第79話「先輩として」
古の大魔法使いロレッタ卿——
時と空間を操る強力な魔女であり、魔法艦の基礎を作ったリーベルの英雄だ。
彼女の考案した魔法艦はさらに強力な妖魔艦に発展し、無敵艦隊への道を歩み出した。
生みの親たる彼女の地位は揺るぎないと羨望を集めたが、ある日忽然と姿を消した。
ロイエス然り、エルミラ然り、女将の正体を知った者は皆一様に驚く。
まずは生きていたことに驚き、次いで初代兵団長が宿屋の女将に変わっていたことに驚くのだ。
その後、必ず尋ねられる。
「なぜ?」と。
ごもっともな疑問だが、女将にしてみれば何も変わってなどいないのだ。
最初から魔法は人々の生存を守るために使おうと主張し続けてきた。
それを海洋覇権や無敵艦隊などと、本旨を捻じ曲げていったのは王国側だ。
変わったのは周囲であり、彼女は何も変わっていない。
だから今日もいつも通り助けにきたのだ。
海で困っている人たちを。
まずは朝食だ。
ファンタズマ・ノイエッド双方、不眠不休と飲まず食わずで顔色が良くない。
栄養をとった方が良い。
ただ、このまま全員を宿屋号に招くわけにはいかなかった。
人数は問題ないが、殺気立っていて仲良く飯を食おうという雰囲気ではない。
隣り合えばまた斬り合いが始まってしまうだろう。
そこで乗員たちにはそれぞれの艦に残ってもらうことにした。
朝食は宿屋号から運び込む。
ノイエッド号は船室が剥き出しで気の毒だが我慢してもらう。
元はといえば、自分たちで点けた火が原因なのだから。
だがそれでも心配だ。
いまは女将がいるから大人しくしているが、いなくなった途端、どちらからともなく白兵戦を再開するかもしれない。
見張りが必要だ。
女将は巻貝を手に取った。
「スキュート」
「はい、女将。もうすぐ着きます」
「それじゃ、予定通りにお願いね」
「かしこまりました」
そのやり取りが近くにいたシオドアの耳に入った。
思いがけない名に驚いた。
「スキュート?」
彼の驚きに女将が気付いた。
「ええ。あなたにとっても身近な名前ね。艦長さん」
確かに身近な名前だ。
シオドアは
毎日彼の名を冠する艦に乗っていた。
一方、女将にとっても彼は身近な存在だ。
宮仕えにうんざりしていたスキュートは、ある日とうとうリーベルを去った。
そんな彼に女将が声を掛けたのだ。
宿屋号の給仕にならないか、と。
以来、長い付き合いになる。
「ご存じだと思うけど、彼の前職は付与術師。主に魔法防具の製作を専門としていた。だから——」
だから防具作りが得意な付与魔法使いは防御魔法も得意だ。
障壁を張らせたら古今随一といっても過言ではない。
現役時代、その堅固さから付いた名が〈要塞スキュート〉。
「彼には皆のお世話の他に、二艦の間を障壁で隔てておくように指示しておいたから」
「…………」
これには傍らで聞いていたエルミラも驚いた。
ロレッタに引き続きとんでもない名前が飛び出してきたものだ。
まさか昔話の要塞スキュートが宿屋号で給仕をやっているなんて……
「ここは彼に任せることにして、あなたたちは一緒に来てちょうだい」
女将は三人を順に指差していった。
エルミラ、ロイエス、そしてシオドアも。
「な、なぜ私が……?」
「あら、可愛いわね。そんなに怖がらなくても大丈夫よ」
女将はクスクスと笑うが、そういうことではない。
エルミラはファンタズマ側の総大将であり、こちらはロイエス提督が総大将だ。
その二人だけならわかるが、なぜ提督の一部下にすぎない自分まで呼ばれるのか?
シオドアはこの魔女の真意を測りかねていた。
「別に大きな鍋で煮込んだりしないから安心して。ただここでは落ち着かないから、あっちで朝食をとりながら話しましょう」
女将は冗談めかして言ったが、誰も笑わなかった。
笑えない。
さっきの小火球の大爆発を見た後では……
「せっかくの招待だ。ご馳走になろうではないか、シオドア」
ロイエスが代表して女将の招待を受けた。
上官である提督がそう言うならシオドアも同行する。
むしろ来るなと言われても護衛として付いていかなければならない。
魔女の船に提督が一人で向かわれて、もし何かあったら一大事だ。
話が纏まったところで宿屋号からボートが到着した。
「お待たせしました」
現れたのは壮年の男性。
彼がスキュートだった。
要塞という名から岩のような頑固親父を想像していたのだが……
彼は要塞というより、街の片隅で近所の日用品を手作りしている職人のような男性だった。
彼に続き、数人の給仕たちがファンタズマに乗り込んできた。
見ればノイエッドにも。
欄干から見下ろすと、数隻のボートと沢山の箱が見えた。
彼らは手際よくそれらの箱を甲板へ上げていく。
中身は二艦に配る朝食だ。
ここはもう彼らに任せておけば大丈夫だ。
女将たち四人は宿屋号に向こうことにした。
だがそこでシオドアが難色を示す。
「我々は自前のボートがあるし、漕ぎ手もこちらで用意するのでお気遣い無用」
そう言い出し、女将から見えないように提督の裾を掴んだ。
当然の用心だった。
彼にしてみれば、提督を得体の知れない魔女のボートに乗せるわけにはいかないということだ。
自前のボートなら武器を潜ませることもできるし、腕利きの者を漕ぎ手として連れて行けば、何かあったときに心強い。
女将に対して大変失礼だったが、彼女は怒るどころか微笑ましそうに笑っていた。
ロイエスは苦笑いだ。
彼女の正体を知っているだけに。
「心配してくれるのはありがたいが——」
艦隊が万全の状態だったとしても彼女一人に敵わない。
我々を生かすも殺すも彼女の気持ち次第。
だからいまさら用心しても仕方がないのだ。
彼はそう教え諭し、女将に部下の非礼を詫びた。
対する女将はずっと我慢していたのだが、とうとう吹き出してしまった。
「ほらね、私の言った通りだったでしょう? 坊やは部下から慕われる立派な提督さんになれるって」
「お、女将! 部下の前で坊やはやめてくれ」
不思議な光景だった。
シオドアの目の前で魔女が鬼を冷やかしている。
どうやら彼女と提督は昔からの知り合いらしい。
魔女というものを完全に信用したわけではないが、様子を見るに、いきなり騙し討ちということはなさそうだ。
彼の中で少しだけ警戒が和らいだ。
***
結局、提督とシオドアは自前のボートで向かうことになった。
提督を案ずる部下の心情に女将が配慮したのだ。
セルーリアス海に平和が訪れた。
白兵戦は魔女の乱入により停戦となった。
そう、戦闘は停止しているだけだ。
まだ終ったわけではない。
このまま戦闘終了となるか、続行となるかは和平交渉の結果次第だ。
そのために海賊と提督はこれから大型船で朝食を囲む。
提督もシオドアもこの朝食の意味を知っている。
一緒に朝飯を食って仲直りしようということではない。
戦いで使用する武器が、魔力砲から言葉に変わるだけだ。
その言葉の戦いを和議というのだ。
提督はその朝食の招待を受けると言った。
和議に応じるという意味だ。
総大将の決定に従い、帝国兵は大人しくノイエッド号に引き上げていった。
だがさっきまで互いの命を狙っていた者同士だ。
些細なことで白兵戦が再開してしまうかもしれない。
始める理由など、簡単に見つけることができる。
例えば、
「睨んできた!」
「こっちを見て嗤いやがった!」
……等々。
罵声を浴びせずとも、人は目が合っただけで殺し合いを始めることができるのだ。
これでは和議に差し支える。
女将が彼らの世話係にスキュートを選んだのはそれを防ぐためだった。
「一部の見張りを除いて、総員、船室で待機せよ」
ロイエスは残る部下たちへそう命じてから、シオドアを伴ってボートに乗った。
漕ぎ手には腕利きの者たちが集められている。
ノイエッド号全乗員の総意だ。
それを見た提督は困った笑みを浮かべたが、止めはしなかった。
彼らなりに考えてくれたのだから。
向かうのは提督と同伴者のシオドア、それに漕ぎ手の水兵四名だ。
「提督、お気をつけて!」
残る者たちは舷側に整列し、ボートに向かって敬礼した。
提督たちも敬礼を返す。
ボートは漕ぎ出し、段々とノイエッドから遠ざかっていく。
敬礼する手を下げて前を向くと、前方に大型双胴船がそびえ立っている。
シオドアは初めて見たが、ロイエスは懐かしそうに見上げた。
「懐かしいな。何も変っていない」
シオドアは呟きを聞き逃さなかった。
さっきはそれどころではなかったから控えていたが、いまなら問題あるまい。
「提督、あの船は一体……」
間違いなく提督はあの船を知っている。
身辺を警護する者として、知りうる限りの敵情を把握しておきたかった。
「あの双胴船は、〈
「ロレッタの宿屋号……あの迷信の?」
シオドアは驚いた。
どこからか忽然と現れる巨大な船と魔女。
言われてみれば子供の頃聞いた特徴と合致している。
だが、ずっと迷信だと思っていた。
いや、目の前にいるのだから実在すると認めるしかない。
しかし……
「いくら頭の中で打ち消しても、実在するものは消えんぞ? しかもこれから二人で乗り込むのだ。その迷信の船に」
ロイエスは悩んでいる部下に悪戯っぽく笑った。
世界の迷信の一つ、ロレッタの宿屋号——
見たと言い張る者の証言によれば、その船は魔法艦以前の一二〇門級戦列艦二隻を横に並べた双胴船で、その上には楼閣が立っていたという。
またその船に乗ったことがあるという嘘つきによると、そこでは魔女が海の宿屋を営んでいて、遭難者を泊めて陸の近くへ送ってくれるらしい。
ここまででも十分インチキ臭いのだが、この話を迷信たらしめているのがその次だ。
嘘つきは語る。
いや、騙る。
その女将はリーベルで語り継がれている英雄ロレッタ卿だったと。
「…………」
このような沈黙の後に大爆笑が起きてしまう。
酒場で話せばとてもウケる話だ。
嘘つきは信じてくれと必死だが、聞いていた者たちは面白かったと彼に一杯奢る。
この嘘つきは正直者なのだが、本当に嘘つきだと迫害されたくなかったら、大人しくその酒を飲むしかない。
じいさんのじいさん、そのさらに前の時代の英雄がいまも生きているという時点で作り話なのだ。
魔法使いは常人より多少長命ではあるが、それでも数百年も生きる者はいない。
もしいたとしたら、そいつはもう人間ではない。
人外の者が海で宿屋の女将をやっているなど、そんな酔狂で突飛な話を実話だと主張する方が間違っている。
「では、さっきのがロレッタ卿本人であると?」
「うむ」
さっき甲板で提督が名を呼んでいたが、ただの同名だと思っていた。
それがあの
シオドアの中で、現実と迷信がグニャグニャと中途半端に混ざり合っていた。
隣で平然としている提督が何だか不思議なものに見えてきた。
鬼も魔女も常人ならざる者だ。
同類は同類を知るということなのか?
そんな部下の心境を知らない提督は、呑気に忘れていたことを思い出した。
「ああ、そうだ。これだけは注意しておけ」
まだ何かあるのか?
シオドアは彼の言葉に身構えてしまう。
提督の注意、それは——
「彼女に年齢の話は禁句だ。うっかり尋ねてしまったら、そのときワシにできることは何もない……良いな?」
確かに女はいつまで経っても女だと聞いたことはあるが、数百歳……
冗談かと思ったが、提督の目は笑っていなかった。
彼の目を見て悟った。
若い頃の提督自身が
だからこれは先輩として後輩に同じ轍を踏ませまいとする情けだ。
理解したシオドアは背に冷たいものを感じながら了解した。
「ア、アイサー」
二人の視界の中で、宿屋号はジワジワと大きくなっていく。
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