第58話「父母との別れ」
ファンタズマは北風を斜めに受けて南西に進んでいた。
もう少しで島南端を越えるが、そうすると北風から西の大陸に向かって吹く強い東風に変わる。
この風に乗って一気に島を離れるのだ。
空を白と灰色の雲が覆い、波が刻々と高くなっていく。
厄介な状況になりつつあった。
竜はまだ飛んできていない。
リルは空を、エルミラは空間鏡を睨んでいるが、それらしい影は見えない。
艦が走り出してからわかったことがある。
デシリア型空間鏡は空から水中まですべて映し出せるのだが、あくまでもファンタズマから見えたものに限られるのだ。
だから雲の上を飛ぶ渡り鳥は見えないし、水中で大頭足が墨を吐いたらやはり見えなくなる。
リルは一点に注目すれば雲の反対側も見えるというが、その一点がわからないから困っているのだ。
竜は広大な空のどこから現れるのか。
空間鏡は自動的に何かを見つけて知らせてくれるものではない。
少女が見えたものを表示しているだけだ。
ということは見落としもありえる。
それゆえ、エルミラも空間鏡で雲の切れ間を見張っていた。
いまのところ異常なし。
海鳥の影も見えない。
しばらく静かな航海が続き、左舷後方に島の南端が見えてきた。
そろそろ風が変わる。
こちらも風向きに帆を合わせなければならない。
じいの指示が操帆手たちに飛ぶ。
操帆や操舵はアジトで仲間になった水兵たちを主任者とした。
ただ人数が足りないので陸兵にも加わってもらっている。
陸兵だからといって、船が苦手とは限らない。
実家が漁師という者や、一族で沿岸輸送船を営んでいる等、古のアルシール卿のような者は沢山いるのだ。
そういう者たちなので、水兵の足手まといになることはない。
「風が——」
左へ吹き流されていたエルミラの髪が、後ろから前に向かって流されるようになった。
求めていた東風だ。
南下はここまで。
今度はこの東風を斜めに受けて西へ運んでもらう。
いまのままだと横風を受けることになるので、帆の向きを直し、針路も変更する。
「針路変更、方位二四〇」
「アイマム! 方位二四〇!」
エルミラの命令を受けたじいが各所に指示を飛ばす。
操舵手が僅かに面舵を切り、ギギッという音を立てながら艦が右へ傾く。
帆も東風に合わせて動かしていく。
帆に溜まっていた北風が抜けて一旦萎むが、すぐに東風が入れ替わる。
新たな風で一杯に膨らんだ帆に引かれ、艦が速度を上げていく。
無事、東風に乗ることができた。
今日はこのまま南西に進む。
目指しているのは西だが、いまはとにかく島から遠ざかる。
夜明けになったら北西に転舵する。
こうやって大きくジグザグと進みながら最終的に西へ進んでいればよいのだ。
目標はリーベル人の禁忌、コタブレナ海域。
島南端から西へずっと進んでいくとその海がある。
各国の法で立ち入りが禁止されている封鎖海域だ。
法といっても処罰があるわけではなく、誰も救助に行かないよ、という警告だ。
望む者は誰でもその海に浮かぶコタブレナ島に上陸できる。
だが封鎖の経緯を知っている者は誰も近寄らない。
特にリーベル人は近寄らない。
だからこそ絶好の合流地点だった。
そこなら帝国海軍に見られずに済む。
東風に吹かれて島はどんどん遠ざかり、ふり返るたびに小さくなっていく。
エルミラは艦尾に立ち、故郷に向かって敬礼した。
「お別れです。父上、母上」
彼女が命がけで帰郷したのはリルの情報を得るためだった。
残念ながら目的は果たせなかったが、決して無駄足ではなかった。
父のことを知ることができた。
彼は決して冷たい人間ではなかった。
冷たい態度を取らなければ愛する者たちを守れなかったのだ。
本心ではずっと母子を大切に思ってきた。
岩縫いノルトを護衛につけたことがその証だ。
後世の歴史家はアーレンゼール王を何もしなかった暗君と評するかもしれない。
だが
彼は何もしないことで貴族たちの悪行を阻止しようとしていたのだ。
貴族たちは権力争いに明け暮れ、王が民を思って何か発言すればその言葉を悪用する。
民のために発言した結果、かえって民を傷つけてしまうかもしれない。
孤立無援の王が平和のためにできることは、間違った連中に自らを旗として使わせないこと。
彼は何もしないことで悪徳貴族共に抗議していたのだ。
「おまえたちは間違っている」と。
彼は決して悪に屈しなかった立派な王だった。
その血が自分に流れていたことをエルミラは誇りに思う。
——来て良かった。
エルミラは生まれたときから天涯孤独だったのではなく、優しい母と偉大な父の娘だったのだと確認することができた。
これからどこの海へ行こうと、胸を張って生きていける。
できれば二人の墓に花を供えてから旅立ちたかった。
特に父は処刑された後、どこに埋葬されたのかわからない。
それだけが心残りで、彼女の長い敬礼にはその詫びも含まれていた。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
生きている者は前を向いて進まなければならないのだから。
彼女は敬礼する手をゆっくりと下した。
そのとき——
「エルミラ! 前に何かいる!」
リルが前方の海を指差していた。
その声で現実に引き戻されたエルミラは、急いで艦尾から空間鏡のところへ戻って確認する。
見れば球体の端に船の群れが表示されている。
——待ち伏せ? こんなところで?
追われている身なので、真っ先に敵艦隊の待ち伏せを疑った。
だがまだ遠すぎて交易船団なのか、敵艦隊なのかはっきりしない。
リルが判別できないものはどちらでもない船として表示されるのだ。
こちらで敵艦と指定すれば少女も認識し、そのように表示が変わるのだが……
総員警戒態勢を命じ、艦長と副長は空間鏡に見入る。
ノルトはこの球体を今日初めて見たが、さっき姫様から教わったのでどういう呪物なのか理解していた。
台座に触れて艦長と同じものを睨む。
「じい、どう思う?」
船団か?
それとも艦隊か?
「申し訳ありません。これだけでは何とも……」
船団にしては航路を外れすぎている。
このまま西へ進むとコタブレナになり、東へ進むとイスルード南端だ。
どちらも貿易港はない。
だが敵艦隊だと断言するには根拠が弱い。
南に重要な港はないので、島西側の艦隊は北に集中している。
手薄な南岸から他国密偵が上陸してくる恐れはあるが、南は騎士団が重点警戒しているので任せてよい。
ゆえに艦隊が南の沖で哨戒網を張ることは通常あり得ないのだ。
どちらなのか不明なので仮に〈船列〉と呼ぶ。
船列は四隻編成、一列縦隊でゆっくりと南東へ向かっているようだ。
予測針路は方位一四〇。
このままの速度で進めば針路が交差する。
エルミラは減速か停船してやり過ごそうかと考えたが、じいは転舵を提案してきた。
こちらは先に捕捉しているが、向こうは魔法使いがいないようで、気付かれていない。
速度はこのままで面舵を切り、遠回りに船列後方を横切ろうというのだ。
エルミラはこれを採用した。
こちらの
船列の正体はわからなかったが、どちらであっても先に見付けて回避すれば良いのだ。
安全策を取ることになったファンタズマは方位二七〇へ転針。
真西へ針路を変更した。
***
エルミラたちが針路を変更した頃、件の船列では……
水兵たちが持ち場についていた。
水夫ではなく、水兵だ。
船列の正体は艦隊だった。
彼らは帝国海軍第四艦隊。
司令部の命令によりこの海で待機していたのだ。
脱走艦を撃沈するために。
まだ発見できていないが、標的は確かにやってきているのだから命令は正しかった。
だが位置を予測したのは司令部ではなくロイエス提督だ。
彼が艦長たちに執念深さを説いた後、報告会は作戦会議になった。
海賊エルミラは上陸に成功している。
その前提で彼らは意見を出し合った。
騎士団や首都を守る歩兵隊から彼女を捕らえたという報せはない。
そして買収してある外の反乱軍の間者から、彼女が合流したという報せもない。
残るは、ウェンドア地下に潜伏している一派だが……
地下反乱軍の間者によれば、そこの指導者は頭がおかしいのか、せっかく合流した王族を悉く処刑しているという。
彼女が行っても歓迎されない。
処刑されるとわかったら、帝都のときのように暴れて脱走するだろう。
地下反乱軍と決別した女海賊は脱走艦に戻る。
脱走艦はどこに?
あの夜以来、艦隊は海ばかり見ていないで、沿岸もよく見るようになったが見つからない。
南西の小島が怪しかったが、地元の漁師によれば海底は浅く、岩がゴツゴツしているので小型艦でも座礁しかねないという。
提督やシオドア艦長の仮説が正しければ、敵は姿を消せるらしい。
だからわざわざそんな危険なところを選ばなくても、西海岸のどこにでも停泊できるのだ。
これでは探しようがない。
だが魔法は無限ではない。
必ず命や体力、何かを消耗する。
艦全体に不可視魔法を掛けられるのだとしても、かなりの大魔法だ。
そんな消耗の激しい大魔法は安全が確認され次第解除する。
再発動するのに時間が掛かるはずだ。
その間に敵を撃沈する。
そこで〈どこにいるのか〉ではなく、〈どこを通るのか〉を考えた。
北は進めば進むほど警備が厳重になる。
西の洋上も接収した魔法艦の習熟訓練場になっている。
停泊場所が西海岸のどこだったとしても、一旦は南下するしかない。
そして島が見えなくなった辺りで、敵は東西どちらかに転舵するはずだ。
そのまま南に進み続けても何もない。
東に進むと島南東部の港を中心にウェンドア同様の哨戒網がある。
残るは西だ。
西にはネイギアスがある。
胡散臭いロミンガンの老人たちが支配する海賊たちの楽園。
海賊エルミラもそこを目指しているに違いない。
作戦会議の結果は司令部に伝えられた。
海賊狩りの勇名は州都司令部にも轟いており、何の異議も検討もなくロイエス案は即採用された。
ただ、ウェンドア沖の第三艦隊と提督が目星をつけた海域は遠く離れており、いまからでは間に合いそうになかった。
そこで島南東部で訓練中だった第四艦隊に託されることになったのだった。
その甲板で士官の一人が艦長のところへ駆け寄った。
「艦長、そろそろ予定の時刻です」
予定の時刻——
ロイエス提督が指定した東へ転舵する時刻だ。
脱走艦は帝都で幽霊船と噂されているらしい。
ならば幽霊の居場所に帰ってもらえば良い。
あの世に。
姿を消せる魔法艦など他国に渡してはならない。
ネイギアスに渡ればすぐに研究され、その仕組みを取り入れた
悔しいが、帝国の魔法は遅れている。
それが魔法先進国リーベルの新兵器を奪ってきたところで、どうせ使い方も仕組みも解明できはしないのだ。
そのことを素直に認めて接収ではなく、自沈させればよかったのだ。
それを欲張るからこういうことになる。
だがこの間違いは簡単に正すことができる。
第四艦隊にはその力があるのだ。
艦長は空を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
見上げた先には曇天が広がっている。
視線を水平に戻した艦長から笑みが消えた。
そして——
「総員戦闘配備!」
命令を受けた副長は復唱後、各所に指示を飛ばしていく。
先頭艦は転舵を始め、僚艦もこれに続く。
逆風の中、四隻は東から来る敵を目指す。
帆船は逆風に向かって直進できないから、風を斜めに受けるために転舵を繰り返しながら進む。
まるで獲物を見つけてにじり寄る海蛇のように……
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