兄との思い出-3

 伝統的に、エウロで爵位を持つ家に生まれた者は、三歳の誕生日を迎えたら、主君である皇帝に挨拶に上がるのが決まりである。

 どこの家に子供が生まれたとか、そういうことは大抵社交界のおしゃべりの中ですぐに広まるものだけれど、正式には、初めての謁見の日を持って、貴族界の仲間入りすることになる。

 これまで隠し育ててきた次男を、皇帝に謁見させるか否か。ここしばらく、カスタニエ家の夕食の時間に、その話題が出ない日は無い。

「父上、僕はやはり、このままエリンを隠し通すのは無理だと思います」

 話を持ち出すのはいつもセルジュだ。少年は、煮え切らない父の態度にどうしても納得がいかないようで、何度も繰り返しそう進言していた。彼は、いつまでも狭い塔に閉じ込められ、外で遊ばせてももらえない幼い弟を哀れに思っていたのだ。たとえ片目に紫があったとしても、本家あちらには両目に紫を持つ姫がいるのだ。今更、継承権争いなど起こりようもないだろう。ちゃんと皇帝に拝謁し、カスタニエ家の人間として筋を通せば、エリンは自由になれるはずだと思っていた。

「セルジュ、お前は陛下のことを分かっていないのだ」

「陛下が……あのような子供を、どうにかなさるとでも?」

 歯切れの悪い父の言葉に、セルジュの顔に苛立ちが浮かぶ。

「そうだ」

 実の父に対して、公爵はあまり前向きな感情を抱いていないようだった。いや、むしろ、憎んでいるとすらいえたのかもしれない。

「あの方は……家族の情など持ちあわせてはいないのだ」

 フリートヘルムは苦々しげにそう口にして、しかし、それ以上多くを語ろうとはしなかった。

「ですが……父上、それではエリンは、一生あの塔で暮らすことに?」

「それは……」

「そういうことでしょう」

「外の自治区に出しても良いし、いろいろ考えようはある……」

「それでも、あの子の左目は、隠しようが無いものです」

 セルジュの言い分は正しかった。しかし、カスタニエ夫妻にとって、エリンはようやく授かった、目に入れても痛くない二人目の子供である。我が儘を言って父母や乳母を困らせることもない良い子で、これからがまさに可愛い盛りだ。命にかかわる賭けに出るような選択など、親であれば誰だって避けたい。そう簡単に決められる問題ではなかったのだ。


 エリンは、兄セルジュにとてもよく懐いている。四六時中世話をしてくれる乳母や、自分にひたすら甘い母とはまた別の心持ちで、毎日会えるわけでない年の離れた兄を特別に慕っているようだった。

 セルジュは、どちらかといえば大人しく、物静かな少年だ。長いこと兄弟姉妹は居なかったので、子供の扱いも上手いはずがない。弟が生まれて、赤ん坊だったのがよちよちと歩き始め、やがて言葉を覚え……ずっと、恐る恐るのおっかなびっくりで接してきた。それなのに、どうしてこんなに懐いてくれるのだろう。

 常々不思議に思っていたのだが、最近それがようやく分かってきた。弟は、兄が持ってきてくれる本が大好きなのだ。

 絵本なら乳母も毎晩読んでやっているようだけれど、セルジュが選ぶのは、自分の好みもあって、今のエリンよりは年上の年齢層をターゲットとした児童文学が多い。兄が読み聞かせる様々な物語は、エリンにすればものすごく大人っぽく、格好いいものに映るらしい。絵本と違って文字がたくさん並んでいるものをセルジュがスラスラと読む様も、彼に尊敬を寄せる理由になるようだった。

「明日は……と……」

 夕食の後部屋に戻り、本棚の前に立って、次に弟に読んでやるための本を選ぶ。セルジュは熱心な読書家で、部屋には本棚がいくつも並んでいる。弟があんなに本を喜んでくれるのであれば、兄としても作品選びには真剣にならざるを得なかった。 読んで聞かせてやるとはいえ、あまり内容の難しいものはまだ理解出来ない。冒険譚や、昔話……あと、表現の易しい神話の本なども良いだろう。ちょっと考えただけでも、読んでやりたいものはいくらでもあった。

 もうすぐ、弟の誕生日とクリスマスがいっぺんにやってくる。それらにちなんだものも選んでおこうと考えて、ぼんやりとカレンダーを思い浮かべる。すると、ハッと思い出すことがあって手を止めた。

「ああ、そうか。明日は……」

 すっかり忘れかけていたが、明日は、本よりも、弟に見せてやりたいものがあったのだ。

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