Episode2.その時は目の前で

 結局、昨日のメールがなにかわからないまま、愛彩は起床した。

 夢かと思い確認するも、やはり携帯にそのメールは届いており、開くとアルファベットと平仮名がぐちゃぐちゃに並び、その中で明確に読めるものは二つの単語のみ。

 一つは《カイン》。本日、横浜にある研究所にて、起動実験が実施されるという完全汎用型AIの名前だ。

 もう一つはjokerジョーカー。確かにそう読めるが、なにかはわからない。


「一体なんなんだろ、これ?」


 携帯を片手に、寝室を出て階段を駆け下りる。途中躓いてこけそうになるも、なんとか持ち直してリビングへと向かった。


「さあて、朝ご飯なにしようかなぁ〜……………」

「おはよう、相変わらず寝癖すごいね」

「仕方ないよ、だって………優ちゃん⁉︎」


 優はしれっと家のキッチンに立っていた。テーブルには既に朝食の用意が済ませてあり、香ばしいトーストの匂いが食欲をそそる。


「………いつ帰ってきたの?」

「ついさっきだよ」

「今日はゆっくりできるの?」

「……………ごめん、朝ごはん食べたらまたすぐに行かなきゃダメなんだ」

「そうなんだ………」


 目に見えて落胆する愛彩に、優は頭に手を乗せる。その手はいつも通りに優しくて温かく、しかしどこかしっかりとした男の手。しかしそれが小刻みに震えていた。


「ごめんね、本当に」


 優はそう一言言うと、席に着いて朝食を食べ始めた。

 それから一言も会話を交わすことはなく、優は玄関をくぐっていったのだった。


***



「それって絶対なにかあるって!」


 数時間後、愛彩はその言葉を言われてビクリと体を震わせた。

 東京都目黒区———自由が丘駅の近くにある小さな喫茶店の店内。

愛彩と向かい合って座るのは、二つ下の後輩で滝沢佑月。彼女の現代の流行に便乗したファッションは、まさしく首都に住まう人であると感じさせる。


「優さん絶対なにか隠してるって!」

「そ、それはわかるんだけど………ね?」

「先輩は彼女さんなんですから、そこは追及してもいいと思いますよ!」


 そう—————彼女。

 愛彩と優は交際を開始してから早くも二年半が経とうとしていた。ちなみに二人が同居を始めたのは六年も前からのことである。二人とも両親が海外で働いているということもあり、両親合意のもと、同棲が成立している。付き合っている思春期男女が同じ屋根の下で暮らしているというのは些か問題である、などとは双方の両親共々視野には入れていないらしい。決して淫らな関係ということはないのだが、親としてはもう少し気にして欲しいところではあるのだが、愛彩も優も今更だと諦めていた。

 そして今、なぜ佑月がその話を持ち込んだのか、それは………………、


「その様子って浮気じゃないんですか⁉︎」

「え、ぇえぇええ………」


 にわかには信じ難いが、可能性として有り得ないことはないと愛彩は感じた。そういった噂は男女交際を繰り返している人たちが話しているのを良く耳にする。

 しかし、これまで愛彩がその可能性を疑わなかったのは、交際を始める以前の、およそ十数年に渡る優への信頼が芽生えていたからだ。けれども、それが裏切られるという可能性もまたないわけで。


「け、けど! 大学忙しいって言ってたし!」

「大学を言い訳に別の女と遊びに行ってるのかもしれませんし?」

「けどけど! ちゃんと大学でのレポートや課題とか、色々見せてくるよ!」

「そこら辺は容易くどうにでもできちゃうので……………」


 佑月に負けじ劣らずと優を信頼する愛彩。

 どんなことを言おうが必ず返してくるその姿勢に佑月が折れた。


「…………じゃあ本人に確認すればいいじゃないですか」

「彼女の私が実の彼氏に『あなたは浮気してますか?』なんて聞けると思う⁉︎」

「いいんじゃないですか別に。あ、すいませーん、追加注文いいですかぁ〜?」


 佑月は愛彩の話をさらっと流し、店員を呼ぶ。愛彩と同じ時に運ばれて来たパンケーキは愛彩が半分残っているのに対して佑月の皿の上にはすでに何も乗ってはいなかった。


「そんなに食べて大丈夫なの………?」

「私むしろ医者に食べろって言われるほどなんで問題なしです」

「今世界の半分くらいの女性を敵に回したよ………」


 そんな愛彩の呟きが聞こえなかった佑月は、その後何食わぬ顔で大盛りパフェを注文していたのだった。


「………そういえば佑月ちゃん、お兄さんとはどうなの?」

「なんですか急に」


 愛彩が突然口にしたのは佑月の兄——滝沢翔吾のことである。

 愛彩とは特に直接的な関係はないが、愛彩は佑月とこうして二人で話す時はいつも翔吾の話を話題に取り上げるようにしていた。

 それは、愛彩の前で饒舌に話す佑月の嬉しそうな表情を見れば一目瞭然だろう————滝沢佑月はブラコンであると。

 そうして息継ぎをしているのかというほどに早口で翔吾のことを喋りながら、席に届いたパフェを食べること約二時間。やっと落ち着いた佑月が我に返り、赤面して額を机に落とす。ガン、という音に周囲の人の目線が一瞬だけ佑月を覗いた。


「はぁあぁぁっ、ほんっとすいません毎度会う度にこんな話ばかりして………………」

「いいって。後輩なんだから遠慮せずに話してよ」

「………すいません」


 顔だけを上げてこちらを見上げる佑月、その頭に愛彩は手を乗せる。愛彩の嬉しそうに笑う表情に、佑月はむうと頬を膨らませる。


「なんなんですか」

「後輩というのは先輩にとっていつでも可愛いものなんだよ」

「もしかして、もしかしなくても、私の恥ずかしがる表情を見るためにお兄……兄貴の話をしたんですか?」

「うーん、半分は佑月の『お兄ちゃん』の話を聞くためで合ってるかな」

「あ、なんかその言い方ムカつきます。………それで、もう半分は?」

「佑月がお兄さんの話をしてる時が一番幸せそうだからかな」

「うっ……⁉︎」


 優しく微笑む愛彩に、佑月は口を詰まらせる。耳まで赤くしてパフェの残りを平らげたのだった。

 そして後に佑月の注文したパフェのカロリーを見て、少し怒りを覚える愛彩だった……。


***



『いいですか! 今から優さんのところに行って聞いてくるんですよ!』


 喫茶店を出ると、佑月はそう言い残してその場を後にした。その場で別れた愛彩は、佑月が去った先を背に向け、駅の方へと向かっていった。

 自由が丘駅から東横線に乗り数十分、横浜駅で改札を出る。

 ゆっくりと歩きながら、佑月に言われたことが脳内を反芻する。


「………浮気、か」 


 友達や噂話でもよく耳にする言葉。別に、恋人関係で『絶対ない』と断言できない事であり、いくらどれだけの信頼があろうとも、可能性としてないことはないもの。相手からしてみれば、それはあって欲しくない事なのだが。

 けれど、その容疑が優に掛けられている今、愛彩は確かめずにはいられなかった。

 たった一言でいい、『好き』の一言が聞きたいがために足を運ぶ。


「けど……流石に急過ぎるのはね」


 ましてや大学内に入れるかもわからないと、愛彩は優の大学近くの喫茶店に入店する。携帯の電源を入れ、メッセージアプリの緑のアイコンをタップする。


『ごめん、ちょっと少し話したい』


 愛彩はしばらくその画面を眺めていた。今は忙しいからすぐには返って来ないだろうと、そう思いながら。

 しかしその数秒後、既読のマークが付くとほぼ同時に通話画面に切り替わる。

 愛彩は一息ついて応答ボタンを押した。


『愛彩? 今どこ⁉︎』

「え?」


 聞こえてきたのは、私の所在を確認する優の焦燥な声とその奥から聞こえる喧騒だった。


「えと、今は優ちゃんの大学の近くの喫茶店だけど……………」

『な⁉︎ ………今すぐそこから離れて! 全力で逃げて‼︎』

「え? ちょっと優ちゃん、どういうこt————」


 瞬間———周囲に重音が響き渡り、喫茶店の窓ガラスにヒビが入る。

 外にいる人が騒ぎ、音の正体…………爆発の煙を見やっていた。

黒と白の煙がもくもくと立ち昇るその方向は、優が通う大学の方だった。


「……優、ちゃん?」

『……………』


 ノイズが走り、良く音が聞こえない。やがてその声が鮮明に戻ったとしても、愛彩には聞こえていなかった。


『…………逃げて、愛彩』

「……ぁ」

『逃げろ——————‼︎』


 携帯をポケットに、財布から大雑把に千円札を取り出してレジに置いて飛び出る。

 しかし、愛彩は優の言った通り逃げることはなく、大学の方へと向かった。

 その距離わずか数百メートル、やがて見えてきた大学を見て、少しの安堵を覚える。爆発が起こったのは大学ではなく、その隣の施設だったからだ。

 しかしそんな安堵も束の間………倒壊する瓦礫の中、ガシガシと音を立てて何かが動き出した。

 煙に映る影は、まず人間ではなかった。

全体的に四角く、図太い図体で。腕や手、足のようなものを上手く変形させて瓦礫をすり抜けていた。


「あれは…………?」


 鈍色のボディに赤いラインが目立っており、頭のような場所の中心に位置する緑の球体がぎらりと光った。

 愛彩には、その球体の光に少し嫌な予感を感じた。

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