貞盛と将門
平安時代中期。
中央集権的律令制が崩れ、受領国司と在地勢力が脱税や横領を巡って様々な対立を行っていた。
いったい誰が知ることができたろう。
小さな過ちを正さなかったが為に、このような大害に及ぶことになろうとは。
桓武天皇の血筋である
その中でも父・良持は鎮守府将軍の地位を与えられ、砂金と北方貿易の権限を持っていた。
そんな父親が亡くなった事により、その土地・石井営所を奪いに来たのが嫁の父親であり、伯父である良兼だった。
従兄弟の貞盛と京で官位につこうと立身出世を目指していたが、貞盛に先を越された事と父の死が重なり、無位無官の儘、坂東に帰郷した将門は、そこで生きる事を人生と決めていた。
その彼の初戦が伯父連合軍との戦争であった。
百兵対二千兵という不利な戦ではあったが、良持の蝦夷戦術を熟知していた将門の騎馬軍は予想以上に強かった為に、思いがけずに完勝し、かかわった敵のクビを奪っていった。
その中には貞盛の父親である国香がいた。
従兄弟であり、友人の父親のクビをとったことで将門は負い目を感じていたが、貞盛の方は、
「父の死の原因は将門ではなく伯父達にある。
私は京都で、御前は東国で、互いに名声を馳せようではないか」
と励ましていたが、それを耳にした良兼は貞盛に、
「実の父親を殺されたにもかかわらず、仇と親密にするなど強者にあるまじきことである。
我々に組みして将門を殺すべきだ」
と責めたてた。
貞盛は伯父上には逆らえないが、将門は裏切れないと板ばさみになっていた。
一方、将門は源護によって朝廷に訴えられていた。
高望王には四人の息子がいて、良持以外の三人に各々、娘を嫁がせている事から、伯父三人と協力していた源護の息子三人が将門によって討ち取られていたからだった。
承平六年(936)朝廷から召喚状を受けるが、弁明により処分は軽く、人気があがり、武勇を認められた将門が逆に訴え返したことで国守的犯罪に対する逮捕状とも言うべき追捕官符が下り、朝廷は平氏の内紛を将門に委ねた。
追捕官符は朝廷が在地の治安維持に利用しており、恩賞も保証されていた。
天慶二年(939)首謀者であった良兼の死により戦争は収束。
良兼側についていた貞盛を攻める事はなかったが、この頃からライバル関係が表面化してくる様になる。
が、それよりも一年前。
武蔵国の国司・武蔵
ちょうど其処には貞盛がいて、将門に召喚官府が出されたが、
「私の資質は武芸である。
私に肩を並べる事が出来る人間など他にいないではないか。
なのに朝廷は私を糾弾する官府を下すなど恥辱であり、面目を失った」
と無視をしていた。
しかし、将門は世間的な評判が高く、国司らからの謀反は根も葉もない事だと朝廷への嘆願があった事で、逆に朝廷は恩賞を用意することにしていた。
そんな彼の義侠心理が裏目に出たのが天慶二年(939)十一月。
藤原
常陸国の国司に貞盛は加担していた。
調停に向かうが、将門の軍は勢いが止まらず国府を焼き討ちし、蔵の鍵と国印を奪ってしまうという国家への反逆を犯してしまった。
将門の参謀的な立場の興世王は、
「どうせ一国をとってしまったら死罪も免れないんですし、いっそ、坂東八カ国を手中に収めてしまったら如何ですか」
と提案した。
それに対して将門は、
「しかし、私には何の大義もない」
と弱気であった。
「大義。
いります?
んなもん適当にコジツケちまえばいいんですよ」
「それは、できるのか?」
「まぁ、私に任せて貰えばカンタンですよ」
「わかった。
御前の好きにしてほしい」
「では、私にオマカセを」
そういうと興世王は兵士を集合させた。
その隊列の中を一人の巫女姿の女が進んでくる。
巫女は将門の前に立つと「わたくし、八幡大菩薩の使いですの」と言い。
続けて、
「将門に天皇の位を授けよ。
その証明は菅原道真が奉る」
と声高々に叫んだのだった。
その言葉に応えるように将門の隣で興世王は小さく口添えする。
「私は天皇の子孫である。
国司を都へ追い出し、坂東八カ国を手に入れよう。
やがて京都をも攻略するのだ」
と新皇宣言を興世王の言葉をなぞりながら叫ぶ。
兵士達は歓声をあげて、それに応えたのだった。
それにより、いつ攻められるか気が気でない都は混乱状態に陥ったが、興世王は都の出方を見ようと直ぐに攻めはしなかった。
朝廷にとっては人気者の将門の謀反は脅威であった。
そして迅速に解決したい難題だった。
十二月二十六日、瀬戸内海の豪族・藤原純友が反乱を起こした。
朝廷は、これを利用しようとした。
純友の要求である五位の地位を恩賞として与えると将門討伐に向かわせた。
また全国各地で祈祷を行い、人々は悪鬼の名号を書いた札を火中に投じて焚き、将門の人型を棘のある木に吊り下げて、八大尊官は神の鏑矢を賊の彼方に射放った。
「将門を殺した者には誰でも朱紫の服を与える」
と、つまり貴族に取り立てるという。
これまでに関わった多くの者は没落した貴族である。
よって土地よりも身分の方が貴重だった。
その恩賞に目が眩んだものに藤原秀郷がいる。
秀郷は大蛇の尾を踏んだが物怖じせずに通り過ぎた事から、翌日、娘に化けた大蛇に頼まれ大百足退治に出かけた男である。
一本の矢を百足に放ち、見事命中するが、矢は折れて効力をなさなかった。
もう一矢も同じ末路。
三本目には唾をつけた。
その矢は見事、百足の巨体を射抜いたのである。
「一本では折れる化物でも三本おなじ箇所を射抜けば一溜りもあるまい」
と、その後、無数の足を切り崩して大百足を退治した男は大蛇の礼を受け、その背に乗って竜宮城に行ったという伝説もあり、百戦錬磨の達人でもあった。
「私は諍いの事情を聞くために常陸国に出向いたが、貞盛と国司の息子が手を結んでおり兵を率いて戦いを挑んで来たのです。
やむなく軍勢を打ち負かし一国を滅ぼしてしまいました」
藤原忠平が秀郷に将門からの書状を見せた。
彼は、それを読みあげていた。
「将門は不可抗力だと言いたいのだろうが処置がよくない。
これまでにも疑われるような事もあっただけに救いがたい面もあるのですよ」
と、秀郷は戦場へと赴く事になる。
彼は農繁期を待って将門に戦を仕掛けた。
田畑の為に農民兵を解放するのを待ったのである。
天慶三年(940)二月十四日の北山合戦での将門軍は四百人。
対する討伐軍は三千人。
討伐軍には貞盛もいた。
それに貞盛が幾ら率いていても負けないと侮っていた。
しかし、そこに誤算があった。
藤原秀郷の存在である。
将門は馬上にありながらも頭蓋に矢を射られて絶命した。
すべては秀郷の作戦であった。
秀郷は、その功績から従四位下の身分を与えられる。
貞盛は従五位下に。
子孫には平清盛が存在している。
また源経基の子孫には源頼朝がいる。
将門を討伐した者たちが恩賞を頼りに二百五十年後には武士の時代を作るのである。
将門の首は、晒し首となり、数日後には台風で吹き飛ばされて、東京都千代田区大手町に転がった。
そこには首塚が建てられた。
将門の首が、胴体を求めて飛んだが力尽きたのだと民衆は語った。
延命院には彼の胴塚がある。
部下が寿命の長いカヤの木を目印に埋めたと言われている。
彼の死後、様々な憶測が飛び、藤原氏の摂関政治を潰せなかった無念から怨霊になったとも言われるし、武士の先駆けになったと徳川家康が祀った事から守り神とも言われるようになった彼の事を綴る
「どうか、人の世界に生き残っている人々よ。
他人のために慈悲を施し、悪行を消すため、善行を積むようにせよ」
と締められてある。
貞盛は、ずっと窮屈な人生だった。
個人的には嫌いではない。
親友でもあった将門と、心ならずも敵対してしまい、顔をつきあわせることは無かったが、やがて敵対関係は確実なモノとなる。
だからこそ自分の手を汚したくないという狡さが結局、現実を歪めてしまったのだという後悔。
しかし、彼は忘れはしないのだ。
将門の不器用で愚かな人生が、歴史に大きな足跡を刻む事になったのだから。
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