第27話日課

 さて後日談。

 あの日から須藤は希と清水さんの前には姿を表さなかった。風の噂では、夏休み明けには学校を辞め、この町から出て行くそうだ。

 

 希曰く、学校では「あんな優しい先生がどうして急に?」や「良い先生だったのに……」という言葉を聞いたそうだ。

 人間、裏表が存在するものである。裏の性格は本当に信用した人間か、利用価値を見いだせる、自分よりも下の立場の者にしか見せない。

 僕たちは、たまたまその標的になっただけ。須藤的には希だけだったようだが。


 正確に悪が裁かれないことには少しモヤっとした蟠りわだかまりが残るが、僕らは警察ではない。何より、これ以上深入りして、彼女たちを悲しませるような事態にでもなったら、全てが台無しだ。この件に関しては、及第点という結果で全然良いのだ。


 むしろ、及第点であったことに感謝をしたい。

 あの日、僕は一つだけ読みを外していた。須藤は強姦未遂が起きた日、もちろんその場に最初から待機はしていたものの、襲撃者の一人を刺してはいなかった。あくまでも僕の予想ではあるのだが、一度人を刺したことのある人間が、僕が刺された時にあのような顔をして取り乱すだろうか。おそらく、刺したのは他の襲撃者の誰かだろう。しかし、刺すように計画したのは須藤だ。故に、僕が怪我を負わせたのはお前だ、と言った時に反論はできなかったのだろう。

 だからこそ、あの日に須藤が刃物を所持していたことは、単なる偶然でしかなかった。一つの選択のミスで、全てが水の泡と化すことになっていたかもしれないと思うと、少しゾッとしてしまう。


 あの日はひたすらに長かった。そのせいか、それ以降の日々はもったいないくらい早く過ぎ去ってしまう。


 一件以降、須藤さんは遅れた受験勉強により一層、精を出しているようで、なかなか構ってもらえなくて希的には嬉しいような、悲しいような複雑な気分らしい。しかし、清水さんの話をしている時の彼女は、いつもよりもよく笑う。


 僕と希はというと、あの一件以降、少しだけぎこちなくなったものの、三日も経てばすっかり前の通りで、特に波風の立たない日々を過ごしていた。


「花火大会行くよね?」


 窓の外で太陽が水平線の遥か彼方へと沈んで行こうとしている最中、いつものことだが、食べ物を含んだまま行儀悪く彼女が口を開いた。


「んー、そう言えば毎年の恒例だったな」


「そうだよ。八月の三十日。いつも思うけど、なんで三十一日にやらないんだろうね」


「僕の時は十五日だったけど、今は三十日なんだ」


「昔はそう言えばそれくらいだったかも。それこそ、十年前はね。せっかくだからあの公園で見ようよ!」


「まあ、特にやることは無いし、いいよ。花火、僕も見たいし」


 十年前、僕は最後の花火を暗闇の中で過ごした。なんのいたずらか、確かに花火を見ることを僕は何よりも望んでいるのかもしれない。

 たとえ、一緒に見る相手がかつての恋していた人でなくとも。いや、むしろ今は希と見たいと心の底から思っている。


 認めない、気づかないつもりでいたが、あの日雨が止んだ公園で彼女を抱きしめてから、溢れる想いが止まらない。

 愛しくて、本当は今すぐにでも彼女を抱きしめたい。


 長いこと消え失せていた一つの感情が、顔を出しては引っ込んでくれない。

 甘酸っぱくて、苦しくて、苦くて、苦しい。


 それでも、必死にその思いを口に残った米粒と共に味噌汁で飲み込んだ。


 口に出せば、僕も希も辛いだけだ。消費期限付きの恋など、誰が好むだろうか。


「浴衣着なくちゃなー! いや、その前にダイエットしないと」


「きっちりおかわりまでした後にそれ言う?」


「あ、明日からだよ! 今日は、いいんだよ。これで」


 彼女は慌ただしく食器を片付けだす。僕も立ち上がり、片付けを手伝う。二人で食器を片し、彼女が皿を洗い、僕が拭く。毎日の日課だ。

 彼女はその後、すぐに風呂に入る。女性にしては短いであろう三十分前後でいつも出てくる。その間、僕は窓際に座り、すっかり暗くなった外を眺め、蛍のようにぼんやりと浮かび上がる町の明かりに意識を染める。


 彼女は風呂を済ませた後は、少し勉強をして、早めに布団に入る。もちろん、僕は眠気を感じられないため、ここからは一人の時間だ。しかし、外で一人で夜を明かすのと、この家で夜を明かすのでは時間の進みが全然違う。

 徐々に消えゆく蛍の光。完全に消え去った後は、ひたすらに真っ暗で、町全体が夜の空気に包まれるのを窓を開けて感じる。前に夜道を散歩してみたことがあったのだが、その時は警察にバレて大変な目にあった。もちろん、僕は息切れなどを感じることはないため、逃げ切れたのだが、頻繁に警察の手を煩わせるわけにはいかないので、それ以後は控えるようにしている。


 代わりに早朝、東の地平線が焼けるように色づいてきた頃、僕はそっと家を出て、朝の散歩をする。この町の少ない良いところの一つは空気が美味しいことだ。

 海は家から小さく見えど、歩いて十分はあるにも関わらず、深呼吸をすると気のせいか微かに潮の匂いが鼻腔をくすぐる。潮の匂いと朝特有の澄み切った空気、それと山々に囲まれた青々しい香りが混ざり合い、僕の好きな匂いになる。


 きっと、こんな贅沢な思いをしている幽霊は僕くらいだろう。


 たっぷり小一時間ほど町中を闊歩して帰ってくると、ちょうど彼女が起きてくる時間だ。


「ただいまー」


 念のため、小さな声で玄関を開けると、彼女は既に起きていたようで、リビングで座ってスマートフォンを弄っていた。しかし、妙に違和感。彼女の顔は引きつっていた。


「どうしたの? 朝から」


「いや、ちょっと問題発生」


 申し訳なさそうに苦笑いをする彼女はスマートフォンの画面を僕に向けながら言った。


「お父さん、今日帰ってくるって」

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