第七章 悪魔と恋の取引を

1 壊れた兵隊

 私は、ジャックと共にリデル邸に戻った。正門前の切り株にベアが腰かけていて、私たちに気づくと両手を開いて立ちあがる。


「帰りが遅いから心配していたんだよ、アリス! おや、トゥイードルズとリーズはどうしたんだい?」

「悪いけど、あいつらはもう帰ってこない……」


 ジャックが告げると、ベアはがく然とした。


「三人とも帰ってこないだって!? どうしてだい、アリス!」

「今はお話しできません。お帰り下さい、ベア叔父さま」


 冷たく言って通りすぎるが、ベアはレンガ敷きの遊歩道を追ってくる。


「納得できる説明をしてくれ! かわいい我が子たちはどうなったんだ!!」

「おっさん。今はそっとしておいてくれ」


 ジャックが制止する声を聞きながら、私は屋敷の中へと入った。

 まっすぐ自室に向かい、コートとワンピースをぬぎ捨てて、アンダードレス姿のままでベッドにひっくり返る。


 窓越しに見える空は黄昏たそがれだ。もうじき暗い夜が来る。


 家に帰らないと決めた子どもは、どこで夜を明かすのだろう。

 ここより寒い場所だろうか。ここより孤独な場所だろうか。


「ダム、ディー、リーズ……」


 名前を呼んでも答えはない。

 分かっていても、つい口をついて出る。


 涙がこぼれて頬を伝い、シーツにポタポタと落ちる。

 その音は、いつかの雨音より重かった。


 ぼんやりとしているうちに空は闇色に染まる。

 ――夜が来てしまった。


「お嬢、ベアは追い帰したぞ。……泣いているのか」


 部屋に現れたジャックは、ベッドに腰かけると指で私の涙をぬぐった。


「もう戻らないもののために泣くな。悲しくなるだけだ」

「泣くから悲しくなるんじゃないの。悲しいから泣くのよ」

「同じだろう?」


 ジャックは不可解そうに眉をひそめた。


 私は、後悔の涙が無駄だとは思えない。

 けれど、彼にはそれが理解できない。


 彼にとって問題なのは『アリス』が泣くことだ。

 なぜ泣くのかを感じ取ってはくれない。


 それがさらに悲しさを増幅させて、私は彼に八つ当たりしてしまう。


「ジャック。どうして私の分の『烙印スティグマ』も受けたの? よみがえるからには、私も『悪魔の子スティグマータ』になるべきだったのに、どうしてならせてくれなかったの?」


「簡単に言うな。旦那様も奥様も天国にいらっしゃるのに、お嬢だけ地獄に落とすわけにはいかない」

「あなたは、みんなが天国にいると思っているの?」

「当たり前だ。天のうえからお嬢が幸せになるように見守っていてくださる」


 迷いのない返答に、私は返す言葉さえ失った。


 ジャックは、『アリス』の父と母が、かつてリデル家で共に暮らした使用人のみんなが、天国に昇ったと信じている。

 主人の一人娘を守る執念で、悪魔との取引にも応じた。

 平気で自分の命を汚して――。


(ジャックの心は、あの凄惨せいさんな夜にしまったんだわ)


 そして、壊れたことに気づかないまま、私に付き従ってくれている。

 私は、そんなジャックを直してあげることも、捨てることもできない。


「ジャック、これだけは言わせて。私が『烙印』を受けるべきじゃないなら、あなただって受けるべきじゃなかったのよ」


「変なことにこだわるな。イーストエンドで思い知っただろう。命は平等で、無価値なんだ。世界の片隅で、一人や二人よみがえったって、誰も気にとめない。烙印を受けていない『悪魔の子』がいたって、誰も気づかない――」


 ジャックは、幼い子供を寝かしつけるみたいに、私をベッドに押し倒した。

 私は身を固くしたが、彼は隣にうつぶせに転がっただけだった。


「ジャック……?」


 上向いた私の手に、ジャックが手を伸ばして重ねてくる。


「忘れてしまえ。寝て起きたら、また一からリデル男爵家ファミリーを作り直そう。お嬢がここにいるなら、何度だって再生できる……。お嬢さえ、失わなければ…………」


 つぶやくジャックの手の甲に『烙印』が浮かび上がる。

 感情が高ぶっている印だ。その証拠に、繋いだ手が火のように熱い。


「罪も罰もオレが受ける。だから、お嬢は、このままで――」


 ジャックは目を閉じて、スウスウと安らかな寝息を立てはじめる。


 目蓋の下から、涙がひとすじ流れるのを見て、私はくちびるを噛んだ。

 ジャックだって、家族同然だった三人と離れて、悲しいのだ。


「あなたも泣きたかったわよね。気がつかなくて、ごめんなさい……」


 起き上がってブランケットをかけた私は、窓の向こうに人の気配を感じた。

 見れば、差しこむ月光が人型に陰っている。


 足音を立てないように移動して、バルコニーへの窓を静かに開く。

 蔦が伝った手すりにもたれて夜風に吹かれていたのは、見慣れた人物だった。


「やあ、いい夜だね。アリス」

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