第七章 反物質(1)


 女と別れて、和泉小槙は一人、遠野橘の研究室がある施設まで歩く。一分ほどの行程を、彼女はゆうに三十分かけて歩いてきた。女から告げられた作戦を実行するためには、そのくらいの心の準備が必要だったからちょうど良かったとも思える。


 目当ての建物の名称は、白兎はくと・オリファーマ・ハルフェベーフェン研究所という。偉人にあやかってつけた名で、呼称するには長すぎる(そして舌を噛みそうなほど言いづらい。)感があったが、和泉小槙は略称で呼ばれるのを聞いたことがなかった。それどころか研究者は、その施設名を呼ぶことに一種の優越感を感じてさえいる節があった。


 その白兎・オリファーマ・ハルフェベーフェン研究所の前で、和泉小槙は足を止める。


 無機質な印象を受ける白い建だった。三棟並んで立つ長方形の建物の向こうに、正方形の一段低い建物の一部が見える。初見の場所ということはなかったが、見慣れるほどに通い詰めているわけでもなかった。


 正門脇の衛兵詰め所で顔見知りの衛兵に軍の身分証を提示する。表面には自身の顔写真が、裏面には特別事項として「危険物の携行許可」という文字が殴り書かれている。末尾に小さな職印が押してなければ、変造されたものだと疑われても仕方がないだろう。


 その文字を目にする度に、彼女は初めてこの施設を訪れたときのことを思い出す。


 身分証にある『危険物』とは彼女が携帯している刀のことで、名を『鳴神なるかみ』と言う。彼女の一族の筆頭者が所持する刀で、現在の所有者が彼女だった。利かん坊で、彼女以外の人間が触れることを極端に嫌う。


 初めてこの施設を訪れた際にも、詰め所で衛兵が触れた途端にして大変な騒ぎとなった。衛兵詰め所の天井には、その時の焦げがまだ残っている。

 入所の許可を受ける度に、衛兵とはその時の話になる。

 今日もそうだ。いつもと同じやりとりをしてから、施設内部、遠野橘の研究室へと進む。


 人気のない廊下を行けば、「第六室 」と表示された部屋に当たる。入り口の隣、天井近くの壁に掛けられている防火責任者の名前は「遠野橘」となっていた。


 来室を告げるために入り口をノックすると、中から女の声が聞こえた。聞き覚えのある甲高い声。裏声のようでもあり、金切り声のようでもある。

「はーい。どうぞ。開けてもらっても大丈夫でーす」

「失礼する」


 入り口の扉を開くと、中では女が一人、木製の器に菓子を入れているところだった。

 年の頃は人間で言えば三十前後。後頭部で無造作に束ねられた赤茶色の毛髪と、大きな黒縁眼鏡が印象的な女だった。


 女が顔を上げる。反動で皿から菓子がこぼれる。

「あら、和泉小槙ちゃん。久しぶり」

「久しぶりだな。野波安里のなみあさと少尉。息災そうで何より」

「聞いたよー。また無茶をしたんだって?」

「本日付で大尉に降格だ」

「あらら、また?」

 野波安里はそう言いながら、皿から落ちて机上に転がった菓子を口へと運んだ。


「元気出してね。食べる?かりん糖」

 そう言って皿に入った菓子を差し出す。

「ありがとう。しかし、結構だ」

「きらい?やっぱり見た目がちょっとねー。ヤギとかのを連想しちゃうもんね」

「いや、ヤギの…は、見たことがないので分からないが」

「私もないよ。でも、雰囲気がヤギのっぽいじゃない?お客さんに出そうと思ったんだけど、止めとこうかな。急に来るからストックがないんだよね」

「誰なんだ?」

 来客中であることは建物に入ったときから気配で分かっていた。


 遠野橘の研究室は、大きく分けて三部屋から成っている。


 入り口の扉から突き当たった部屋が一番広く、その部屋が彼の研究室全体の三分の二を占めると言っても差し支えない。研究費で購入した機材は全てこの部屋にあり、部屋の入り口には入室管理のための光彩認証装置がついている。遠野橘が研究仕事をするために国が準備した部屋で、中には高額な機械類と体に悪そうな色をした液体が入ったガラス瓶が並んでいる。


 現在、遠野橘が接客しているのはこの部屋だ。厚い壁で仕切られているため、声も聞こえない。


 野波安里が菓子を飲み込んでから答える。

「名前は私も知らない。顔はヌートリアに似てるけど」

「ヌートリア…?」

「研究棟が別だから和泉小槙ちゃんは知らないと思うよ。うちの先生と大学が同じだったらしくて仲はいいの。研究対象は確か違うはずだけど」

「そうか」


 そもそもヌートリアが分からなかったが、あまり重要な情報でも無さそうだったので、そのまま放置する。


「待ってる?そう長くはかからないと思うけど」

「そうさせてもらおう」

「そこ狭いでしょ。こちらへどうぞ」

 そう言って野波安里は壁に立て掛けてあったパイプ椅子を組み立て始める。


 和泉小槙らがいる部屋には、遠野橘の仕事に不要と判断されたであろう物が溢れていた。華奢な作りのパイプ机の上に、遠野橘の私物が山のように積まれている。ほとんどが黒光りする怪しげな機械で、中には、耳当てのような形のものもあった。それぞれがそれなりの質量を有しているのだろう、机の足は歪んでいる。


「邪魔だと思うけど、適当に場所を作って。あ、その機械は触らない方がいいかも」

 野波安里はそう言って、一番手前に置いてある黒い箱のような装置を指差した。

「波数の調整が難しくて苦労したんだって。触ったら怒られちゃった」

「珍しいな。遠野橘が怒るなんて」

「先生も躍起になってるみたい。諜報課の暗号回線を傍受しようだなんて、止めればいいのに。学会から追放されちゃう」

 しかし、言葉の内容ほど口調は暗くない。

 助手を勤める野波安里には、遠野橘の研究の重要性を理解しているのだから、当然のことだろう。


 遠野橘の専門分野は、對素の液化貯蔵技術だ。現段階では、まだ実装出来ていない未来の技術だったが、科学に疎い和泉小槙でさえもその名称を知っていたのは、その技術が軍事転用前提の研究だからだった。それも、彼女を含む對精トルトニスと呼ばれる兵器に大きな影響力を持つ類いの。


 野波安里はかりん糖を口許へ運びながら、

「どこにいるのかしら、菊乃きくのん。ちょっとで良いから戻ってきてくれればいいのに」

「元気そうだったぞ」

「会ったの?」

 野波安里が驚き、勢い良く顔をこちらへ向けた。反動で眼鏡がずれる。

「さっきまで一緒だった。それでここに来るように言われたんだが」

 和泉小槙は腰ベルトから太刀を抜き、差し出されたパイプ椅子に腰を下ろした。


「何か悪巧みをしているのね」

 言いながら野波安里は目を細めた。

「申し訳ない。貴官にも迷惑をかけることになるだろう」

「やめてよ。和泉小槙ちゃん。降格したとは言え、まだ大尉様でしょ?私なんかに頭を下げては駄目」

 野波安里が両手を胸の前で小刻みに震わせる。

「迷惑をかけるのにくらいは関係ない」

「ううん!いい子!本当に對精トルトニス?」

「済まないな。作戦部われわれのせいで苦労しているのだろう?」

 和泉小槙は苦笑する。

「情報本部ほどではないから気にしないで。それに、あなた達がいなければ、こんなに平穏な日々を送れないのだし」

 野波安里はそう言って、かりん唐を口許へと運んだ。かりん糖の山が崩れ、菓子皿の底が見え始める。彼女は客に菓子を出すことを諦めたようだった。


(平穏か…)

 これまで、天津本土が他国に侵略されたことはない。現在も十数の部隊が戦線に配置され、いつ開戦の火蓋が切って落とされるか定かではない環境にあったが、それでも本土に暮らす人間にとって戦争は遠い異国での出来事なのだろう。軍属の野波安里でさえ、平穏という言葉を口にしたのだ。市政の者は、現状を平和と勘違いをしている可能性すらある。


「今回は誰だった?菊乃ん。ひょっとして私?」

 大きなかりん糖を選びながら野波安里が聞いてくる。

「いや、知らない女だったな」

「そっかー。いつか変装してくれるって約束だから、待ってるんだけどな」

「楽しそうだな」

「だって、どれくらい似てたか聞いてみたいじゃない?」

「そうかな」

 和泉小槙は首をかしげる。

「まぁ、和泉小槙ちゃんには変装しないと思うけど。上背も肌の色も違うし、それによく叱られてるから、知った人に会うときは面倒じゃない?いちいち小言を言われるの」

「違いない」

 苦笑して返す。

 ちらりと遠野橘らがいる部屋を振り返るが、扉が開く気配はない。






 

 



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