第2話・母ちゃんにお願いだ

 下校時間。秀がランドセルを背負っていると、先に帰りの身支度を済ませた蘭子に声をかけられる。


「豊臣さん」

「ん? 何?」

「塾に入るなら、絶対に蘭のところにしてね。待っているから」


 くぎを刺されてしまった。


「お、おう……」

「じゃ、また明日」

「おう、またな」

 

 教室を出て行く蘭子の後ろ姿を見送りながら、秀は後戻りできなくなってしまったことに、ようやく気がついた。


 どうしょう。本当は塾なんて行きたくない。勉強なんてしたくないんだー! と、秀は心のなかで叫んだ。

 塾なんか入っても、絶望的なだけ――だけど、せっかく森が塾に誘ってくれたんだ。普段、クラスメイトとほとんど話さない森が、だ。

 それって、もしかして、もしかすると、他の奴らとは違うってことじゃないのか? 

 そう考えると、ここで頑張らなきゃ森とは友達じゃなくなる気がするし……それに俺は、猛烈に森の好きな奴が気になって仕方がないんだー! と、秀は考えを切り替える。


 ――早く帰って、母ちゃんに塾に通いたいって言わなきゃ!


 居ても立っても居られない秀は、一緒に帰る友達を置いて家まで全力で走った。

 無我夢中で、だ。

 秀が住む十階建て黄色いタイルのマンションに着くと、エレベーターが運悪く最上階に止まっていた。待っている間も惜しいと感じ、階段を四階まで駆け上がる。

 すると、偶然に母親が家のドアを開けている所に遭遇した。

 黒と明るい茶色のツートンカラーセミロングに、淡いピンクのパーカーとジーンズをカジュアルに着こなしたアラサー。若い頃、やんちゃだったせいか年齢より少し若く見える秀似の母親だ。


「あ、秀。おかえり」

 共有廊下をバタバタと走る秀に気がついて、母親は笑顔で手を振った。

 これから勉強嫌いの息子が、耳を疑うような信じられない言葉を口にするとは夢にも思っていない。

 玄関ドアを開けて待っている母親に、秀は切羽詰まった顔で歩み寄りながら叫んだ。


「母ちゃん。俺、中学受験がしたいんだー!」


 すると、母親はきょとんと目を見開く。


「え? 急にどうしたのよ。熱でもあるの?」

「違うよ! どうしても戦国アカデミーっていう塾に通いたいんだ」

「戦国アカデミーって……あの駅前にある大手進学塾じゃない。本気なの?」

「ほ、本気だよ。今日、同じクラスの森って子に進められたんだ。大学受験が変わるから、少しでも勉強しておいたほうがいいって言われて……」


 本当にこれでいいのだろうか?

 秀は自分で言っていて、尻込みしてしまう。最後のほうの言葉はごにょごにょとしていて聞き取りにくい。

 だけど、秀の言葉に母親は心を打たれてしまった。


「ああ、ついに! ついに! あんたも遂に! 勉強をする気になったのね‼ 母さん嬉しい……」

「お、おう。って、泣くなよ」


 目を潤ませる母親。秀が塾に行きたいって言ったことが、そんなに嬉しいことなのだろうか?


「実はね。母さんも大学入試のことは気になっていたのよ。同じパートさんが、今の子供たちは土台が固まっていない不安定な大学入試に振り回されるんだから、面倒見がいい私立に行ったほうが安心よって言われていて……だから正直、母さんもあんたの将来が不安だったのよ」


 秀の母親は、駅前の大手ファミリーレストランチェーンでホールのパートをしている。そこで仲良しのパートさんの六年生の子供が、今年中学受験をするらしい。


「あ! でも、俺、ネット動画で有名になるから心配すんなって!」

「はいはい、そうだったわね。でも、もし夢が途中で変わったときに備えて、やっぱりある程度の学歴は必要よ。って、せっかく秀がやる気になったんだし、気が変わる前に戦国アカデミーに電話しちゃいましょう」


 と言って、母親はいそいそと家の中へ入っていった。持っている荷物を定位置に置いて、カバンからスマホを出す。

 若い子に負けない手さばきで、戦国アカデミーの電話番号を検索。即座に電話をかけたのだった。


 

 同じ週の土曜日。晴れ。午前八時四十五分。

 月一回行われている入塾テストを受けるために、秀と母親は戦国アカデミーにやって来ていた。

 家から戦国アカデミーまで徒歩二十分。

 秀の土地勘がまだまだ磨かれていないせいなのか、はたまた全く興味がないせいなのか。

 駅前には大手から個人まで進学塾が密集していることを、母親に教えてもらって初めて知った。

 それぞれの看板がかなり主張しているのに、秀は今の今まで全然気がつかなかったのだ。


 蘭子が通う戦国アカデミーも、かなり目立っている。駅南口を出て目の前にある大きなビルの二階と三階に入っていて、窓に大きく緑ベースの白い字で『戦国アカデミー』と書かれている。かなりの存在感だ。


 ――それにしても、何でこんなにも塾があるんだ? 学校以外に勉強して何が楽しいんだ? と、秀は首を傾げる。



 母親が受付でアンケートを記入している間、隣に立つ秀は奥の職員室に似た空間に目を向けた。

 そこには塾の先生と思われる人たちが、忙しそうにそれぞれの作業をしていた。

 掲示板にはテストの結果は貼られていて、空いている壁も色々な学校の説明やポスターなどが貼られていた。

 

 受付のお姉さんが、

「アンケートを書いて頂いてありがとうございます。それでは、保護者の方はこちらで説明会に参加して頂きます。秀さんは今、案内の人が着ますからここで待っていて下さい」

 と言って、母親をすぐ近くの教室に案内した。


 それからすぐ、秀はスーツをビシッと着た男性に連れられて、五年生が入塾試験に使う教室へと案内された。

 学校の教室より少し狭い教室には、ふたり用の長机が横に二列、縦に七列に並んでおり、見慣れない光景に変な感じがした。

 すでにふたりが静かに待つ中で、秀は(絶対に俺だけかと思ったのに、二人も来ている!)と、目をぱちくりさせた。


 一体全体どうなっているんだ?

 こいつらは、休みの日まで何でテストを受けに来ているんだろう?

 好き好んで学校以外で勉強をしたがる奴がいるのか?


 様々な疑問が浮かんだ。そして最終的に――分かった! こいつらは、俺みたいに気になる子がいるんだな。と、いう結論に至った。

 ひとり納得してから、秀は誰もいない席に座ると、同時にグレーのスーツを着た年配の女性の塾講師が入ってくる。


「五年生の皆様、今日は入塾テストを受けに来てくれてありがとうございます。それでは、テストを配りますね」


 表に算数と書かれた問題用紙を、塾講師が三人に渡した。

 学校のテストと違って冊子になっている。

 ――何だ、これ? これがテスト!? 六ページもあるんだけど!

 いったいどんな問題が書かれているのやら。急に秀は緊張してきた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます