episode26:音羽さんの方が凄いじゃないですか、少し嫉妬してしまいます


 白雪が店長とのピアノレッスンを終え、音羽とお店の買い出しに出かけている間、僕の練習時間になった。月の兎での仕事は午前のシフトで調整して入れてもらい、夕方から夜にかけては一人、集中して練習に取り組むことができた。


 両手の指をいつものように曲げ伸ばしして、大きく深呼吸をする。鍵盤に両手を置き、右足にペダルを軽く乗せてアップテンポで指を走らせ、ピアノを弾く前の準備運動をしていく。


 ただ頭に浮かんだ好きな音をひたすら拾って鳴らしながら頭に浮かんだ音を一つ曲として組み合わせてアレンジしていく早見流即興曲。


 やはり、これをしないと指が上手く動くのに時間がかかってしまう。すぐに動かすことができたらいいんだけど、如何せん僕の指はスロースターターという何とも情けない話である。


 準備運動を終え、先ほど「練習中にお腹がすいたら食べて下さいっ!」と、丹精込めて作ってくれた最近話題沸騰中の白雪特製握らないおにぎりこと、おにぎらず(中身は鮭)を頬張り、「美味いっ!」と、温かさを感じながら、気合いを入れて再びピアノの練習をすることにした。


「せっかくスタインウェイ・アンド・サンズを使って弾くのだから、この曲以外の練習は有り得ない」


 ――――セルゲイ・ラフマニノフのピアノ独奏曲練習曲集「音の絵」作品33。


 全体的に超絶技巧を必要とするエチュードの一つで、CRSで僕自身よく使う即興アレンジ内での手の交替とシンコペーションの練習には打って付けの練習曲だ。


「シンコペーションのキレがまだ現役と比べるとまだ甘いな。もう一度」


 シンコペーション。いわゆる切分法せつぶんほうと呼ばれるその技法は、拍子、アクセント、リズムの正常な流れを故意に変えることで、独特の効果をもたらしてくれるCRSアレンジには、必要な技術の一つだ。


 ムソグルスキーの「展覧会の絵」や、ドビュッシーの「映像」なんかは、視覚と音の融合をしている印象だが、タイトルを設けない「音の絵」というラフマニノフのコンセプトは、抽象的な絵画のように淡く切なく、それでいて言葉と音が象徴しているとおり、想像を音楽として連想していた。


「確か、自由にイメージを連想して思い描くことだったよな」


 まだまだ力が足りない。歴史に刻まれる本物の天才たちを理解するのは、僕のイメージ力とアレンジ力では、あまりに遠い距離があった。


 だからこそ、本物の天才たちに勝つためには、何度も何度もんだ。


 過去、僕がイメージしていた「死」への自己表現。

 僕の過去を知りながらも、決して踏み込まずにずっと見守ってくれていた音羽。

 「生」への自己表現で僕を否定し、音楽の世界に引っ張り出してくれた白雪。


「……今までの人生を否定する音。新たな音への挑戦、ってところか」


 今の僕の技術ではイメージはできているが、その音を奏でられるかというと、まだ想像はできても創造ができない。だからこそ……。


「……求め続けるしかないんだ」


 吹き抜ける風の音、僕は必死に求め続ける。

 その音の向こう側に辿り着けるように。

 

 何度も、何度も……。

 時間の許す限り弾き続けた……。



【~音羽side~】


 

 買い出しを終え、お店に戻ると「ついでに早見君を呼んでもらえないかい?話があるんだ」と父から言伝を預かり、白雪さんと共に早見君のいる会談室へ向かった。


 こっそりドアを開き、覗いて見ると普段は見られないピアノ練習をしている彼の姿は、凄く真剣な顔で音とピアノに向き合っていた。


「彼がピアノに向き合っているとき、あんな表情をするのね」



 ――――そんなに、僕のファンなんだな。流石ファン一号なだけはあるっ!今度、僕の家で音羽だけの為にピアノを弾いてやるよっ!



「……あの時は、びっくりしたわ」


 普段笑わない彼が少しだけ微笑みながら紡いだ言葉は、優しくて、切なくて……。

 少しだけ胸が痛くて締め付けれて、なんだか泣きそうになった。


 私は、早見優人という青年の過去を知っている。


 だからと言って彼の全部を知っているわけではないけれど、出会ってから語ってくれた彼の言葉は、一言一句聞き逃さずにしっかり覚えている。


 だからこそ、少しでも彼の力になれればな、と常々思っている。


 でも、彼自身がその力に頼りすぎてしまっているのでは?と疑問に思った時点で、その優しさから、私から逃げてしまうんじゃないかと思っている。


 彼は苦笑いしながらも「そんなことはしないよ、音羽は臆病だなぁ。僕の恩人じゃないか」と、言ってくれるだろうけど、彼は徐々に距離を置くだろう。


 だから、私は気づかれないように、慎重にそっと見守るように意識していた。


 あなたから踏み込もうと、今ある私の精一杯の力を全て尽くしていいよと思ってくれるその時まで、ずっとずっと待ち続けようと心に誓っていた。


 しかし、事態は急変した。

 彼は、私の知らないところでその出来事に巻き込まれ、出会ってしまったのだ。


 隣にいる彼女の存在が、踏み出せなかった私の勇気を飛び越え、音楽の世界に連れ戻してくれたのだ。


「パパは、新しい音を作ろうとしているんですね。凄いですっ」


 彼女の名前は、白雪さん。


「……白雪さんは、彼の音を聞いただけで何を考えているかわかるのね。凄いわ」


 思わず、ため息が出そうになるのを抑える。

 打算し、考え、結論を出しては、臆病で踏み出せない私とは違う存在。


 私よりも音で彼の感情を理解して、何度も彼の心にどんどん臆することなく踏み出している。そんな彼女を私は心の底から尊敬し、同時に羨ましくもある。


 ……いいえ、違うわね。

 羨ましいだなんてそんな綺麗な言葉ではなくて、きっとこれはもっと汚くて醜い感情。


 ……嫉妬、なのかもしれないわね。


「えへへ、ありがとうございますっ!私はパパの娘ですから当然ですっ!……でも」


 常に笑顔で明るい白雪さんからは想像できないくらい、不安そうに目を伏せ、苦笑いするその姿はここに来て初めて見せる表情だった。


「音羽さんの方が凄いじゃないですか、少し嫉妬してしまいます」


「……えっ?」


「だって、パパ。私といるときよりも、音羽さんと一緒にいる方が少しだけ安心して喋っていますよ。他の家族の定義を私は知らないですけど、きっと本当の家族ってこういう空気なんだなぁ……って、感じました。えへへっ、すみません。生意気言っちゃいましたか?」


 心配そうに私を見る白雪さん。

 ああ、そういうことだったのね。

 この子は早見君の言っていた通り、人の感情に敏感で優しすぎるわ。

 

 私の嫉妬したという感情を音で読み取り、すぐに私自身が心に引っ掛かりを思わせないように自らの言葉で誘導してきたのだ。


「……いいえ、私の方こそごめんなさい。私の感情に気がついていたのでしょう?」


「い、いえっ!私のほうこそ、ごめんなさいっ!余計なお世話でしたか?」


 彼も、感情に敏感なところはあったけれど。

 やはり、血が繋がっていなくても親子なのかしらね、似すぎているわ。


「ふふっ……いいえ、ありがとう」


 白雪さんの綺麗で真っ直ぐな優しさを無下にしたくない。


 お礼というわけではないけれど、私は白雪さんに誰にも言ったことがない秘密を少しだけ教えてあげることにした。


「もしかして私たちは似ているのかもしれないわね。あなたのパパに対する感情とか、ね」


「……えっ!?それって、もしかして……え、えぇぇぇぇぇぇ!?もしかして音羽さん、パパのことが」


「ふふっ……さぁ、行くわよ」


 目を見開き驚きながら赤面する白雪さんに満足した私は優しく彼女の手を引っ張りながら、早見君のいる会談室のドアを開いた。


 止められない気持ちは、いつも私に勇気をくれる。

 彼の心に一歩ずつでも、近づけているか分からないけれど、進めていると嬉しいわね。

 私は、いつもより気持ちが高揚し、彼に話しかける声音が少し高くなっているのを感じた。



「――――早見君、父から話があるみたいよ」



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