第33話消えるよ
「どうしてここに?」
彼羽は僕から目を離し、足元に置かれた桶から柄杓で水を掬い、墓石にかける。
十一年前、確かに目に刻み込んだ彼女の服装のままにも関わらず、口調や表情は随分とおしとやかになり、別人に思えた。
「ちゃんと、話そうと思って」
呟くように答えた返事に彼女は沈黙を貫いた。
線香の煙が二人の間をゆるりと漂う。
「それで、きっと彼羽なら今日はここにいるかなって」
潮と線香の香りが混ざり、鼻をツンと刺激する。
「私ね、夢だと思ってるよ」
「えっ……?」
とても悲しそうな顔をしている彼女は、墓石の前に座り込み、まるで人の頭を撫でるようにそっと墓石をなぞった。
「今も夢だと思ってる。だって、確かにヨッくんはここに眠ってるの。私もちゃんと立ち会ったから。それはまぎれもない事実なの」
「僕はここにいるよ?」
「ううん。これは夢。だって、さっきまでもう一度夢を見せてくださいってお願いしてたんだもん」
「違う……。夢なんかじゃない。僕はここにいるんだよ。もちろん、実際の身体は骨になって、そこの石の下に埋まってるんだろうけどね。それでも、僕はちゃんと僕だよ」
彼女は開きかけた口を閉じる。唇をきつく噛み締め、何かを我慢するように堪えている。
その様子に僕は戸惑った。
「な、なんで今日私に会いに来たの?」
絞り出したその声は微妙に震えていた。きっと、予想はついているのだろう。
僕が口を開くと、彼女は目を強く瞑り、両手で耳を塞いだ。
なんて、残酷なんだろう。
でも、ちゃんと言わないといけない。
ゆっくり彼羽に近づき、耳から手を離させる。それに合わせて、彼女は目を開ける。潤んだ瞳に自分が映っている。
「手、冷たいよ」
「死んでいるからね」
「死んでいるのに言葉は喋れるんだね」
「歩けるし、物を食べることもできるよ。消化はできないみたいだけど」
「変なの。でも、ヨッくんが変なのは昔からだからなぁ」
「変のベクトル違うと思うんだけど。それを言うなら彼羽は僕以上に変だよ」
「えへへ、そうかな」
「褒めたわけじゃないんだけどね」
……。
…………。
………………。
「僕、明日消えるよ」
視界が滲んだ。
彼女の姿がぼやけ、どんな表情をしているのか分からない。
泣いているかな? ……きっと泣いてるだろうな。涙、拭いてあげないと。
ふと、頬に彼女の指がかかる。流れる涙が拭き取られる。
鮮やかになった僕の瞳に映った彼女は、瞳に涙を目一杯溜め、苦しそうに笑顔をつくっていた。
「彼羽……」
「へへっ、私の勝ちだね……」
そう言った瞬間、彼女の瞳から涙が溢れ出した。彼女の足元に涙がこぼれ落ち、いつまでも止まらなかった。
思わず笑みが漏れる。
「僕よりも泣いてるじゃないか」
「いいの……。勝ちは勝ちだから」
その様子を見て、また視界が歪んだ。
僕と彼羽は二人で泣いた。
何が悲しくて、何で止まらないのか分からないけど、ひとしきり泣き続けた。
「あースッキリした! ヨッくんが泣いてるところ、初めて見たかも」
「そうかもね。僕も彼羽には初めて見せたよ」
彼女は大きく伸びをする。草履が石畳とぶつかり、カランと心地よい音を奏でる。
「私、あの日からずっと花火を見れなかったんだけど、今年はちゃんと見れそう」
「あ、それなんだけど……」
「分かってるよ。先客がいるんでしょ? どうせ、私に会いに行けって言ったのも、あの時の女の子でしょ?」
「よくお分かりで……」
「あったりまえじゃん! 伊達に昔ヨッくんを好きじゃなかったんだよ? ヨッくんのことなんてなんでもお見通しです!」
大げさに胸を張る彼女。最初のおしとやかな気配は何処へやら、今では昔のままの彼女だ。
その様子にまた涙が滲んだが、グッと堪えた。でも、彼女にはお見通しのようで、鼻をぎゅっとつままれる。
「花火、きっと綺麗だよ!」
この時の無邪気な彼女の笑顔を、僕は絶対に忘れないだろう。
口実ではあったのだが、彼羽に浴衣のことを話すと、彼女は父親が着なくなった浴衣を僕にくれた。
縦に薄くストライプの入った黒の浴衣に薄黄色の帯、それと下駄。どれも短い人生において縁のないものだったので、ご丁寧に着付けまで手伝ってもらうはめになった。
別れ際、少しだけ寂しそうな表情を見せた彼羽だったが、笑顔で見送ってくれた。
その時の僕の表情はどんなだっただろうか。
たぶん、あとで笑い話にでもなるような情けない表情だったに違いない。
それでも、彼女の記憶に残ってくれるなら満足だ。
慣れない下駄で
海沿いを歩き、目的の場所を目指す。
ふと見上げると、雲ひとつない青空。時折、風が身体を撫でる。花火には最適の天気だ。
露店ではまず何を食べようか。金魚すくいは下手くそになっていないといいな。
対して大事でもないことをぼやぼやと考えながら――実際は嫌なことを考えないように必死に思い浮かべながら歩く。
目的の場所に到着すると、彼はそこにいた。
彼羽といい、彼といい、どうして僕がいてほしい時にその場所にいるのだろうか。
運命というキザなものに沢山の感謝を述べておこうと思う。
彼は後ろ手をつき、防波堤の先端に座っていた。日曜日だというのに、ヨレヨレのスーツに身を包み、タバコをふかしている。
僕は黙って、彼の横に同じように座る。横目で彼を見るが、彼はまっすぐに海を見つめたまま微動だにしない。
「来たか、少年」
「来ました」
「もう、死んだと思っていたぞ」
「死んではいるんですけどね。明日、消えますよ」
「そうか……」
なぜだろうか。彼にはスラスラと重い言葉が出てくる。
どうでもいい人ってわけではない。きっと、彼が僕の言葉を心の底から重く捉えていないからだろう。
人によってはこういう人のことを薄情と言うのだろう。だけど、今の僕にとっては一人の安心できる人であり、ある意味尊敬できる人だ。
僕は、彼に会いに来た理由を話す。
「あの、おじさんは明日死ぬってなったら、どうやって過ごします? もしくはどう思います?」
彼はやつれた手でタバコを口に持って行き、深く吸い込んだ。
吐き出された煙は、海沿いの強い風によって即座に消え去る。
「難しい質問だ」
一言、呟かれたその言葉には、まるで難しく考えている様子はなかった。
「人によっては泣き喚くだろう。はたまた、悟って無になるだろうか。それでも、俺はきっと――」
「海を見に来る? そういえば、海で死ぬって言ってましたもんね」
「言ったな。そうなれれば本望だが、どうだろうか、俺は自分の最期はきっと今と同じような日常を過ごし、部屋で朽ちるんじゃないかと思っている。だが、それも人生というものだ」
「相変わらず、よくわからないですよね。海で死ねるように頑張るってことですか?」
「かいつまんでいうとそういうことだな」
初めて彼が僕を見た。伸びきった無精髭に白髪混じりの髪、痩けた頬。それでも、やっぱりその瞳は力強く、それでいて少年のようにキラキラと輝いていて、まるで別の人の瞳を取り付けたようだ。
「少年はそんな顔だったか」
「もう会うの三回目ですよ?」
「そうだな。しかし、少年のことを俺は今後も覚えているだろう」
そう言って、彼はすぐに視線を水平線へと戻した。
「質問の答えがまだだったな。つまり、明日死のうと、少年は少年が望むままに過ごせばいい。深く考える時間なんて無いのだから」
初めてまともな意見を聞いた。ごく普通の発言。それでも、彼が言うととても自然に身に入り込んでくる。
「人生はまるで海のようなもんだからな」
彼の口癖に対して僕は笑いながら一言。
「意味が分からないですよね」
そっと立ち上がる。
去り際に見た彼の横顔には小さく笑みが浮かんでいた。
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