episode25:この匂いは、春にしか味わえない白雪色の匂いだね


 あれから一週間が経ち、次の大会まで一ヶ月を切った。この光景を何度目にしても未だに信じられないのはきっと、今までの行動や発言、その立ち振る舞いからその人物がきっとこういう人物なのだと勝手に思い込んでいたからなのかもしれない。


「そっーと……よし、バレてないみたいだ」


「誰がバレてないですって?」


「げっ、音羽」


「はぁ……。あなたね、いくらうちのお店が暇だからって仕事中よ。行くなら私も誘いなさい、私も白雪さんの弾いているところ見たいもの」


「おいおい、サボりはいけないんじゃなかったか?」


「当然じゃない、あなたと違って私は真面目に働いているわ。これは、そうね……。父がサボっていないかの確認よ」


「あははっ、物は言いようだね。音羽のそういうところは好きだな」


「……~~っ、バカ。い、行くわよ」


「どうして今僕は罵倒されたの?」


「知らないわ、自分で考えなさい。早見ロリ人君」


「あれ、ちょっと待て。今僕の名前が変わったような気がするんだけど」


「気のせいよ、ロリ君」


「いやいや、全然気のせいじゃないよね、それ。ちょっとその呼び方について話をしたいんだけど」


「ふふっ、冗談よ」


「釈然としない」


 あとで、このことについては抗議するとして。

 

 僕達は、仕事中にどうしても白雪ことが気になって、時間が空くたびに会談室のドアをこっそり開けて、その様子を見ていた。


「んー……まだ、自分のものになっていない気がします」


「そこは体全体を使ってしまうと、重々しい印象と音が一緒になって観客に伝わってしまうから、音の出し方と奏でる雰囲気を変えてみようか。ここの旋律は、楽しい雰囲気で弾いていることを伝えたいところだから、cantabileカンタービレを意識しながら音を出してみると雰囲気が変わるよ。さぁ、やってみよう」


「はいっ、わかりましたっ!」


 白雪は言われたとおりに奏で始める。

 音の印象が変わって、白雪も「おおーっ!」と声に出していた。

 思ったとおりの音になって、納得したようだ。


「うんうん、そんな感じ。次は、この曲を弾いてみようか」


「ベートーヴェンさんの6つのエコセーズですね!頑張りますっ!!」


「へぇ、初見でいけるかい?」


cantabileカンタービレ、ですよね?」


「……君、生徒としては優秀過ぎるね」


「いいえ、パパ……こほんっ。優人さんと比べるとまだまだですよ。優人さんならもっと理解して弾きますから。いきますっ!」


 ドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン「6つのエコセーズ」。


 音楽家の命とまでされる耳の状態が二十代後半から悪化していき、聴覚の殆どが失ったベートーヴェンだが、彼は死の淵まで追い込まれることで飛躍的な成長を見せた時代の曲の一つでもある。


 他にも、ピアノソナタ第23番「熱情」や、レオノーレ序曲第3番、交響曲第5番「運命」など、数々の傑作を生みだし、その後の十年は「傑作の森」と呼ばれ、ベートーヴェンにとっては最も熱く、楽しく、音と共に駆け抜けた時代なのだと僕は思う。


 それにしても、店長の前ではパパと言ってくれないあたり、白雪なりに気を回してくれているんだろう。一応、店長にも軽く事情を説明しているのだが、白雪に優人さんと呼ばれるとなんだかくすぐったい気持ちになる。


「白雪さん、凄いわね……。さっきの音とは全く雰囲気や弾き方が全く違う気がするわ。それに演奏する観客への見せ方も……。父は一体何を教えているの?」


「今店長が教えているのは、ピアノを弾いている間、観客に自分をどう見せるかという『音の自己表現力』をレッスンしているんだよ」


「音の自己表現力……。コンクールでは弾く姿なんて多少影響があっても、音とはあまり関係ないのではないのかしら?」


「いいや、重要だよ。コンクールでは弾き方は人それぞれあるし、音が審査に直接評価に繋がるんだけど、CRSにおいては、ちょっと違うんだ」


 兵卒ポーンルークではある程度のところまで音のみでも上に行けるが、僧正ビショップクラスにいけば必ずぶつかる壁の一つである音の自己表現力。


 それは、指導者でも教えることが難しい。

 何故か?それはからだ。


 とある有名指導者が生徒に、音と共に体を揺らすだけで上手く表現できる風に見えるといって、プロピアニストから転向してCRSの大会に出場させたが、兵卒ポーンから上に上がることがなく、全く歯が立たなかったという。


 観客の評価は「わざとらしく、音が表現力と合っていなくて最早不快である」と、不評の嵐。

 

 では、逆に姿勢正しく弾いたほうがいいかと、本来のスタイルに変えてみたが評価はさほど変わらなかったらしい。


 では、どうすればいいのか?と問われると、誰も答えられないだろう。

 これは、CRSピアニストと指導者の間でも永遠の課題だからだ。


 僕も、この音の自己表現力においては、独学で教えていた部分もあるし、白雪自身も多少なりとも、僕の真似をしてきたところがあっただろう。


 それを今しっかり言葉にして指導しているのが、店長だ。


「……なるほど。審査するポイントはいかに『感動』させられたかが得点に直接繋がってくるから、姿勢正しく弾くだけのピアニストはCRSにおいては、いくら演奏がよくても上にはなかなか上がれないわけね」


「ああ、だからこの技術は絶対に必要なんだ」


「それにしても、見た目と中身はあれでも元プロピアニストなのね。私も知ってはいたけど、実際に見るのは初めてだから、びっくりしているのだけれど」


「そうだよね……。ただ者ではないと思っていたけど、本当に驚いた」


「父の昔の写真をネットで検索して見たけど、全くの別人よ。曰く、秘密が多い方が恰好いいからだそうよ。開いた口が塞がらなかったわ」


「くくっ、店長らしいな」


 音羽奏の父であり、月の兎の店長である音羽幹久おとはみきひさは、元プロピアニストだった。ネットで調べると「音の支配者」という異名を持ち、今よりも数倍格好いい姿で、数々のコンクールを優勝という形で無双していたという。


 所説あるが、CRSが主流になり始めたあたりで「僕がこの世界にいる理由がなくなった。次の世代に託すよ」という言葉を残して姿を消したと記事には書いてあるが、真実はハッキリとしていないらしい。


「それにしても……」


「ええ」


 流石というべきか、指導を何度も聞いているが、教え方がとにかく上手い。


 僕自身も参考になる部分が多く、的確な音のミスとアレンジの違いをしっかり分け、音を組み立て指導できるのは、やはり元プロだからできる芸当だ。


 しかも、ただ教えているだけなく、本人に考えさせ、葛藤させ、アレンジの閃きとなるきっかけをしっかり与え、成長を促している。


 白雪の自己表現力がみるみるうちに成長しているのが目に見えてわかる。


 指導者として今まで見てきた中では、最高クラスだ。

 白雪も楽しそうにしているし、問題はないだろう。


「さて、そろそろ行くか。これ以上いても、仕方ないしな」


「そうね、最後に白雪さんたちの部屋の窓を少し開けてきてくれるかしら?空気の入れ替えをしましょう、少し埃臭さがあるわ」


「わかった」


 僕は邪魔にならないように、そっと白雪と店長のいる会談室に入る。

 二人とも集中しているからか、全くこちらに気づく様子がなかった。


 開けた窓からは、温かい日差しと一緒にくる風が吹き込んでくる。


 頬に微かに触れる風は鼻孔をくすぐり、桜の匂いとコーヒーを淹れたときの匂いが、白雪によって奏でられた音と一緒になってとても心地が良かった。


「……この匂いは、春にしか味わえない白雪色の匂いだ」


 新しく吹き込む風と共に自身の頬が緩むのを抑えながら、会談室をそっと出た。



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