episode21:引退をしたあなたに頼むのは本当に無礼なのは承知の上でお願いするわ

 

 階段を上り古びたドアを開けると、そこには机と椅子がそれぞれ何セットかあり、真ん中には小さなステージが目に映った。


 窓硝子の向こうには桜が舞っていて、そこだけ別世界に切り離された静謐せいひつな空間に満ちている一室に案内される。


「ここは一体……。下の階と随分雰囲気が違うみたいだけど」


「ここは会談室。完全予約制で、お客様がなにか知られたくないことを話す際に使う一室なのよ。もちろん完全防音で二階の音は一階には全く聞こえないようになっているわ」


「へぇ……。随分凝っているんだな」


 会談室というのに、なぜステージがあるのか疑問だったが今は関係ないことだ。ここに僕を呼んだってことは、なにか重要なことを今から話す可能性があるということだ。僕はできるだけ警戒を緩めないことにする。


「奏ちゃん、ここを使うのかい?」


 いつの間にそこにいたのだろうか?


 店長とネームプレートを付けた黒エプロン姿の胡散臭そうな男がいた。丸眼鏡にパーマ姿、どこか飄々ひょうひょうとしながらなにか重要なことを隠していそうな、そんな得体のしれない印象だった。


「ええ、だから……ね?」


 言わんとしていることがあらかじめわかっていたのだろうか、小さく頷くと横を通り過ぎる際にそっと僕の肩にポンポンと叩きながら、耳元で「これからよろしくね、」と微笑みながら、もう片方の手でヒラヒラとさせながら先ほどまでいた一階に足音を小さく立てながら降りていった。


 ていうか、僕の変装そんなにダメなのかな?

 店長にもバレていることに、ガクッと肩を落としてしまう。


「さて、早見君はコーヒーでいいかしら。砂糖はいる?」


「もちろん、いただきます。ブラックは苦い、あれを飲める人の気が知れない。むしろ人じゃないと僕は思う」


「私、ブラック派なのだけれど」


「ソレハスバラシイデスネ、ブラックを飲める人は昔から尊敬しているんだ。むしろ人間を超えているね、ちょー人間してるよ、本当に。僕みたいな一般人には真似できないけどね」


「とてもカタコトなのだけれど、褒めるのか貶すのかどっちかにしなさい。それと、まずは騙されたと思ってこのコーヒーを飲んでみなさい。ウチの特製ブレンドよ、きっと気に入ってくれると思うわ」


 手慣れた手つきでマグカップにコーヒーが注がれるトポトポとした音が耳に触り、妙に心地いい。なんだかホッとする音だ。


「……どうも、いただきます」


 渡されたマグカップからは淹れ立てと分かる温かさが伝わってきた。どうせ苦いことには変わりないだろうと、半信半疑で言われた通りに少し口につけると、今まで飲んだどのコーヒーよりも苦く、顔をしかめるレベルだった。


にがっ!?騙されたと思って飲んでみたら、本当に騙されたんですけどっ!?」


「くすっ、さっきのカタコト喋りの仕返しよ。これを入れたら本当の特製ブレンドの完成だから」


「……あんた、すごくいい性格してるね。思わず心までブラックになるところだった」


「謝ったじゃない。それに、褒めてくれるのかしら?ありがとう」


「皮肉なんだけど」


「ふふっ、知っているわ。ブラックが飲めないのなら、練乳と牛乳、麦茶にチョコ、生クリームでも入れましょうか?」


「甘い成分多すぎるな……。多すぎて何から突っ込んでいいかわからんが、最早それはコーヒーじゃない別の飲み物じゃねーか」


 力ない声音で返事を返すと「はい、どうぞ」と渡されたのは一般的な白い砂糖ではなく、淡い白、茶色、焦げ茶色が混じった見たことのない色の粉末が入った小瓶だった。


「これは、砂糖なのか?見たことがない色だけど、その店特製のブレンドシュガーってやつか?」


「ええ、よく知っているわね。月の兎特製ブレンドシュガーよ。淡い白はグラニュー糖、茶色は南に位置する小さな島、徳之島というところのサトウキビを使用しているの。そして、店長が極秘ルートでもらってきているメイプル結晶をブレンドしているわ、自慢の特製シュガーだから入れたら気に入ってくれるはずよ」


「それが本当なら旨そうだ。それじゃあ、頂くよ」


 今度は特製ブレンドを入れたコーヒーを喉に通すと、口の中に仄かに広がる甘味となんとも言えない癖になるコクが先ほどの苦みとは打って変わり、僕好みの味になっていた。


 悔しいが、これは……っ。


「本当に、美味いな……。びっくりしたよ」


 僕の声音が思っていたよりも優しくなっていたのか。目を見開かれ、驚いた表情をしていた。


 それがなんだか恥ずかしいので、目を窓硝子に敢えて視線を映して、もう一度コーヒーの味を楽しむことにする。


 うむ、今まで飲んだどんなコーヒーよりも美味いじゃないか。


「ふふっ、気に入ってくれたみたいね。おかわりはいるかしら?」


「……っ、いただきます。それで、まさかこのコーヒーを飲ませるのが目的ってわけじゃないんだろ。事情があるなら聞いてやるから、用件を言ってくれるか?」


「そうだったわね、もちろんよ。それじゃあ、本題に入ろうかしら」


 そう言うと、僕の前に座って先ほどまでの雰囲気とは一転し、真剣な顔つきで僕を見つめる。自身の心臓の音と窓硝子越しに聞こえる小鳥のさえずり、室内では時計の針がゆっくりと音を出しながら同調し進む中、僕は思考する。


 何を言われ、何を求め、何を考えているのか。彼女の真意を探るべく意識を集中して、彼女の口が開くのを待つことにする。名も知らない彼女は深呼吸を何度か繰り返し……そして、重く真剣なトーンで彼女は、僕にこう言ったんだ。



 ――――私の名前は、音羽奏です。引退をしたあなたに頼むのは本当に無礼なのは承知の上でお願いするわ。私、早見優斗君の大ファンなのよ、サインもらってもいいかしら?



「……え?」


「……~~っ、これにサインを下さい!!」


 言い終えたあと、頬を真っ赤に染めながら真剣に色紙とサインペンを渡す音羽奏の顔が今でも忘れられないのはここだけの秘密だ。





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