第41話 呪われた人生でも光を追う
難しく考える必要はなくて、シンプルに疑問を並べていく。なぜ彼は俺をドルヴィエ家の人間だと知っていたのか。なぜこのタイミングでやってきたのか。
申し訳ない気持ちより、無関係な人間だとユーリに思われていたことが腹立たしくて、勝手に部屋に入らせてもらった。ただの八つ当たりだ。
机の上にあるメモ帳から一枚切った形跡があり、鉛筆で上から軽く色をつけると、住所と電話番号が浮かび上がった。
苛立ちを込めたせいで、紙切れは簡単に皺が寄る。ポケットに詰め、飛び出すように家を出た。
思えば、カンヌに引っ越しをしてから学校以外で外に出ることなど今まで一度もなかった。家に帰ってくれば勉強だと部屋にこもり、夜はフロアでカクテルを作る。あれだけ外に出たかったのに、いざ出られる環境になると部屋から一歩も足を踏み出さない生活だ。解放されたかったのは心の問題で、俺は根っから室内が好きだと知った。
ビルの屋上に入ろうとすると、子供が来る場所ではないと止められてしまった。下手な言い訳をするより、一度外に出てメモ用紙に書かれた番号に電話をかける。
「ボンジュール。ルイ・ドルヴィエだ」
『ああ、昨日のお坊ちゃんですか。どうしましたか?』
「アポイトメントを取りたい。今すぐ。目の前のビルまで来ている」
息を呑む音が届く。俺は相手の出方を伺い、何も言わなかった。
一度ため息が聞こえると、三階まで上がってこいと厳しい口調ののち、一方的に電話が切れる。これでいい。お坊ちゃんなどと小馬鹿にしたような言い草よりもよほど対等に言い合える。
エレベーターで三階まで行くと、昨日の男性がいて、嘘臭い笑顔で手招きする。
「やあ。昨日の今日で来るとは思わなかったよ」
「これも計算のうちなんじゃないか?」
「とんでもない。心底驚いているのに。さあ、中に入って」
甲斐甲斐しく扉を開け、俺を誘導した。
ソファーに座る数人の男性たち。蛇のような狙った獲物は離さない目は、全身をくまなく見定めて前のソファーに座れと指示を出す。
出されたティーカップには口をつけず、俺も遠慮なく彼らと対峙する。
「俺の家族が絡んでいるんだろう?」
「何のことですか?」
「とぼけるなよ。ユーリを追いつめて、俺を奪い返そうとでもしているのか?」
留守の間に信頼の置ける妹を家に呼んだこと、タイミングよく彼らが家にやってきたこと。自己紹介をしていないのに彼らは俺の名前を当てた。偶然は重なれば必然にもなる。
「何のことかさっぱりですが、ルイ様からも説得して頂けませんかね? 店なんてどこでもできるでしょう」
「何が目的なんだ? そんなに金を積まれたのか?」
「あいにく、お坊ちゃんが思っているほど困っていなくてね。土地の管理人ってのは君が思っているより簡単な仕事じゃないんだ。付き合いや顔の広さも重要になってくる。君も将来は墓の管理に携わるのだから、覚えておきなさい」
「勝手気ままに人の人生を語るなんて、虫唾が走る。俺は関わるつもりはない」
「そうですか」
男は興味なさそうに鼻で笑う。俺も同じ態度を取れたらどんなに楽か。兄の言う話を笑い飛ばしてやりたいが、本人を前にすると身体が硬直してしまう。
「ここでドルヴィエ家の方とお会いできたのは何かの縁でしょう」
「偶然じゃないのか」
「いいえ、必然です。どうかルイ様からも口添えして頂けませんか?」
「俺に何の特もない。そもそもユーリが退かなければ、どうするつもりなんだ」
「無理にでも立ち退いて頂きます」
裏ではドルヴィエ家が関わっていると一目瞭然だった。あんな家に生まれた自分が憎い。一番憎いのは、何もできない俺自身だ。気持ちに従うままにここまで来ても、何の解決策すらない。
誰かからの電話に最初は驚いていたが、次第に穏やかになり、笑っている。彼らにとっていい話は、俺にとっていい話とは限らない。
電話が鳴った数分後、ドアのノックの後に男性が入ってきた。俺もいるのに、存在を無視して話を続けている。
自分が情けなくて、押し殺していたものが流れそうになる。歯を食いしばってこらえた。
大人たちが口頭の契約を交わした後、彼は俺の頭に手を乗せ、帰ろうと言った。大きな手は優しくて、我慢の限界はとうに越えてしまった。
止まれ止まれと願っても、涙は落ち続けるばかりだった。後ろから男性たちの笑い声が聞こえ、悔しさの混じった涙に変わった。
流れきった涙は車に乗ったときには落ち着いていたが、話すきっかけがない。
「何か食べたいものはありますか? せっかくなので、たまには外食にしましょう」
「……怒らないのか? 子供じみた身勝手な我儘で、ユーリの人生を潰してしまった」
「私が出した結論に対してあなたは口を挟まなかったのは、大人になった証です。おめでたい日なので、ケーキでも食べましょうか」
「何をばかなことを。一か月もすれば立ち退くんだぞ! 何もめでたくなんてない!」
「ええ、そうですね。でも、顧客はいますし店はどこでもできます。カンヌでなければならない理由はありません」
「俺の家族が絡んでいると知っていて、黙っていたのか? 裏で糸を引いているは父や兄だ。あいつらは俺を奪われた腹いせにユーリの店を潰そうとしているんだ」
「すべてあなたの憶測に過ぎませんね。遅いか早いかだけですよ。ルイと数年過ごした後、移転させるつもりでしたから」
悔しい。悔しい。悔しい。押し留めていたはずのものがまた頬を濡らしていく。吃逆に似た声が度々出てしまい、大人の前で涙することに苛立ちも感じる。
渡されたハンカチはミモザとカモミールが混じった香りがして、甘苦い想い出として一生残るだろう。
「ユーリと……もっと……」
「あなたは私の子供です。それはこの先も変わらない。ルイは大事な家族です」
欲しかった言葉をくれる。そうなりたいと願ってしまった自分を否定しないでいてくれたことは、未来に少しの光が見えた。こんな俺でも生きていいと、先を歩いて手を引いてくれる。
ミモザはいつも身近にあるものだったが、俺にとってこの瞬間は特別なものに変わった。
もし、これからの人生の中で俺にとって大事な人が現れたら、どんな形であれミモザを送りたい。あなたは大切な人だとミモザの花言葉を添えて。
個室での外食で、ユーリは質問を投げながら食事をする俺をじっと見つめた。どんな味がするか、チーズはどうだ、スープの熱さは等、奇妙な質問ばかりだった。
俺の味覚が異常だと気づいたのは、まもなくの頃だった。「飲食業では働けないな」とぼやいた俺に、ユーリは「諦め癖は私の元で直してやりたい。ついでに口の悪さも」と笑いながらも目は真剣だった。
ユーリとの同棲生活は、数か月で経終えてしまった。家に戻されてから一番初めにしたことは、兄を責めることでもなく、祖母の墓参りだった。定期的に誰かが来ていたのか、菊の花が新しい。
なくなってから気づいた幸せは大きいもので、寂しさを紛らわすように俺は勉強に没頭した。ユーリからとある提案をされたのは、俺が大学に上がる直前だった。国際バカロレアを取得し、少しの希望を持った大学生活をどう過ごすか夢見ていた頃、突然アネットが訪ねてきた。
なぜだと顔に出ていたのか、質問をするより先にアネットが答えた。
「聞いてない? ルイの家族と私の兄は接触禁止なのよ」
「ああ……それで」
どうりで訪ねてきてくれないと思っていた。
「随分大人になったわね。背も伸びて、声も変わった。ユーリから聞いたけれど、バーテンダーの仕事を学びたいって言っているそうね」
「他の誰でもなく、ユーリの元で学びたいんだ」
「出られるの?」
「バカロレアより難題だな。交換条件をつけられようとも、必ず出てみせる」
そうは言っても、牢獄から出られるような条件はこちらから提示できなかった。俺には何もない。名誉もお金も、あるのは家であり、何か渡すことなんてできなかった。
どこから噂を駆けつけたのか、助けてくれたのは母だった。仕事で忙しく国を渡り歩いているので、目の前に現れたときには放心状態だった。
──この子は私の息子よ?
おそらく、その場にいた大人たちは、普段面倒もろくに見ていないのにどの口が言ったのだと思っただろう。俺も子供ながら薄々空気は読んでいた。誰も女王様に太刀打ちできず、俺はまたユーリの元で暮らすことになった。
「バーテンダーとして生きたいと何度か聞いてましたが、家を飛び出すほど本気だと受け取ります」
「ああ。受験をしながらユーリに言われた通り、練習は続けていた。けれどどうにもならない問題がある」
「味ですね」
初めて出会ったときを懐かしむように、テーブルには桜餅と日本の湯呑み茶碗が置かれている。数年の間に変わったことと言えば、茶碗と俺の味覚だ。
「……味がしない」
「少しも? 葉は塩味が強くて、あんは甘いですが」
「塩味はつんとするから分かる。甘みも……多少は。桜餅の味がしない」
「ふむ」
ユーリは顎を何度か撫でた。
「まずは徹底的に基礎を鍛えることですね。スクリュードライバーであれば、ウォッカは四十五から六十ミリリットルが基本ですが、お客様の顔色を見て変えます。男性に勧められて何も知らずに飲む女性には、あえてウォッカを少なめにしたり、飲み慣れている男性であれば以前美味しいと言った適量、撹拌の回数を覚えたりします」
「客人の顔や細かな製法ををすべて覚えろということだな」
「記憶力はあなたの得意分野でしょう? 申し分のない学力で結構です。これからはびしびし鍛えて差し上げます。十八歳になったら、勉強に支障のない程度で店にも立たせましょう。言葉遣いもみっちり教えますからね 」
ユーリは俺の頭を撫で、日本語で「これから家族として、お願い致します」と告げた。日本語も学びたい。ユーリやベルナデットが好きな国だからこそ、俺も興味がある。
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