15:ラムネのビー玉が手から溢れる②
2人が無言を貫いて、数十分が過ぎた頃だった。
「マナ皇帝!急いで!!!!」
「!?」
その声は、静かな廊下によく響く。
手術室の扉が勢いよく開かれたと思えば、そこには全身血まみれになった千秋が焦りながら飛び出してきた。いつも余裕そうな表情を浮かべる彼女の焦り姿を見たことがなかった風音は、その光景に驚き立ち上がる。その勢いは、重そうなソファがガタッと動くほど。それと同時に、マナも立ち上がったようだ。
「何が「後にして!皇帝、こっちに!急いで!」」
「わかった、そのために来たんだ」
「……」
風音が状況を聞こうと口を開くも、鋭い千秋の声がそれを遮ってくる。そのまま素早く横切るマナを唖然と見つめることしか、できなかった。しかし、その後ろ手は風音を招いているではないか。
千秋も特に何も言わないので、風音はマナの後を追って開け放たれている手術室の扉をくぐった。
「……え」
その部屋は、暗かった。薄明かりではあるものの、目が慣れるまで数秒を要す。しかし、待合室の廊下が暗かったこと、入り口の扉が開け放たれ光が漏れていたこともあり、すぐに中の様子がわかるようになった。
風音は、そこへと足を踏み入れたことを少しだけ後悔してしまった。何もできない自分が、入って良い場所ではなかった、と。眉間のシワが深く刻まれ、その顔色は人のものとは思えないほど真っ白なものに変わっていく。
「……これって」
そこには、戦場が広がっていた。
一面、血の色に支配され、思わず息を止めてしまうほど異様な空間だった。風音は、奥へと入っていった2人を追わず、足が入り口で止まってしまう。
「なん、で……」
真ん中に置かれた手術台には、術衣を着たサツキが静かに目を瞑り眠っている。周りに設置されている管からは麻酔と魔力が流され、その隣にある大きな装置と繋がっていた。その設備の位置は、彼女に魔力が宿されたことを示すもの。しかし、彼は素直に喜べなかった。
一面に広がっている血は、その装置にも均等に飛び散っている。周囲の騒動と関係なく一定の音を響かせているためか、異質な存在として風音の目に映った。
「ななみ。私だ、聞こえるか」
マナの視線の先にいたのは、サツキではなかった。
その手術台の下にのたうち回っている何かの前に膝をつき、「ななみ」と冷静な声で話しかける。
「ななみ、もう大丈夫だ」
「……」
「…………天野、なのか?」
それは、例えるならばヘドロだった。きっと、明るくてもどこまでも濁りのある物質にしか見えないだろう。
醜態も何も、その空間にはない。低い唸り声のようなものだけが、手術室を支配していた。寝ているサツキが起きないのが不思議なほどの声量が響き渡り、風音の耳を犯していく。それは、まさに獣の咆哮を連想させるもの。
その光景におののき一歩後ろへと下がると、足元からピチャッと濡れた音が響く。風音が下を向くと、それは血の池だった。「ななみ」と呼ばれたそれを中心に、人間が出しているとは思えないほどの量が溜まっている。
「何が……」
風音は、何が起きているのか理解できなかった。いくら思考を動かそうとしても、ガスマスクをしていても鼻につく腐敗臭が邪魔をしてくる。それに、あの千秋が目を真っ赤にして泣いているではないか。それほどまでに、この状況は切迫したものなのだろう。であれば、医療関係に関して素人である彼に、できることはない。
「ななみ、おいで」
今までに聞いたことがないほど、彼女の名前を呼ぶ声は優しい。まるで、生まれたての我が子を初めて抱いたかのような印象を持たせてくる。
マナは、汚れを気にすることなくそれに手を伸ばし、真っ白な光を放っていた。
「そう、いい子だ」
それにすがりつくように伸ばされているのは、手なのだろうか。よく見ると、指の形があるような気がする。そこからドロドロと溶け切ったものが、床へと滴り落ち真っ赤な池に混ざり合っていく。
必死にしがみついてくるそれをこぼさないように掴んだマナは、
「深呼吸しろ。そうだ、もっと、深く」
「ア゙、ア゙、ぉ゙」
と、懸命に話しかけている。その声に従うように、その物体が呼吸を整えているのが見ている風音にもわかった。低い獣声が、規律的な音をあげている。その度に、体液だろうか、何かがビシャッと不快な音を立てて床にブチ撒かれていた。立ち尽くしている千秋の足元にも、それが飛んでいく。
「もう少し、もう少しだから!私の手をしっかり掴め」
「ぅ、ぅ゙ア゙ア゙、ア゙」
「おい、息を止めるな!死にたいのか!!」
そう必死に問いかけるマナの服や肌にも、元の色がわからなくなっているほど血や体液で汚れていた。これは、何なのか。風音の思考は、止まったまま。
「……」
ただただ、目の前の光景に立ち尽くしているしかない。すると、
「……これがユキさんの完全な魔力切れです」
「今宮さん……?」
後ろから今宮の声がした。
振り向くと、彼だけではなくアリスも並んで立っていた。その光景に見慣れているのか、さほど動揺した様子はない。いや、
「ユキは、魔力切れじゃ死なない身体を持ってるのよ。その代わり、魔力がゼロになると身体が溶けてしまうの。身体が弱った時も同じくね」
「彼女は、あのまま1人なら数時間痛みに耐えて過ごさないといけないのです。ちゃんと、痛みも感じています……」
「……そんな」
よく見ると、そう話す2人の顔色は真っ白で透明になりそうな勢いだっだ。淡々とした話し方は、今まで幾度となく繰り返されてきた光景だと理解せざるを得ない。しかし、双方それに慣れている訳ではないことも同時に理解した。
「だから、止めたの。ここまでする価値があるのかどうか、私には判断つかなかったから」
「……」
「しかし、ユキさんも皇帝も止めなかったなら、私たちはそれに従うまでです」
「管理部って、そういうところなのよ」
「……」
今宮とアリスの表情は、「無」だった。そこに、感情も個人的な思想もない。ただただ、決められたことを決められた通りに動く兵器のような印象を風音に与えてくる。
これが、管理部なのだ。決められたことを決められた通りにやるからこそ、失敗がない。そこに、個人的な感情を入れれば、こうやって仲間に迷惑がかかる。それだけではなく、きっと自身の死に繋がることだってあるのだろう。それを、身を以て教えてくれているようだった。
「この状態、管理部に入るなら見ておくべきものだと思うわ。……最初に話さなくてごめんなさいね」
いつもおちゃらけているユキが、溶けている。いつも、人を笑わせることを楽しんでいる彼女が、ドロドロになって呻いている。
管理部という場所を理解しつつある風音は、目の前の光景の方に気が向いてしまい言われている言葉へのショックはなかった。それほど、脳裏に激しい衝動が走り映像として焼き付いて離れそうになかった。
「天野は……元に、戻るんですか」
「大丈夫ですよ。マナ皇帝がいれば、いつも短時間で再生できます」
「……そうですか」
何が起きて、こうなったのか。風音には、いくら想像してもわからなかった。
サツキの魔力回路を開通させる行為が、難しいものだったのだろうか。キメラの特性を完全に理解していない彼に、知る由もない。
しかし、責任感の強い彼の脳内には、目の前の光景と同じくらい「知らない」という事実が重くのしかかってくる。
「……オレは、何も知らない」
目の前で溶けきっているユキ、後ろで感情を押し殺した2人。
必死に医術魔法を展開するマナに、補佐をする千秋。
そして、守ると決めたサツキの寝姿。
風音は、順番に視線を動かし絶望に似た声を発する。
これで「守る」なんて、口先だけ。そんな虚無感に似た感情が、彼の中を支配していく。
「これは、ユキさんが望んだことです。しかし、少なくともあなたもそれに同意した。……あなたも、望んだそれの代償が、目の前のこれなんです」
「オレが……望んだ……」
今宮の声に、感情が入った。それはどこまでも冷たく、今まで接してきた彼とは程遠いものだった。
風音は、ユキの言葉にのって「サツキに魔力を入れる」提案を受け入れた。いや、その背中を押してしまったのかもしれない。どんな展開でこうなったのかすら、今の彼には思い出せなかった。それよりも、引きちぎれそうな勢いで心臓が痛み出す。
「……今宮、やめなさい。風音くんは知らなかったのよ」
今は、アリスのフォローも虚しく感じてしまう。
風音は無言で立ち尽くし、ユキの溶け切った姿と必死に寄り添うマナを見ながら握る拳に力を入れた。
耳には、その声が。鼻には、その臭いが。
どこまでも、彼に「無知」を植えつけてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます