願い-2

「リゼット」

 夕刻、掃除道具を抱えて歩いていたリゼットは、ふいに名前を呼ばれて、足を止めた。

「やぁ」

 黄昏色の陽だまりに佇んでいたのは、ゲオルグだ。

「カ……あっ、そ、その……たっ……」

 いつもの調子で呼ばれたせいで、うっかりいつも通り返事をしそうになって、少女は慌てる。

「……大公殿下、御用でしょうか?」

「あああ、やめようよ」

 彼女がそそくさと壁に張り付いて、他の使用人のように深々と頭を下げるので、ゲオルグは慌ててそれを止めた。

「……今まで通りでいいからさ。それに、大公位っていうのはまだ随分先のことになるんだって。僕、できればそういうのは要らないんだけど……」

 爵位の無いゲオルグには、アーシュラの即位後、アヴァロン大公の位が与えられることに決まっていた。

「今、僕もここの暮らしに慣れるので必死だから。誰にも彼にも態度を変えられると困っちゃうんだ」

「ですが……その、今まで通りというわけには、参りません」

 リゼットは困ったように目を伏せ、二、三歩ゲオルグから遠ざかって、改めて頭を下げた。

「その……遅くなりましたが、ご婚約……おめでとうございます」

 分不相応に主の恋人に横恋慕して、始まってもいない恋を失うだなんておこがましいことだと、彼女自身は思っていたけれど、皇女の婚約は、リゼットにとっては失恋に他ならなかった。

 だから、今日まで出来るだけゲオルグと顔を合わせないようにしてきたのだ。もはや、万が一にもこの気持ちを彼に知られるわけにはいかないから。

「……ありがとう」

 ゲオルグは何となく意外そうに言った。

「そういえば、君の顔見るの久しぶりだったな。なんか、久しぶりな気はしなかったんだけど」

 彼が全く普段通りに話しかけてくるのに、リゼットは安堵を覚える。彼が気づかずにいてくれたら、きっと、やり過ごせる。

「……カルサス様のお住まいは私のお勤めする区画ではありませんから」

「そっか。確かに、今はアーシュラの部屋のある辺りにはあまり行けないもんね」 ゲオルグとアーシュラは、毎日顔を合わせるけれど、それは昼食を終えてから、晩餐の後までだ。それ以外の時間は、お互いその他の用事がつめ込まれていて、以前のように彼女の部屋や庭でこっそり会ったりは出来ない。皇女の側付きのメイドであるリゼットとは、物理的にあまり会う機会が無かったのだ。

「……じゃあエリンも、最近は何か忙しいのかな」

 ぽつりと呟いたゲオルグに、リゼットはきょとんとして顔を上げる。

「エリン様……?」

「あ……うん。アーシュラがね、最近エリンに避けられてる気がするって、すごく気にしてるみたいだから。君は彼と顔を合わせたりする?」

 リゼットは少し考えて、そういえばお見かけしませんと答えた。ゲオルグにしても、リゼットにしても、エリンのことはよく知っているような気持ちになっていたけれど、それはただ、アーシュラの傍に居る機会が多いから彼を目にすることが多いだけで、実際は、エリンが主人以外の人間と親しく話をすることは、元々、そう無いことなのだ。

「あんなにいつでも一緒なのに、おかしいよね」

「……エリン様のことですから、姿を隠されているだけだと思いますけれど」

「それにしてもさ。彼女が呼んでも出てこないって言うし……」

「それは……確かに……」

「おかしいよね」

 首を捻るゲオルグをそっと見つめて、緊張した面持ちだったリゼットが、ようやく少し笑う。

「どうかした?」

「いえ。この間までは、エリン様がいらっしゃると殿下と二人っきりになれない、って、文句を仰っていたのにって」

「……文句は色々あるけどさ」

 冗談っぽく表情を険しくして、ゲオルグはおどけてみせる。

「アーシュラはエリンが居ないと全然落ち着いてくれないんだ。それに……彼女と一緒になるってことは、彼の存在を受け入れなくちゃいけないことなんだって……僕も一応、理解はしてるんだよ」

 納得はできないんだけどね、と、ゲオルグは、はぐらかすような調子で付け加えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る