第五楽章 -奮闘の音-

episode24:スタインウェイ・アンド・サンズ


♯♯♯


 時刻は夜九時を過ぎていた。淹れてくれたコーヒーカップからはさっきまで湯気が出ていたのに、一息もすることなく夢中で話していたからか、その湯気もなくなり、コーヒーカップに触ると、冷め切っていた状態だった。


 喉がやけにカラカラなって唾を飲み込んだのも、人との会話で息継ぎしなくては疲れることも、こんなに喋って話を真剣に聞いてくれた相手がいたのも、いつぶりのことだっただろうか。


 気づかぬうちにかなりの時間を使って音羽に話していたからか、隣で座っている白雪も「パパがこんなに喋っているの初めて見ました……」なんて怪訝そうな顔だ。


 僕は、一口も手を付けてないコーヒーカップに手をようやく付け、温かいうちに飲みたかったのを後悔しながら月の兎特製ブレンドシュガーを入れて、一気に飲み干すことにする。


「ふぅ、初めて冷めたコーヒーを飲んだけど、意外と美味いな」


「全く、仕方ない人ね。気を遣わずに飲みながら話してくれてよかったのに。温まっている間に飲みなさい、味が落ちちゃうじゃない。……ほら、淹れ直したから、温かいうちに飲みなさい。白雪さんも、温かいミルクのお代わりはいるかしら?」


「はいっ、いただきます。えっと……」


「ふふっ、一緒におしぼりも持ってくるわね、お口ベトベトして嫌だものね。少々お待ちください、白雪さん」


「……僕との接客気遣いレベルが段違いなんだけど」


「あなたはここの店員でしょう?むしろ淹れてあげているだけでも感謝なさい。それにしても、二人とも随分面倒なことに巻き込まれているみたいね。二人で暮らし始めてからしばらく経つみたいだけれど、今まではどうやって生活してきたのかしら?」


 そう言いながら、音羽に今しがた淹れてくれた温まっているコーヒーカップを両手で包み受け取りながら、寒さで少しかじかんだ指先を温める。


 長めに触れる時間を費やし、ブレンドシュガーを再び中に入れて、口に含む。

 ……やっぱり、美味い。


「僕は、この通りバイトとピアノ、あとは……ピアノだな」


「私は、お部屋の掃除とピアノ、それと……ピアノですね」


「あのね、あなた達……。もう少しピアノ以外のことに目を向けなさいよ。いや、この際ピアノは仕方ないとしても、今まで食事とかはどうしていたのかしら?」


「んー、僕は食パンとかが多いかな。あとは片手で飲める三秒ゼリー」


「あとは、パパ。カ〇リーメイトも多いですよね?プレーン味の」


「あれ美味いんだよなー、効率よく食べれてお腹が膨れる。練習が捗るし、一石二鳥だ」


 そう答えると、こめかみに手をやり、首を横に振る音羽。

 やれやれという表情から見るにあまり望ましい答えではなかったみたいだ。


「……呆れたわ。まさか、白雪さんにもあなたと同じ食事ばかりをさせてないでしょうね?」


「そこは流石に気をつけているよ。白雪には栄養が偏らないようになるべくお惣菜とか牛乳とか、あとは……うん。出前かな」


 手料理が振る舞えないわけではないが、どうしてもピアノの練習が優先になってしまい、最近は簡単で元から調理されている栄養価の高いの食べ物に逃げてしまっていた。


「出前ばかりだと栄養バランスが偏るのと、節約にならないわよ。現に、あなた貯金がなくて困っているのでしょう?」


「うっ……否定はしない」


「ほら、見なさい。どうして早く私に相談しないのかしら。それに、さっき言ったでしょう?」


 コーヒーカップの熱で両手で温めていた手の甲に少しだけ触れて、僕の目を逸らさずに真っすぐ見てくる。


「私はあなたの味方よ。どんな状況でも、どんな境遇でも、例えどんな悪人に変わってでも、私はあなたの味方でいたいの。それは、一番の理解者でありたいと思うから。これくらいの状況なら私の力でもなんとかできるのよ。任せなさい」


 そう言って、一階に降りる。

 そして、一分もしないうちに再び戻ってきて、机の上に紙を置いてくる。


 ……って、これは!?


「時給昇給の用紙、お前これ……っ。同情なら」


「今のあなたは白雪さんのパパなのでしょう?これから大事な大会もあるというのに、なりふり構っている場合かしら。その安いプライドは捨てなさい」


「いや、でもな……っ、それでも、もう一つ問題があって」


「それもわかっているわ、あまり舐めないで頂戴。今の経営は私が任されているのよ?それに、あなたが危惧していることも、これで解決できるわ」


 そう言って、前にあるステージ裏から引っ張り出す一つの大きな楽器、これは……。


「わーっ、綺麗なピアノですっ!!」


「……スタインウェイ・アンド・サンズ」


「これで、あなたの考えていることも解決できるわ」


「ここで、僕らに演奏会でもしろって言うつもりかよ」


 世界で最も有名なピアノで「神々の楽器」と称される多くの演奏家の憧れだ。ロシア帝国出身の作曲家、セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフも愛用したピアノなのだが、音羽は僕たちにここで練習していいから、演奏会をしろと言っているのだ。


「ええ、早見君も白雪さんも観客に見られながらの演奏はやってきていないはずだから、丁度いいはずよ。それに、お金も稼げるし、これ以上ない場所だとは思わないかしら?」


「パパ、しましょうよ!私も本番さながらで経験値もどんどん上げたいですっ!」


「そう、だな……。本当に僕たちにとってはこれ以上ない提案だが、本当にいいのか?」


「いいに決まっているわ、これは互いの利害が一致しているからできることよ。だから……ね?」


 肌寒いせいからか、その声が今はとても暖かい。ああ、言葉をこうして交わせば交わすほど、つくづく実感してしまう。音羽奏という少女にはホント敵わないな、と。


「ありがとう。それじゃあ、音羽の言葉に甘えるよ。本当に助かる」


「音羽さん、本当にありがとうございます。よろしくお願いします!」


「ええ、任せなさいっ!これからどんどん忙しくなるわよ!!」


「ああっ、任せておけ!!」


 立ちはだかる問題はどんな小さいものでも、大きいものでもどうにかなる。

 語るべき場所で、語るべき相手としっかり話すことで、音となって問題は解消されるんだ。


 一人で悩んでいること。

 一人ではもうどうしようもないこと。

 そんな時はこうして相談して、助け合うことで生まれる音がある。

 それを僕は、改めて知ったんだ。


「それに、今回は強力な助っ人も用意しているわ。早見君も知っている人よ、入ってきて頂戴」


「ぼくの知っている人?一体誰が……」


「やぁ、早見君」


 丸眼鏡にパーマ姿。

 どこか飄々としながらなにか隠していそうな、そんな得体のしれない印象だった人物だった。


「て、店長!?」



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