第一章・始め半分。

第1話・とんでもない方向へ

「おはよう!」


 騒がしい教室に、元気な声が響いた。

 たれ目にツンとした眉毛。明るい黒髪で短髪。人懐っこい笑顔の持ち主が、五年一組の教室に入ってくる。


「おはよう」

 入り口近くに置かれた教員机で、作業をする担任の黒田成美先生くろだなるみが挨拶を返してきた。春らしいピンクのワンピースを可愛く着こなしている。

 豊臣秀とよとみしゅうは、黒田先生の顔を見て挨拶をする。


「おはようございます」

「今日も元気ね。宿題をやってきていたら、そこに出してね。もちろん、宿題はやっているわよね?」


 黒田先生は、戸棚の上に置いてある宿題入れを指差した。


「は、はい。もちろんです……」

「ん? 語尾が自信なく聞こえたんだけど?」


 穏やかだけど睨みを効かせた質問に、秀は一歩後ろに下がった。


「ほ……放課後までには必ず出します! あははっ」

「笑ってごまかしている場合ではありませんよ。豊臣さん。あなたはもう高学年なの。宿題はちゃんと家でやってきてね」

「はい。分かりました」

 先生に頭をぺこりと下げて、秀は自分の席へと向かった。


 新年度。この春、秀は最後のクラス替えを終えて、小学五年生になった。

 始めは何となく慣れない環境に、クラスメイトのほとんどがぎくしゃくしていた。

 だけど、二週間が経過した今では、女子も男子もすっかり順応して仲良い雰囲気だ。

 

 そして今のクラスになってから、秀には気になる女子ができた。

 名前は、森蘭子もりらんこ

 前髪ぱっつんに、ストレートの長い黒髪。

 小柄で色白。毎日フリルがついた可愛い系の服を着ていて、いつも眠そうな目をしながら常に本を読んでいる大人しい女子だ。

 綺麗な顔立ちなのに、クラスの目立つ女子グループにいないせいか、男子はほとんど空気扱いをしている。

 だけど秀は、同じクラスになる前から彼女の存在に気づいていた。


 廊下ですれ違うたびに、『可愛いな』と思っていた。けれど、蘭子に対する意識はそのくらいで、自分の気持ちを深く考えていなかった。

 お人形のように可愛らしい蘭子を見かけると、何となく気になってチラチラ盗み見るだけだった。


 だけど、二年に一度のクラス替えで蘭子と初めて同じクラスになった今、秀は自分自身の気持ちを知った。

 他の女子とは違う。蘭子の綺麗な顔を見るたびに、心臓がバクバクする。今にも飛び出しそうだ。気になって仕方がない。


「森、おはよー」

「あ、豊臣さん。おはよう」


 今日も席で本を読む蘭子の姿は眠そうだ。だけど、不思議と知的な雰囲気も漂っていて、他の女子とは違う可愛さがある。ずっと見ていたいくらいだ。

 くじ引きで隣の席になれたのは、本当にラッキーだった。話しかけても不自然じゃない。


「ふーっ」

 突然、蘭子が本を置いてため息をした。表情もどこか暗く見える。

 そして――


「電池の充電が足りない……充電不足。ノーブル充電が必要……ピーピピピー電池切れです……」


 意味不明な呪文をつぶやき始めた。

 たまに蘭子は、意味不明なことをつぶやいている電波なところがあった。そのことは、秀も何となく気がついていた。

 だけど今は、あからさまにおかしかった。電波すぎる!


「え? だ、大丈夫か? ノーブル充電ってなんだ!?」


 聞いたことがない充電の名前に、秀は気になりすぎて聞いてみる。

 すると、蘭子が驚いた様子で顔を上げた。


「……蘭、そんなこと口にしていた?」

「うん、思いっきりしてた!」


 秀が力いっぱい頷くと、蘭子は少し頬を赤らめた。そして、恥ずかしそうに目を逸らす。


「そう……聞かれたから話す……ノーブル充電ってね。蘭の好きな顔の男の子のことなの」


 

 秀の頭上に『がーん!』と、漫画のような効果音が鳴った。

 森に好きな奴がいたなんて、まじでショックすぎる!


「そそそそそ、そいつつつつ、ど、どどどこのどいつだ!?」

 だけど、秀は諦めなかった。動揺しながらも話に食いつく。


「塾の子」

 秀の気持ちなんてつゆ知らず、蘭子はさらりと返してくる。


「え? 今なんて?」


 秀は耳を疑った。聞き間違えたのかと思い聞き直す。

『塾?』って……中学生とか高校生が勉強しに行くところの塾のことか? 小学生が行くなら、塾じゃなくて公文式公文だよな? と秀は思った。

 でも、やっぱり聞き間違えではなかった。蘭子は重ねて同じことを口にする。


「塾の子」

「え? じ、塾!?」


 学校で勉強するだけでも嫌気がさすのに、更に塾へ行って勉強をするなんて『とんでもないことだ!』と、秀は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 だけど、そんな秀を無視して、蘭子は更に奇妙なことを口にする。


「蘭、中学受験するの」


 ほんの一瞬だけ、秀の頭が真っ白になった。

 そして、すぐに脳裏に浮かんだ言葉。


 中学受験ってなんだ?

 受験。それって、高校や大学に入るためにするもんじゃないのか?

 秀にとって『受験』とは、まだほど遠い漠然とした未来の話だった。


「へ? それって……何?」

「地元の中学校に行かずに、私立の中学校に行くの」

「へ? 何で? すぐそこに中学校あるじゃん」


 秀が住む地区は都内二十三区の千葉よりで、中心部に比べると私立中学受験率は低い。クラスのほとんどが、地元の中学に進学をする。

 そのせいか、中学受験を知らない子も中にはいるらしい。秀もその一人だ。


「うん。私、可愛い制服が着たいの」


 またしても秀の頭上に『ががーん!』と、効果音が鳴った。

 可愛い制服が着たいだけで違う中学に通うのか!? せっかく仲良くなれたのに……ショックすぎる!

 心に受けたダメージが大きすぎて、もはや言葉すら出てこない。

 口をあんぐりする秀。動揺を隠せないでいると、蘭子が顔を覗き込んでくる。


「もしかして、中学受験に興味があったりする?」

「へ? ……あ、う、うん!」


 上目づかいで問いかけてくる仕草があまりにも可愛くて、秀は思わず頷いてしまった。考えなしに、だ。


「なら、蘭の通う塾がいいよ。先生の教え方が凄く丁寧。豊臣さんも、きっと気に入る。大学受験が変わるから、高度な勉強に早めに慣れておいたほうがいい」

「そ、そうなんだ……。帰ったら母ちゃんに相談してみようかな。あははは……」

「それがいい。きっとお母さんも喜んでくれる」

「そっか。楽しみだなー」


 本当は塾なんて興味がなかった。

 大学入試だって、高校になってから考えればいい話だ。

 それなのに――気になる子の些細な一言に、秀の小学生生活はどんどん取り返しのつかない流れになっていった。

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