Episode15. 戦いの果て


 船内から外の様子を覗くと、人類の前に立った計十一体のAIは、誰として動くことはなく眼前約一〇〇メートル近くのところで佇んでいた。


「アスタリアさん、船を急いで動かした方が———」

「いや、それはダメだ」


 船の運転席から顔を出したルーカスの提案に、しかしそれを首肯することはできない。

 あの豪速で疾走した車を追随して、ここまで追い詰める程の速さ———それがあるということは、奴らがいるところから充分に対応できるということだ。だから奴らはあの場から動かずにこちらに銃口を向けているだけなのかも知れない。


「最悪、あの四人さえ乗船できたらなんとかなるかもしれないが………」


 だが、それは不可能に近い。逃げ遅れた四人が車に身を隠しているのは奴らから三、四十メートルといった距離。背を向けてこちらに全力疾走しようものならその背を十一機のロボットが一斉に的にして射抜いたとしてもおかしくはない。

 さらに加えて、四人のうち一人は重傷者、一人は老体だというのだから、生存を視野に入れるのであれば、まず逃走という方法は取るべきではない。


「だがこちらから発砲しようものなら、こちらに勝機はない」


 ——————詰み。

 アスタリアの脳裏を過るその一言。

 まるで奴らが実際に言葉にしたかのように反芻する。


「クソ………クソがッ!」


 ダン、と強く壁を叩くが、当然この状況が打開されるわけでもなく。

 ついにアスタリアが微々たる諦念を持ち始めたその時—————


『こちらメリス!』

「‼︎ おい、状況はどうなっt————」

『今すぐ目ぇ隠してください!』


 その直後、逃げ遅れた四人のうちの一人———愛彩が小さな球体を宙に投擲する。その一瞬で理解したアスタリアは、


「全員、目ぇ潰れ‼︎」


 と叫ぶ。

 瞬間———眩い光が、見る世界を白く染め上げたのだった。

 

 眩い光の中、愛彩はもう片方の手に握っていた球体を奴らの近くに投げ放った。

 瞬く間に白煙は広がり、奴らの周辺を覆い尽くす。


『パワー・オン』


 久しく耳にしていなかったその音声と共に四人中三人が飛び出す。メリスとエレンは船の方へ、愛彩はAIの方へ走り、大きく拳を振りかぶる。


「………………一つ」


 煙が広がる中、正確に一機を捉えると、握られている銃をへし折り、機体の上部に位置する人頭のような所の中心———そこにある赤く色付いたレンズの『目』を目掛けて拳を叩きつける。

 その音に反応して飛来する弾丸を回避し、弾丸の飛んできた方向と音から位置を確認し、拳を突き出す。


「———」

『インパクト・オン』


 小声で出した指令に瞬間肉体強化装置が反応する。瞬間、愛彩の右腕に電流が迸る痛みが生じると同時、突き出した拳から放出された衝撃波が一体の赤い眼球を粉砕した。

 焼け火箸を当てられたような鈍痛に《インパクト》を発動したダメージもあり、愛彩は一時後退する。一度止血された傷口から再出血するも足を休めている暇はない。今まで動かずに佇んでいただけだったAIだが、既に反撃体勢へと移行していた。


「二個目………!」


 先の《インパクト》によってせっかくの煙幕が晴れて視界が良くなりつつあり、愛彩は二つ目の煙幕を投げ放る。数秒もしない内に煙幕は増して広がり、残機九体プラス一匹となった敵を白い世界へと誘った。


「…………ぅぐッ」


 再度その煙幕へと突撃しようと、踏み込んだ足が挫けて膝を汚す。しかしその鈍足を無理矢理にでも動かそうと、左腕を地面に叩きつけて体を起こした。

 そして—————、


「音声認証! 『インパクト』のレベルを1から2に移行‼︎」



***



「あれはどういうことだ⁉︎」


 アスタリアは、船へと乗り込んだエレンとメリスに説明を要求する。メリスは気不味そうに目線をそらし、エレンは冷徹な眼差しでアスタリアを閃く。


「あれが最良策だった………それだけの話だ」

「では煙幕も発光弾もあったというのに最良策というのか? 冗談じゃない‼︎」


 それでは愛彩と翔吾を見殺しにしたようなものだ、とアスタリアは激昂する。エレンの小汚い白衣の胸ぐらを乱暴に掴み取る。それでもなおエレンは平静とした顔で口を開く。


「………ワシの研究所からここまで何キロで走ってきたと思ってる?」

「—————」

「その速度に追いついてきたアイツらから、ただの煙幕や発光弾で逃げられるとでも思っているのか?」

「————」

「ましてやあの中心にいる狼型のAIロボット………あれは軍犬用として開発した一種の兵器だ。鼻も利き、足も疾い。敵を認識すると噛み付いて捕獲し、その威力は普通に骨を砕き折るぞ」

「————」

「………もしも無理に逃げようとして船の一部を壊されでもしてみろ。この船に乗る全員が死ぬぞ?」

「————」


 沈黙。

 アスタリアは何一つとして言葉を口にすることはなかった。その沈黙はエレンが喋り終えてからも数秒と続き、やがてエレンを壁に投げ捨てるかのように手を離した。


「だから………アイツらの命を引き換えにしたと?」


 死と命の冒涜を許すまじと怒りに震えるアスタリアの気迫は、平静で冷徹としていたエレンを驚愕させる。部屋全体に熱気が立ち込める中、体だけが寒さを帯びている。背中をなぞられたと表現されるものなどではない。まるでそう………灼熱の業火の中にいる不凍の氷に漬けられたような。

 その感覚に晒されてなお、エレンは毅然としてアスタリアの問いに対して回答する。


「いや………長谷川愛彩は生きると言った。滝沢翔吾も同じでな」


 曰く———彼らが生還してくると確信して、託したのだと。


「つまり彼らは………長谷川愛彩は勝つと言ったのだ。ならばワシはそれを信じるまでだ」


 曰く———この戦いに勝利を収めて安全にここを去ろうと、そう決心させられたと。


「ワシらは…………もう誰かを信じて生きようとするしかないのだよ」


 この状況になってしまった以上、誰かがAIの暴走に対応し、惨殺に対抗するしかない。

 『誰か』がいなければ、人類はただ滅びの時を待つのみである。

 そして現在———この状況を打破し、人類が残された僅かな未来を手にするための『誰か』とは即ち彼らのことだと。


「………………チッ」


 告げるエレンにアスタリアはただ舌打ちをする。瞬間、閉じ込めていた不凍の氷は消え、その安堵からエレンはその場に座り込んだ。


「ふぃ………」

「しかしだ、幾らアイがこの状況で唯一、瞬間肉体強化装置を使える人間だとはいえ、数分前まで重傷者だったんだ。勝機があるとはとても思えん」


 と、アスタリアは一つの懸念を口にする。しかしそれは杞憂であると言わんばかりに、エレンは微笑を浮かべた。


「それは問題ない。最悪の場合、滝沢翔吾が長谷部愛彩を回収する。その為に滝沢翔吾はあそこに残ったのだからな」

「どうやって?」

「車を爆発させる。あの車の燃料は一般車を遥かに超えている………例え奴らでも数秒間であれば動きを止められるはずだ」

「………ならそれを何故今すぐ実行しない?」

「その作戦でのこの場の全員が生存できる確率は五〇%………もっとも、0か100か、だからだ」


 より安全に、誰一人としてこの場にいる全員が死なずに生存するとなれば、やはり奴らを倒す他はない。だがそれを実現するのは相当困難なことである。


「それにな、万が一を想定して長谷部愛彩には必勝必殺と呼べる技を教えておいた」

「必勝………必殺の、技? それって一体——————」


 その内容について訊こうとした瞬間。

 ゴウと風が鳴り、船のガラスを叩いた。小石が飛来しガラスにヒビを入れる。

 やや穏やかな波がその時だけ海岸がどこか忘れてしまったかのように船の方へと翻り、船が少し大きく揺れた。

 一体なにがあったのか………この状況に困惑し、慄然とする人々の中、エレンだけがその原因を知っているようで、船の外に急ぎ目をやる。 


「彼奴………本当にLv2セカンを使いやがった………ッ!」



***


 瞬間肉体強化装置とは、人体や環境における一切の被害を無視し、使用者に人類を超越した能力を宿す装置である。その能力の種類はさまざまで———炎や水、雷や植物を創成するなどといった、俗に言われる〝異能力〟こそないが———《攻撃超越パワー》や《速度超越スピード》、《衝撃波撃インパクト》や《跳躍超越ジャンプ》などがある。

 しかし———瞬間肉体強化装置はそれだけでなく、もう一つの機能が備わっている。


 それは段階的能力増強レベル・エンハンス———能力の威力を数倍にも上昇させる機能。


「なるほど…………これは凄い」


 戦いの最中にあるというにも関わらず、その威力の上昇ぶりに愛彩は思わず感心する。

 AIロボットを閉じ込める煙幕に、適当に放ったLv2の《インパクト》。

 決して正確に一体を狙ったわけではない………だと言うにも関わらず、愛彩の拳の先には四つの機体が無惨な姿になって転がっていた。その機体の中に、愛彩を狙い見る赤眼は一つとしてない。


「けど………流石に早かったかな……………………ッッッッッッッ⁉︎」


 もはや体を走り回る痛みはどこにもない。ただあるのは腕を灼熱に晒しているかのような熱。それが止むことなく腕を中心に帯びている。

 やばい………………愛彩でさえその感覚に危機感を覚えた頃、その危機感を念押しするかの如く警告音が鳴り響く。


『警告。出血量が限界値を超えています。このまま使用を継続した場合、死に至る可能性があります。それでもなお使用を継続させる場合はスイッチを、使用を停止する場合は音声入力で停止と指示を出してください』


 現在倒した総数は六機。残機は五機と狼型の一機。

 安全かつ確実な逃走を望むのであれば、ここで頓挫するわけにはいかない。だがこれ以上の苦戦が強いられると応援が来ることになる………そうなれば、まず逃走を謀ることも倒すこともほぼ不可能になってしまう。

 愛彩が出すべき答えはたった一つしかない—————今ここで、最高速で叩きのめす。

 愛彩は装置のスイッチを押した。………と同時に、スイッチを三回連続で押す。


『レベルを2から3に移行します』


 ズン、と明らかに腕が重くなる。痺れるような痛みはもはやなく、焼け爛れるかのような熱が腕を包み込み、それに反逆するかの如く体温は急激に低下していくのがわかった。


「…………っ」


 やがて煙幕が晴れ、残機が愛彩に銃口を構える。しかし愛彩は動くことすらままならない。

 その腕の重さ。急激な体温低下による眩暈。それによって体に力が入らず、膝が地に付く。


「それでも………………ッ」


 グッとその重い拳を構える。膝を地から離し、体全体を使ってその拳を後ろに引いた。

 あとは前に突き出すだけ———、



『ウアオォオォオオオォオォオォオォオオオオオォ—————————‼︎』



 刹那、狼型のAIが咆哮する。

 この状況で仲間を呼んだのだろうか。そんな考えが脳裏を過る中、ドッと鈍い音とほぼ同時に愛彩は太腿に銃弾が一つ。続けて二発、三発、四発………と放たれる。その全てが愛彩の体を掠め、命中し、貫く。外れた弾は一つもない。

 …………当たり前だ。奴らは人工知能なのだ。動かぬ的に銃弾を当てるなど当然というものである。

 しかし愛彩は拳を構えた体勢から動こうとはしなかった。最初の一撃で再び膝を付かされた。次は右手を支えていた左腕、その次は頭を掠め、脇腹を貫き、肩を捩り、背に刺し………………それでもなお、愛彩は右手を構え続けていた。

 幾つ銃弾が発せられただろう………そう思わせる程の数の弾が、全て愛彩の体のどこかに傷創を付けた。———その絶望的な光景を、多くの人が船の中から見ていた。

 一体どれだけの銃弾が彼女の体に埋め込まれたのだろう。貫通し、砂の中へと消えていったのだろう。一体あの『海』は、どれだけの量の血になるのだろうか。

 ………そして、船内からその様子を見ていた誰もが愛彩の死を予感した。

 エレンもアスタリアもメリスもルーカスも佑月も…………眼前に広がる光景に『死』という唯一を彷彿とさせられる。

 そして——————二発の弾丸が再び放たれた。


「………ぃやぁ、先輩……っっ、嫌だよぉ……!」


 顔をくしゃくしゃに歪めてその場に座り込む佑月をこの場から離脱させるかのようにメリスが静かにその場を離れて奥の方へと向かった。


「…………なぁ、エレン。今の………………当たったか?」


 誰もがその様子をモニタ越しに見て悲愴と諦念に沈む中、アスタリアは目を見張って奇抜な質問をする。


「どういうことだ?」


 エレンは手元のホログラムPCを操作しながら、わざとらしくとぼけた回答をする。


「とぼけるな。今の二発、愛彩に命中する前に弾けただろ。一体何をした⁉︎」

「ワシは何にもしとらん………ワシだって驚いとるんだ、あの少年にはな」


 と、エレンが向けた目線の先には、低い姿勢でアサルトライフルを構える翔吾がいた。


「? ………滝沢翔吾がどうかしたのか」

「どこかで聞いた名前だと思わんか? 例えば—————射撃とか」

「ない」

「即答かい…………じゃあ、『The hand』という名前には?」

「『The hand』? あの迷信のか?」


 射撃において噂となっている存在———『The hand』。

 彼の射撃は百発百中、しかも的の中心をミリ単位で撃ち抜いたことしかないという。さらに時には数キロメートル先の2センチの的を射抜き、また別の時には飛ぶ蝿を撃ち殺したという話さえあった。

 しかし、公式非公式ともに試合に出場した形跡はなく、その正体は誰も知らないとされていたことから、いつしか「そんな超人がいるわけがない」と迷信になっていた。

 ただ………………、


「—————彼は撃ち終わった後、手のひらを空に見せる癖があるという。それ故に———『The hand』と呼ばれているそうな」

「でだ、その『The hand』が何なんだ。一体、滝沢翔吾と何の関係があると?」

「——————彼だ」

「は?」

「滝沢翔吾がその迷信………いや伝説とされた『The hand』、その人だと言ったんだ。ほら、また来るぞ?」


 と、アスタリアが翔吾を見やると、今度は六つの銃声が聞こえた。しかし、やはりその銃弾は一つとして愛彩に命中はしていない。………いや、命中していないのはなく、途中で消滅しているように見える。


「———まさか…………………?」

「そうだ………滝沢翔吾が撃ち落としているんだよ」


 AIの使用している一般拳銃の銃弾の大きさは38口径(※約9mm)とされているが、それを約三〇から四〇メートルから捉えたらただの点にしか思えない。例えスコープがあったとしても、飛弾を捉え、さらにそれを撃ち弾くことはまず不可能と言っても過言ではないはずだ。

 だが———それを翔吾はやってのけた。現にやってのけている。

 数十発という連射にも適応し、その全てを撃ち落とす…………その翔吾の技量に思わずルーカスもアスタリアも目を見張っていた。


「………まるで、アイさんの前に見えない壁があるようですね」


 だが奴らもそんなに馬鹿ではない。何故銃弾が当たらないのか、その原因を突き止めるのは造作もないわけで。


『ワゥォオオオォォォ——————‼︎』


 再び。

 しかし先程よりも短い雄叫びを狼型が上げると、残機五体の機体の正面と銃口が一斉に翔吾の隠れる車の方へと向いた。

 ——————その、瞬間だった。

 轟音が鳴り響いて地を荒らす。

 フシュー、と煙を吐き出して、まるで怒号を唸るかのような音がその場を酷く惑わせる。

 舞い上がる砂塵はやがて一つの砂嵐となり、愛彩を閉じ込め、その姿を隠した。


「な………⁉︎」

「まさか…………!」

「‼︎ ………馬鹿ッ」


 急いで外に出ようとするエレンをアスタリアは間一髪のところで止める。しかしそれを振り払ってエレンは外へと飛びようとする。その顔は一切の澱みこそない狂笑で。アスタリアは静かに唾を飲み込み、再度船の中へと引き摺り込んだ。


「まさか………まさかまさかまさかまさかまさかっ‼︎ ワシの想定を超えると言うのか、アイとやらっ‼︎」

「…………っ」


 砂塵が荒れ狂い、一目で外に出ることが危険なことぐらい馬鹿でも理解できるはずだ。現に窓ガラスを強く叩いているような音がそれを正確に伝えてさえいる。

 だがエレンはその理解をも忘れて外に出ようとした…………それ程までに眼前に広がる光景は、異様で奇怪で珍妙で。そして「これは現実なのか?」と疑心を抱かせた。


「——————け」


 掠れた声が、響く。

 アスタリアも、メリスもエレンも………そして船内誰もが一度は聞いたことのある声音。

 さらにその声はいつにも増して太く根強く、堅牢に、聞こえた——————



「いッッッッッッけええぇえぇぇぇぇぇええええぇえええぇ———————————‼︎」

『イ、ギイイ、イグィ、ンパ、ババクッ、クト———オン』



 愛彩の腕に装着された装置から発せられる能力使用のボイスは許容領域を超えたようで、壊れた声で《インパクト》発動を告げる。だが、今はその音声など、誰も気に留めることはない。

 愛彩が一点————人工知能たちの方を向いた。

 今まで背を向けて構えていた拳を置いて、グッと足が、体が、その全てが右腕だけを置いてその方向を前にする。


『ウアォォオォオ———!』


 愛彩の眼前、短い咆哮とともに向かってくる獣………その鉄塊。

 その開けた大きな口からは、何本にも並べられた歯が鋭く光った。


「あぁぁぁあああああああぁあぁぁあぁぁぁああぁぁあぁあぁ——————————ッ‼︎」


 狼型AIが愛彩の身を蝕むが先か、愛彩がレベル3の《インパクト》を放つが先か——————その結果は、すぐにわかった。

 だが………………何が起こったかは、見ていた誰にもわからなかった。

 気が付いた時には、既にその光景が広がっていたから。

 粉々になった鋼色の物体が、宙を舞って消えていったから………………。

 

***


 ———人間の身体は脆弱だ。

 人間の身体の約七割前後は水分でできている。それはつまり水風船身体に水を入れ、木枝や石など骨や臓器を入れたのとほとんど差異はないということで。

 水風船に針を刺せば萎むように、人間が死ぬのもまた早い。

 その水風船の中に入っている物を一つでも欠陥すれば障害が生じるし、中の水分が抜けても死に至ることは稀に見ることではない。

 そしてそれは、『水』に溶け込んでいる砂糖水(血液)も同じこと。

 身体を巡るそれを大量に欠損してしまえば、死に至ったとしてもおかしくはない。


(あぁそうか………つまり私は死んだのか)


 …………と、ここでようやく愛彩の意識が覚醒し、自身の置かれている状況を把握する。

 周囲には蒼穹と緑の丘—————その先には川を跨いで花畑が広がっており、流れ往く川を目の前にして愛彩は一糸纏わぬ姿で立っていた。

 ………………。

 要するに、全裸。


(ふぇ⁉︎)


 自分の霰もない姿に気が付き、早急に大事な部分を隠してしゃがみ込む。


(体はある。触ることも………できるね。…………声は出ないけど)


 しゃがみ込んだ状態で、一応自分の体について探ってみるが、声が出ないこと以外に何ら変化は見られない。声は出ないと言っても、自分の思ったことが反響しているようで、実質大差なかった。


(そしてこれが………三途の川ってことかな?)


 手を伸ばして水面に触れてみるが、特に普通の水と変わったところはない。あえて言うなれば、異質なまで澄んでいるということだろうか。水だというのにまるでそこにないかのように透明で川底はもはや隠されてはいなかった。


(そしてあの花畑があの世……………てことは後ろが現実世界ってこと?)


 と、後ろを振り返ってみるも、そこにあるのは高々と聳える草原の丘。現実世界に帰るという手段は、もう既に無くしてしまっていたらしい。


(…………あれ?)


 気が付くと、愛彩はその場所に立っていた。

 一糸纏わぬ姿だというのに何一つ隠そうとは思わず。むしろそれが普遍であるとさえ思い始める。羞恥心がない————そのことを理解し、疑問を覚えるが、何かが変わるわけではなかった。そして————、


(あ………………行かなきゃ)


 愛彩は川を渡ろうと、足を進め始める。

 「これは自分の意思なのか?」と疑念を抱くが足が止まることはなく、ゆっくりと川の中に足を入れる。

 一歩、一歩………また一歩。

 先へ進んでいくと共に快楽と喜悦の感情が湧き上がり、強くなってきた。

 それは、幸せがその先にあるから。

 笑顔で暮らせた平和な時間があるから。

 無造作に誰かが殺されない世界が見えたから。

 辛苦の一つもない世界だと思ったから。

 誰かが犠牲になることがないと確信させられたから。

 誰かが悲しんで涙を流すことのないから。

 向こう岸で、最愛の人が笑って手招きしているから。

 ———もう理由なんてどうでもいい。今すぐ、一分一秒でも早くその世界に飛び込みたい。

 そう思って足を速め——————、



『————生きて』



 ………微かに頭の中を反芻する声に、思わず足を止めた。



『————愛彩、生きて』



 振り返るがしかし、そこには誰もいる訳もなくて。



『————愛彩』


 

 けどその温かい声はしっかりと愛彩の耳に届いていた。

 抱擁されたような温かさがあった。


(は…ははは……ははははははははは………………)


 思わず笑いが込み上げる。

 そして再び、花畑の方へと体を向ける。目先には愛した人が笑顔で手を振っている。その後ろに、正視できるようになった『幸せ』が光となって存在していて。


「そんな世界………………あるわけないよ、優ちゃん」


 ひしひしと痛感する———こんな幸せな世界など、そんなものは存在しない。

 誰もが幸せな世界なんてものはない。苦しみや悲しみの一切がない世界などない。

 あるわけないのだ———と。


「あったらどれだけいいんだろう………文字通り、皆がずっと笑っていられる世界。人が苦しみ、悲しまない世界がさ」


 けど、人は死ぬ。そうなれば、誰かが苦しみ、悲しむことなんてあって当たり前だ。


「………………どうして人はいつか死ななきゃいけないんだろうね」


 もしも、人が死ぬことがなかったとしたら悲嘆することもないというのに。


「………どうして……………辛く悲しくならなきゃ、いけないんだろう?」

「————」


 つう、と涙が頬を伝い、静かに流れ落ちた。

 眼前、笑顔で手を振っていた愛しき人の顔から笑顔が消え、手が下に降りる。


「けど………けどね、私たちは苦しみも悲しみも………喜びも怒りも幸せも全部、感じなきゃいけないんだよ。だってそれが——————」



——————〝生きる〟ってことなんだから。


 

 だから、そんな簡単に『幸せ』など手にしてはいけない。

 人が生きるその中になくてはならないものだから。

 もしかしたらそれが、苦しみや悲しみを超えた先にあるものかもしれないから。

 ……………ねぇ、だから〝生きろ〟って言ってくれたんでしょ?


「だから私は戦うよ。戦争が終わった先にあるかもしれない本当の幸せを掴む為に」


 涙を拭い、両手で両頬を叩く。

 それからまっすぐ前を向いて、数日ぶりに最愛の人の顔を見て。


「それまで…………本当にさよなら」


 愛彩は昔のような笑顔を向けて、その世界から離脱した。

 離れる寸前、優が「またね」と笑った気がしていた。

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