第35話 もしも私なら

 元の席に戻り、見慣れない髪の自分に、少し違和感を感じていた。


 化粧をしてくれるらしく、眼鏡を預けた。よく分からない液体を指先で塗られたり、筆で目元に何か書かれたり、自分が落書きされているノートになったような、不思議な気持ちだった。


 化粧なんかしたことが無かったので、目を細めてボヤける鏡に映る自分を見守っていた。


 よく見えないまま、化粧が終わったらしい。髪のセットを始めた彼女に、待ち切れず気になっていることを聞いた。


「……それで、アイドルの方には、何て返事をするんですか?」


「ふふ、どうすると思う?私にそっくりな、あなたならどうするかな?」


 優しく撫でるように髪をセットしていく彼女の指は、もう震えていなかった。


「うーん、恋愛経験が悲しいほどに無いので、全く分からないのですが……。やっぱり世界のどこかにいる彼が、もう結婚してるかもとか考えちゃうと、このまま待っているのも、悲しくなっちゃいそうですよね」


「うんうん」


「アイドルの方と試しに、一度デートしてみるとかですかね?いきなり結婚は流石に勇気がいりますし。その、言い方は良くないのですが、別れているのなら、浮気にもならないと思いますし。悲しいまま待っているのも、何だか大変そうで……」


 どこかで彼女を説得して、幸せになってもらいたいと強く思っていた。気の利いた言い回しも出来なかったけれど、彼女は優しく頷きながら、私の髪を摘んだり流したりしていた。


「……やっぱり。普通に考えたら、戻ってくるかも分からない、もしかしたら何かに巻き込まれて、死んじゃっているかもしれない彼を、自分勝手に待ち続けているのは、止めた方が良いよね?」


「分かりません。でも……」


「……うん」


 私には、彼女と彼、そしてアイドルのことなんて、何も分かっていない。ましてや、そんな十年も思い、待ち続けれるだけの愛なんて、無縁のことだと思う。それでも、こうして悩んで苦しむ彼女を見ていると、分かることがある気がした。


「私が愛する人を置いて、もう会えないかもしれない場所に行くしか無かったとしたら……。もし、それが原因で、愛する人が酷く傷付き続けるのなら。私なんかのことは忘れて、幸せになってほしいと思います」


「そうね。私も逆の立場なら、きっとそう思うわ」


「私なんかに、その彼の気持ちは一切分かりません。こんなに素敵で一途な人を置いて行ける夢なんて、どんなに立派でも分かりたくありません。それでもきっと、自分のせいで愛する人が、こんなに苦しみ、その果てに憎まれるくらいなら、最初から自分なんか居ない方が良かった、出会わなければ良かった。そう思っちゃう気がして……。それは何だか、二人の全てを否定するような気がして、とても悲しいと思います……」


「……うん。私も同じ考えよ。やっぱり、あなたは私に似ているわね。ふふ、可愛いわよ。見てみて」


 彼女に渡された眼鏡を通して見た自分が、信じられなかった。別人にしか見えない、きっとクラスメイトとすれ違っても、気付かれないだろう。鏡に映る、自分とは思えない綺麗に化粧された女子は、確かに可愛かった。


 ふわふわの綿菓子のような、可愛いショートボブ。綺麗に描かれた眉毛は片方だけ強調されるように見えていて、流れた前髪に、もう片方の眉毛が隠れていた。空気を含んだような髪型に、気持ちまで軽くなるようだった。テレビや雑誌で見るような、完成された見本のようなショートボブを、実際に初めて見た気さえしてしまった。


「可愛いです!自分じゃないみたいです!その、ありがとうございます。私、こんなに変われるなんて、思ってもいませんでした……」


「ふふ、喜んでもらえて良かった。私も彼にカットしてもらって、同じことを言ったわ。きっと、そのときの私のまま、十年経ってしまったのね。私も変わらないと……」

 

 私は、彼女が悲しんでいるのは見たく無かった。こんな私に、そんな大変な悩みを打ち明けてくれた。そして私を、こんなにも変えてくれた。それはきっと、髪型と化粧だけじゃなくて、進路で悩んでいた私が、彼女の壮絶な話を聞いたことで、全てが変わったような、生まれ変わった気さえしていたのだから。


「……アイドルの人と、どこかに出かけてみるんですか?」


「……ううん、断るわ」


「え!それじゃあ、待ち続けるんですか、十年間も帰って来ない人を……」


「……ううん、もう待たない」


「そ、それじゃあ、どうするんですか……」


 彼女は、微笑みながら窓の外を眺めていた。

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