Episode21. 過去
医療エリアに存在する特別住居スペースには、重度の精神疾患を患った人たちを集めている。あの《カイン》暴走の一件から早数週間—————その傷跡は深く人類の心を抉ったようで、老若男女関係なくそういった人たちは日々増加しつつあり、この特別住居スペースの部屋は、ほとんどすべてが埋まっている。
エレン曰く、ここは仮設された閉鎖病棟だと明言しているが、それよりも遥かに酷いと言っていいだろう。自傷行為を行う者には(エレンが開発した軟性の)手錠が掛けられ、発狂が止まない人や不眠の人たちには供給される食糧に睡眠薬を混入させることもあり、絶食している人には拘束し、無理矢理にでも食べさせるとのことだ。そんな生活が、何にもない薄明かりの灯る中で窓も家具もない————唯一あるとすれば、部屋の端にある排泄用の穴くらいだろう————まるで牢獄のような部屋で営まれていた。
その部屋を横目に歩く愛彩は一言、ぼそりと小言を口にする。
「——————まるで、拷問ですね」
その率直な感想に対してフォローを加えるように、先を歩くメリスが口を開いた。
「………でも、仕方がないんだよ。人に辛い思いをさせるより、人を死なせないことを優先しなきゃいけないから。それに私たちもこういった人たちをどう対処すればいいのかってあまり詳しいわけじゃないからね」
「でも、それじゃ——————」
「生きていたとしても死んでいるようなもの…………って?」
愛彩が言葉にしようとしたことを先読みして、メリスがその言葉を奪う。愛彩はただ首を縦に振った。
「確かにそうかもしれないけど、人類滅亡を阻止するためにはできる限り人を残しておかなきゃいけない。そのためにはこういった人達も何とかして生かさなきゃいけない」
「でもこの戦争に
そうネガティブな思考を声に出して漏らすと、メリスは立ち止まり、愛彩の頭に軽く手刀を下した。
「そういった発言はNGだよ。わかってるでしょ?」
「すいません、ただやっぱり人が苦しむのを見るとちょっと…………」
「そして————そんな顔を彼女に見せたくてここまで来たわけじゃないでしょ?」
と、メリスが指差したのは特別住居スペースの一室だった。
一見すると特に何もなく、がらんどうのように感じるが、注視してみると部屋の端で毛布に包まれた何かがそこにはあった。
「————佑月、ちゃん?」
そう愛彩が名前を呼ぶと、『何か』はピクリと動いた。それからしばらくして毛布の隙間からその顔が露わになる。しかしその顔は愛彩の見知った人のものではなく、まるで別人のように酷い姿だった。
綺麗で整っていた髪は崩れており、特に右側は毟ったのか、明らかに毛量が少ない。肌は荒れ、目の下の隈が濃く深く残っていた。
滝沢佑月—————容姿端麗、スポーツ抜群、明朗で人望も厚い…………彼女の変わり果てた姿がそこにはあった。
「ぁ、久しぶりです………先輩」
細々とした声と共に、佑月はゆっくりと立ち上がる。包まっていた毛布は地面に落ち、佑月の一糸まとわぬ身体が露出される。その身体はやはり愛彩の知っている『佑月』のものではなく、瘦せ細り、随所に包帯が巻かれている。………特に、手首に。
「—————」
その容姿を眼前にして、愛彩は何も発することはなかった。その変容ぶりに驚嘆するわけでも、変わり果てた後輩に悲嘆するわけでもなく。ましてや、この状況を作り出した原因たるAIに激昂するわけでもない。
ただ微かに口角を上げて、言った。
「—————少し、話そっか」
***
滝沢佑月。
東京都立
あるとあらゆる企業の開発に関与し功績を残した父親に、スポーツ射撃において百発百中の伝説を残した兄といった、少しだけ
そう—————普通の女子高生だった。
だが、今はどうだろう………薄暗く何もない部屋の片隅で、衣服の一枚も身にせず、提供される食事もほとんど手を付けることはない。以前まで、オシャレは常に最新の流行を取り入れ、食べることが大好きだったのだが、今やそれらはすべて末梢的になっている。
だがきっと、何よりも大好きだったあの言葉だけは佑月の心に刺さるだろうと確信して、愛彩はその言葉を口にした。
「—————翔吾君」
「ぇ…………」
今までぼんやりと浮かべていた佑月の笑みが消える。
ゆるりと動いていた行動がピタリと静止し、佑月の目が大きく見開いた。
「……………いつものように、翔吾君の話をしてよ」
愛彩の優しい声色に惹かれるように、佑月はゆっくりとその首を愛彩の方へと振り向ける。小声で『翔吾』と、自分の親愛する実兄の名を口にしながら。
「そうだ………お兄ちゃん————————」
しかしその様子はどこか違和感があり、今までのようにすぐに長話が始まるわけではなかった。ただ、佑月の身体は時間が静止したかの如く、何一つ動かない。
「…………お兄ちゃん? どこにいるの、お兄ちゃん⁇」
「佑月ちゃん………?」
みずぼらしく変容した顔を上下左右に動かし、虚ろな眼でその部屋の中を捉えるも、そこには何もない。彼女が探しているのであろう、『
呼吸が上がる。
焦燥、不安、恐怖。
佑月の中でそれらの感情が込みあがってくる。
「ねぇ、お兄ちゃんはどこ⁉ 何処にいるの‼」
柵越しから愛彩の胸倉をひっつかみ、叫ぶ。その表情や声色の変容に驚きつつ、佑月を止めようと駆け寄るメリス。しかし愛彩は右手を出してそれを止める。
「お兄ちゃんはッ! 何処にいるの‼」
「ここにはいないよ。翔吾君は今訓練中だから」
胸倉から佑月のひ弱な手を引き剥がし、冷静沈着な声色でそう答える。
「訓練? なんで………?」
「今はAIとの戦争を前にしているからね。そして翔吾君はその戦争に駆り出される一兵士。—————佑月も見たでしょ? あの鉄塊と戦うために翔吾君は訓練をしているの」
「…………今すぐ、お兄ちゃんに会わせて」
「それは無理だよ。今の佑月をここから出すことはできないから」
「そんな…………っ」
愛彩がゆっくりと佑月の手を離すと、佑月はまるで
「ちょっと待ってよ先輩………お兄ちゃんに会わせて……………」
「————行きましょう、メリス」
「お兄ちゃんに会わせてよっ、ねえ、先輩!」
「…………」
泣き叫ぶ佑月の声を背中に受けながら、愛彩とメリスはその場を後にする。
「愛彩、本当に————————」
「いいんです、行きましょう」
苦渋に涙を流してそう告げる愛彩に、メリスは思わず言葉を噤んだ。
そして次第に遠くなる佑月の声は特別住居スペースから出てもなお、ずっと聞こえているような気がしていたのだった。
***
特別住居スペースを後にした愛彩とメリスは、その後、訓練エリアの見学室で軽食を口にしていた。他の訓練生は既に食事を終えたようで、既に《シード》に入り、仮想空間での訓練に励んでいる。
しかし愛彩とメリス、二人の雰囲気は良いものであるとは言えず——そもそもAIと戦争をしているので《ヘルヘイム》全域において雰囲気が良いとは言い難いが———会話の一つもしないのは、なんとも珍しい事だった。
それも、先の佑月との再会を果たしたことが原因であることは明白なのだが。
「………ねえ、愛彩ちゃん」
そしてその沈黙を先に破ったのは、メリスであった。
その声に対して愛彩は軽く目線を向け、噛んだ食糧を噛み切る。
「佑月ちゃんと翔吾君について、少しでも教えてくれない?」
「…………別に私は良いですが、翔吾君の許諾を得た方が良いかと思います」
「そこは私が全責任を持つってことでいいよ。勿論、アスタリアさんにも話すつもりはないから。ただ私が二人の問題について知っておきたいってだけだから」
その言葉にしばらく思い悩んだ様子を見せた後、「わかりました」と急ぎ残りを口の中に放り込んだ。
手について食べカスを払いつつ、さて、と一息。
「そうですね…………それじゃあ、時にメリスさん、翔吾君が『The hand』と呼ばれる人であることは知っていますか?」
「? それは
「じゃあ————なんでパーなんでしょう?」
「………ぇ?」
愛彩の話にメリスは思わず戸惑った。
確かに、不思議ではあるが、それが一体何の関連性があるのかと。
「他の多くのスポーツ選手、並びに一般の人だってそうでしょう? いい結果が残せて嬉しいと感じた時、決めポーズを取る時——————大抵平手になる時ってそうないんです」
「確かに………こっち来てから博士に映像資料見させてもらったけど、あれほどしっかり広げた手を空に掲げてたら、決めポーズとしてはカッコ悪いから………」
普通、多くの人の場合はグッと強く握りしめた拳になる場合がほとんどである。人によっては二本指、三本指とバリエーションこそあれど、しっかりと広げた手を空に掲げる人はメリスの知る限りいない。
「でもどうして…………?」
「翔吾は佑月のために、拳を振り上げないんですよ」
意味深長な言い方にメリスは頭に疑問符を浮かべるが、しかし愛彩が話をやめることはなかった。
「そうですね…………この話の冒頭はこんな始まり方が良いかもしれませんね」
〝昔、天才と呼ばれた兄妹がいた〟———————と。
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