episode36:早見透子


♯♯♯


 

 文化祭の準備を一通り終え、少しの間だけ僕は神楽に許可を貰って、自転車でとある病院に向かっていた。


 病院の名前は、紫苑しおん病院。

 町中の小さな病院で、腕利きの医者がいるということで地元では有名な話だ。


「……っと、忘れてた。母さんと会うときには、これをつけておかないと怒られてしまう。危ない危ない……」


 「指を、大切にしなさい。これを外で出歩くときには必ずよ」という師匠であり、元プロピアニストである母、早見透子とうこの教えを僕は守り、普段はつけていない手袋をしっかりつけ、病院の裏に位置する駐輪場に入り、鍵をかける。


「……母さんに会うのは、いつぶりかな?随分久しぶりな気がする」


 学校の購買部で買ったお見舞い用のデザートと果物がカバンの中にあるのを確認して、そういえば飲み物を買っていないことに気づき、近くに販売機がないか辺りを見渡してみる。


「えっと……よし。あった、あった。それにしても、販売機を考えた人は偉大だよな。困ったとき、喉が渇いたときに九割の確率で見渡せば販売機が設置されているんだから」


 お金を入れて飲み物を買い終える。お店で買ったほうが安いのは知っているが、タイミングがいいのか悪いのか、つい自然と販売機に向かってお金を入れているあたり、企業側側から言わせてみれば僕は相当なカモの部類に入るだろう。


 そんなことを思いつつ、温かいお茶を三本買って二本はカバンの中に入れる。


 そして、残りの一本は近くのベンチに座って、目の前の紫苑病院を眺めながらキャップを開けて、口に入れた。


「ごくっ……ごくっ……っ、はぁー……。温まる」


 手袋越しだとどうにも飲み物の温度が感じにくいが、冷え切った指先が先ほどまでと違い、少しずつ温かくなるのを感じて、ホッと一息つく。


 吐き出す息が白くなっているのを確認し、もう一度見たくなるのは、僕だけだろうか。

 淡く切なく、白いのに暖かくて、それでいて、なんだか儚い……。


 こんな気持ちで奏でる曲は、中々いい音になるんだよな。

 アレンジにも変化が多いから、音の構成が今もどんどん浮かんでくる。

 あとで、家に帰ったらこの音を奏でてみようと考えつつ、腰を上げる。


「……よしっ、行こう」


 空になったペットボトルを横のゴミ箱に入れて、紫苑病院に歩き出し中に入る。


 ――――独特の香り。

 病院はどこに行っても変わらない。


 ツンとした消毒液の匂いと、生死を交互に跨ぐ独特の香り。

 感情が最も重く伝わるこの場所は、僕にとって決して居心地の良いものではなかった。


 病室に「早見透子様」と書いてあるドアの前にたどり着く。

 車椅子でも簡単に開けれるように取っ手が低く設置してあるこのドアを開けるのは、今日で一体何度目だろうか。


 その場で立ち止まり、息を無意識に止めてしまう。

 あと何回開ければ、このドアを開けずに済むのだろうか……。


 何度も、何度も、何度も……。

 そのドアを開け続けた。


 僕が年齢を重ねるとともに、痩せ細くなっていく母。

 その姿を見るのが本当に辛くて、次第に足を進めるのが怖くなり、病院に行く回数も減っていた。


 思い出すだけでも目頭が熱くなるのを感じるが、いつまでもその場で立っているわけにもいかない。


 深呼吸をして、母さんの前で何度も被り続けていた仮面を付け、満面の笑みでドアを開ける。


「久しぶり、母さん」


「優人じゃない、久しぶり」


「母さん、その帽子っ……っ」


「あっ、これでしょ、びっくりしちゃった?お医者さんが言うには副作用みたい、なかなか味のある髪型でしょ?」


「うん……。ちょっと、ね。でも、すごく似合っているよ」


 僕は戸惑いを隠せずに、その場で目を覆いたかった。ついこの間まで腰まであった長く美しい黒髪が今は肩まで短くなっていて、病室なのに白色のニット帽を被っていた。恐らく、副作用でそうなってしまったのだろう。


 変われるものなら変わってやりたい。

 世界には母さんを必要としてくれている人たちが沢山いるというのに……。

 思わず、自分の両手が強く血が出るほど握り絞めてしまう。


「あらあら、もうっ……、困った子ね。ほーら、強く握っちゃったら指、痛めるわよ」


 細く、痩せ細った母さんの指先が僕の手の甲に優しく触れる。


「あっ……その、ご、ごめん。その……白色のニット帽が思わず欲しすぎてつい、握り絞めすぎていたよ」


 誰でもわかる下手な嘘。音で感情を理解するのが得意な母さんのことだから、僕の言葉が嘘なことも既に気づいているだろうけど、優しく微笑んで、僕の言葉を上手く紡いでくれる。


「……ふふっ、ありがとう。気に入っているから、優人にはあげないわよ?それより、今日はどんなデザートと果物を持ってきたの?母さん、それが楽しみで毎日ドアを開くのが優人でありますようにって願ってたんだから」


「あ、うん……。えっと……この間はチーズケーキだったから、今日は最近テレビで話題になっていた桃色のパンナコッタだよ。果物は季節に合わせて苺にしてみた」


「ふふっ、美味しそうねぇ……。もうすぐあの子も来るから、三人で食べましょう?」


 母さんがそう言った矢先に、タイミングよく病室のドアが開く。


「透子ーっ、またピアノ教えてーっ!」


 入ってきたのは隣の病室から慣れた手つきで鍵盤ハーモニカを持って、頻繁にこの病室に遊びに来ている青みがかった髪色の少女は、随分見ない間に大きくなっていた。


「あーっ、優人だっ!」


「久しぶりだね、兎亜ちゃん。随分大きくなったね」


「ふふんっ、育ち盛りですから!中学生舐めないでよね!」


 胸を張りながらも、元気いっぱいな彼女の名前は雨宮兎亜あまみやとあ、母さんが僕以外でとった唯一の弟子であり、女の子だ。




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