が軽くなった。いやらしい助け船の出し方ではなく、後ろからそっと押してくれる。

 悩みに悩んで、クレーム・ド・バイオレットを台に置いた。珍しくも花を原料とする、スミレを用いたリキュールだ。

 横目で見ていたルイは眉を上げ、納得の表情を見せた。これだけで俺が何を作ろうとしているのかすでに分かったらしい。カクテル言葉も頭に入っていなければあの顔にはならない。

 リキュールと砂糖、レモンジュース、ジンを氷の入ったシェイカーに入れ、材料が混ざるようによく振る。振り方はルイの癖が移っているとユーリさんのお墨付きだ。嬉しいです、と告げると、微妙な顔をされてしまった。あまり良い癖ではないのだろう。それでも俺は嬉しかった。

 タンブラーにシェイカーの中身、続けてソーダ水も注ぐ。紫色の美しい液体が光を返照し、きらきら光っている。最後に、レモンの輪切りを浮かべた。

 いつも注いだ瞬間が一番緊張する。今回は特に、だ。心臓が目に見えない何かに鷲掴みにされた状態のまま作ることになったので、掴まれた心臓が解放されても未だにどくどくいっている。

「バイオレット・フィズです」

「綺麗な色……」

 カクテルは液体状の宝石だと思っている。バイオレット・フィズは特にそう感じさせるカクテルだった。初めてルイに作ってもらったときは、美しすぎてなかなか口につけられなかったほどだ。

 美恵子さんは手首を回しながら紫色の液体を眺め、口に入れた。

「……美味しい。美味しいわ」

「そうですか」

「すごいのね……こんな美味しいものを生み出すなんて。私なんて料理も一切ダメだもの」

 知っています、とあやうく口から出そうになり、歪むほど口を閉じた。

「彼から習ったの?」

「はい。それと師匠と」

「お師匠さん……なんだかすごそうな人」

「すごい人ですよ。ルイも師匠も尊敬しています」

 珍しいこともあるもんだ。ルイはアイストングから氷を落とし、さらに掴み損ねている。面白い光景に、笑いが込み上げてきた。

「今日、ここに来て良かったわ。その、志樹にもまた会えたし」

「そうですね」

 美恵子さんはほっとしたように息を吐き、半分ほど飲んだ。

「もし師匠と呼べるような尊敬できる人ができたら、私も変われるのかしら」

「そのセリフは、もっと早くに聞きたかったです」

 客人に対して言うべきセリフではないと分かっている。けれど止められない。いつもいつも他人事のように振る舞い、飲み歩く姿は母であり母ではなかった。

「……あのときは…………」

「謝らないでいいです。俺も子供で、理解できないものがあった。あなたは何かの葛藤があり、いつも戦っていました。それは大人になってようやく分かり始めたところです。大人になった俺から今のあなたへ助言です。アルコール中毒だけは治して下さい」

 空気が張り詰め、眠気を誘うBGMが頭によく入ってくる。

 美恵子さんは顔を上げた。大きな瞳が潤み、頬が赤い。

「口数の少ない父は、あなたが夜遅くに出ていって寂しがる俺に対し、母さんは病気なんだと漏らしたことがありました。何が病気なものかと心では反抗していました。治そうと思っても、簡単にいくものじゃないです。でも、今ある家族を大事に思うなら、止めるべきだと思います。財布に息子さんの写真を入れるくらい、大事に思うなら」

 潤んだ瞳からは、ついに涙が零れ落ちた。俺が泣き虫なのは、彼女に似たのかもしれない。何度ルイに泣かされたことか。

「……大きく、なったわね……志樹」

 扉がベルを揺らし、店内のBGMをかき消すほど大きく鳴った。

 身体ががっしりとした男性が辺りを見回し、カウンター席を見ると大股でやってきた。

 筋肉質な身体のせいか、一瞬だけ父の姿が重なった。

「またお前は飲み歩いて! いい加減にしろ」

 他のお客さんが振り返るほど声の大きさに、ルイも口を開きかけたが、男性が頭を下げる方が早かった。

「すみません、大声を出してしまって。うちの家内が迷惑をかけませんでしたか?」

 家内という昔ながらの言い方も、父に似ていた。女は家を守って男は働くという、昭和を思わせるようなタイプだ。

「楽しくお酒を召し上がっていましたよ」

 当たり障りのないパーフェクト解答だ。俺だったら余計な一言で空気が毒まみれになっていただろう。酸素すら消滅させるくらいの。

「ほら、帰るぞ」

「だって、家に入れてくれないじゃない」

「酒を止めたらもう一度やり直そうって話をしただろう? 子供のためにも、がんばるって言ってたじゃないか」

「……私にも、できるかしら…………」

 グラスの氷が音を立てて崩れた。ここで働き始めて何度も聞いた、美しい音。美しい人が隣にいると、相乗効果なのか音もさらに美しく聞こえる。

「運動会も授業参観も、来てくれるの楽しみにしてるぞ。お前も行きたいって言ってたよな」

 酒が人を駄目にさせるわけではなく、その人の本性を暴く。

 旦那さんの言葉に、美恵子さんはついに唸り声を上げて泣き始めた。

「ごめん、なさい」

「いいんだ。なかなか酒は止められるものじゃない。失敗したら俺が受け止める。けど、お酒を飲む前に、子供の顔を思い浮かべてくれないか?」

「ええ……本当にそうよ。そうしないといけなかった」

「ああ、頑張っていこう」

「ごめんなさい」

 最後のごめんなさいは、俺をまっすぐに直撃した。

 俺は答えることができなかった。

 美恵子さんは三分の一ほどになった紫色の液体を眺め、ぐっと堪えて立ち上がった。彼女にとって、アルコールを残すことはさぞ辛いだろう。俺の作ったカクテルと二股され、俺のカクテルは振るい落とされた側だ。これが彼女の答えだ。

「あの…………」

「あなたはここに来るべきじゃない。お子さんを、家族を大事にして下さい」

 彼女が答えを出したのだから、俺も答えを出した。

 支払いは父に似た旦那さんがしてくれた。最後くらい、息子として何かできないかと考えていたが、最後の最後まで彼女とは縁がない。グラスの氷がまた割れ、良い音を奏でるが、慰められているようだった。

 店を閉めて片づけをしていると、ルイが背中を叩いた。

「お疲れ」

「おう」

「ゆっくり休んで、早めに寝ろ」

「うん……俺さ、うまくやれたかな」

 何を、とは聞かない。

 ルイは黙ったまま答えないが、丸々包み込んでくれた。背中の手が、今日はいつもより大きく感じる。

「あの人……美恵子さんって言うんだけど、俺が小学生だった頃に家を出ていったんだ。いつも朝帰りでお酒の匂いを漂わせてさ、そんなにお酒が好きなら家にあるのにって思ってた。子供ながら安易な考えだよなあ。運動会も授業参観もろくに来てくれなくて、その間も彼女はお酒を飲み続けてた。家を出ていって、連絡は何も来なかった。家族は元々母親はいないものとして扱ってた。まさかお酒の繋がりで、会うなんて思いもしなかった」

「縁があるんだろうな」

「俺もそう思う。あの人は俺たちの苦労は何も知らないんだろうけど、俺もあの人のこと、何も知らないんだよ。花岡美恵子になって、名字が変わって、今は別の姓になってると思う。元の姓すら知らないのに、母と言うより俺の子供時代を知っているお姉さんって感じ」

「血の繋がりがあれば何でも上手くいくと思うな。逆もしかりで、血の繋がりがなくても家族になれる」

 頭に浮かんだのは、美恵子さんの顔よりルイの麗しき兄貴だ。元気にしているだろうか。彼が男性と一緒にいる瞬間を見てから、どうしても不安がつきまとう。生まれた環境のせいで、好きな人と一緒になれない運命。性別の壁。ルイは神など存在しないと言うが、その通りなのかもしれない。

「男性同士も結婚できればいいのになあ……」

「……………………」

 背中に回されていた手がぴくりと動き、指先だけがいやに力がこもった。肉にめり込み、少し痛かった。

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