家族-2

「――――ちょっと、聞いているの? エリン」

 いかにも不機嫌な主の声に、エリンはようやく顔を上げる。夜会が終わり部屋に引き上げてきて、緊張を解いたあたりから、そういえばアーシュラの声を聞いていなかった。けれど、いつの間にか彼女が脱いだドレスの後片付けをしていて……どうやら、手はちゃんと動いていたらしい。

「申し訳ありません。聞いていませんでした」

 素直に怒られるつもりで言ったのだけれど、目が合うと主人はホッとした顔で微笑んだ。

「お前、最近無理をしすぎよ。ツヴァイだっているのだし、城の中でまでそんなに警戒することはないと思うわ」

 優しい言葉に、エリンは目を丸くする。

「無理など、しておりません」

 それは別に嘘ではなかった。バシリオ・コルティスを葬ってからというもの、皇女が狙われることは無くなっていた。城の中がほぼ安全といえる状況なのも、アーシュラの言うとおりだ。だから、エリンがいつも以上に神経を使う必要はない。

「だったら、何か気がかりでも? わたくしがこんなに一生懸命お話をしていたのに」

「……申し訳ありません」

「別に怒ってないわ」

「以後気をつけますので」

「エリン……」

 アーシュラは気に入らない様子で、しかし怒らず不安げに肩を落とす。

「絶対おかしいわ。お前も……ベネディクトも」

 その名が出た瞬間、エリンの背がぞわりと粟立つ。

「皇子が……何か……」

「お前、もしかして聞いていなかったの? あの子、結婚したって」

「あ……いえ……」

 慌てて取り繕う。

「伺っておりました。その……喜ばしいことであると……」

 実際に、結婚したと言われてもエリンには何の実感も湧かないし、感想の述べようが無い。

「あの子、きっと好きでもない方と結婚をしたのだわ」

「どうしてお分かりに?」

「分かるわよ。様子が変だったし……第一、お相手が、わたくし、会ったことのない方なんだもの」

 愛のない政略結婚など、選ばなくても良かったのに、と、アーシュラは悲しむように言った。

「……皇子が決められたことでしょうし」

「冷たいわ。お前だってあの子の友達でしょ」

「友達……」

 喉をギュッと掴まれたようになって、言葉が詰まる。

「……エリン?」

 手のひらに蘇る、あの感触。少年の小さな心臓に、アーシュラのための刃を押し込んだ。

 あれは、いつかベネディクトが言っていた――彼の友人。

「も……うしわけ、ありません」

 動揺を悟られまいと、どうにか声を押し出す。

「やはり、少し疲れたようです。隣に控えておりますので、何かあれば参ります」

 そして、今まで決して言わなかったような台詞を口にして、エリンは顔を上げずに自分の部屋に入ってしまった。

「ちょ……」

 呼び止めようとする主の声も届かない。扉を閉めて、ひとりきりになった気配に、エリンは深く深く息をついた。

 あの夜、バシリオだけでなく、幼いその息子クーロ・コルティスを手にかけたことについて、エリンはまだアーシュラに話せずにいた。


 ベネディクトが突然結婚をしたことについては、やはり、エリンにはよく分からない。けれど、今夜の彼は確かに今までとは別人のようだった。だとしたら、このひと月あまりで、彼がすっかり変わってしまったということなのだろう。

 かつての彼は、大人たちが集まる華やかな場が苦手で、いつも挨拶を済ませるとさっさと逃げ出していたのに。

 衝撃と絶望に声も無く立ち尽くしていた皇子を、エリンは血と死の中に置き去りにして逃げた。優しいベネディクト。あれから彼がどうしたのかを、想像することは恐ろしかった。

 彼は思ったはずだ。自分がコルティスの屋敷に現れたのは、アーシュラの意思であるのだと。姉が恩人バシリオの排除を命じたのだと。

 アーシュラは彼を分家させた時、その理由を語らなかった。事実を知らせなかったのは彼女なりの真心だった。だから、決して姿を見られてはいけなかったのに。

 バシリオの思惑はどうあれ、ベネディクトはランスからわざわざあの屋敷を訪れるくらいには、あの親子に親しんでいたのだろう。祖父の暴力に耐えていた彼が、嬉しそうに友人ができたのだと話してくれたことは、もちろんよく覚えている。

 今更誤解なのだと弁解は出来ない。アヴァロンを出る日、僕を嫌いになったのかと姉に迫ったベネディクトの疑念に、最悪の形で応えてしまったのだ。

 取り返しの付かないことだ。アーシュラの言う通り、エリンもベネディクトが好きだった。同い年だったこともあり、幼い頃からずっと、本当に友人のように優しくしてもらった。怪我をしたときは心配もしてくれた。彼が家族や臣下の者達を、心から愛し信頼していたことを、知っていたのに。

(皇子……)

 あの夜の出来事を経て、怒るでもなく、悲しむでもなく、あんな風に笑って、貴族たちの中に立つなんて。

 アーシュラには話せない。決して。

 そして、主に隠し事などしたことのないエリンにとって、その秘密は辛い重荷だった。

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