紫の皇女と青の皇子-1

 闇の回廊に、少年のすすり泣く声が響く。この半年ばかり、アヴァロン城には、こういう重たい夜が度々訪れていた。

 エリンは、渡り廊下の真上に立って様子を窺っていたが、周囲にツヴァイや、他の人間の気配がしないことを悟ると、そっと廊下に降り立って、しくしくと泣く皇子に駆け寄った。

「大丈夫ですか? 皇子」

「エリン……」

 廊下の隅でうずくまって、泣いていたのはベネディクトだった。助け起こすと、可哀想に、唇には血が滲み、片方の頬をひどく腫らしている。殴られたらしい。

 よりによってアヴァロンの皇子がこんな酷い目に遭っているのに、誰ひとり声をかけようともしないのは、先程まで彼を折檻してした人物が誰か、という問題に起因する。

「……陛下は、今日もご機嫌が悪いのですね」

 皇帝は、皇子に暴力をふるうのだ。

「ち……違うんだ、僕が、悪いんだよ、エリン。おじい様は悪くない……僕が……僕が、悪い子だから……」

 ベネディクトは慌てた様子で、祖父を庇う言葉を口にした。


 自らの血縁で唯一『紫』を持って生まれたアーシュラをことのほか大切にしたアドルフではあったが、そもそも、ベネディクトを疎んでいたというわけではない。

 風向きが変わったのはこの一年ほどのことである。

 美しく成長していくアーシュラの身体が、しかし少しも丈夫にならないことを、老いた皇帝は徐々に恐怖するようになっていた。そして、近頃では皇女の体調が悪くなる度、アドルフは心のバランスを崩す。

 大抵は夕食後、優しげな声でベネディクトを呼びつけては、健康な彼が紫を持たずに生まれたことを嘆き、罵り、呪い、ひどく折檻した。そしてひと通り皇子を痛めつけ我に返ると、普段通りの名君に戻る。

 今までの皇帝からは想像もできない姿だった。誰も止めることは出来なかった。唯一彼に苦言を呈することができるツヴァイすらも、虐待の現場には姿を現さないらしい。エリンだって、こうして嵐が通り過ぎた後、傷ついた彼の手当してやることくらいしか出来ない。

 そして、十五歳を迎えた皇女アーシュラは、今日も具合が悪く、一日中寝込んだまま、ベッドから起き上がれずにいた。ベネディクトは、ポロポロと涙を零しながら、エリンを見上げて言う。

「姉上のお加減は? エリンは、お傍を離れてはいけないよ」

「殿下から、皇子のことを頼まれているのです」

「姉上が?」

「はい」

「そっか……」

 皇子は優しかった。幼い頃と同じように姉を、そして祖父を慕っている。今のようなむごい扱いを受けるようになってなお、その気持ちには変わりないように見えた。

「ねぇ、エリン、僕はどうして、こんな風に生まれてしまったのだろう」

 自分を責めるように、悲しい声でベネディクトは呟く。

「僕さえ、ちゃんと紫を持って生まれていれば、おじい様は苦しまずに済んだんだ。姉上だって……」


 本来であれば、皇子を守り、慈しむべきはまず、両親であるところの、前皇太子夫妻であるはずだ。けれど、元々、格式張った帝室を苦手と言って憚らない、自由な性格の前皇太子エーベルハルトは、子供たちがもっと幼い頃から、年間を通じて妻を伴い、他の自治区を旅して遊び回っていた。

 城へ戻るのは旅と旅の間の短い時間だけであり、子供たちの養育は使用人たちに任せっきりである。

 明るく、自分勝手で、裏のない父と母は、子供たちにとって好ましい人物ではあったが、頼りにはできない存在だった。

 自然とベネディクトは、アドルフの影響を強く受けて育っていた。

 敬愛する祖父から罵られ、否定されることは、彼にとって、どんなに辛いことであるだろう。

「皇子が……ご自分を責めることはありません」

 慰めの言葉の浮かばないエリンは、ようやくそれだけ口にして、皇子の薄い肩にそっと手を添える。

 今、ここに居るのがアーシュラでなくて自分で良かったと、エリンは思った。アーシュラだったらきっと、弱音を吐く弟に優しい言葉をかけたりしない。残酷な台詞と共に一笑に付したであろう。

「誰も、生まれる家も、体も、選べません。だから、そんなことが罪であるわけがない」

 ベネディクトは優しいけれど、姉のように強くはないのだ。そして、それこそが彼の美点であると、エリンは知っていた。 

「エリン……」

 強いアーシュラの身体を思うのと同じように、この、いつも自分に優しくしてくれた、慈悲深いベネディクトの心が、いつか壊れてしまうのではないかと、とても心配だった。だから、せめて自分だけは。

「お部屋に戻りましょう。傷は、僕が手当を致しますから」

「うん……」

 皇子は涙を拭って立ち上がった。

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