失われたもの⑤

「なんで……」


 震える唇から、小さな声で疑問が零れ落ちた。


「お前、何やって……」


 蒼の目の前に現れた人物――朔は予想外の遭遇に驚き目を丸くした。しかしすぐにその視界に赤い色を捉え、切迫した状況だと理解する。左腕の上腕部分がぱっくりと切り裂かれたマスタード色のシャツは、その切れ目から真新しい傷を覗かせていた。


「とりあえず来い!」


 朔は返事を待たずに蒼を立たせると、そのまま無傷な方の腕を引き貨物の間に身を隠す。


 密着した身体から伝わってくる震えに、朔は何が起こったのか考えを巡らした。自分の腕の中で茫然自失とも言える状態になっている蒼の顔色はまさに顔面蒼白と言った様子で、それが出血によるものだけでないことは簡単に理解できた。


 怯えているということは、いつかのように一人で怪我をしたわけではないのだろう。何者かに襲われたのだということはすぐに分かった。そしてその何者かとは誰かということも。


 ――他の生き残りか。


 蒼が何故この場にいるのかは朔には分からなかったが、生き残りが現れる可能性が高いと考えてやってきた場所でこのような事態になっていることを踏まえると、彼らの仕業であることは明白だった。単に都合が悪い物を見られたからなのか、それとも蒼だと分かった上でやったのかまでは分からない。とにかくここにいるのはレオニード側の人間だということは確実だった。


 朔が状況を理解しようと思考を巡らせている間、蒼は二つの全く異なる感情の中にいた。


 助けが来たのだという安心感と、恐れていたことが現実になってしまった恐怖――レオニードが危険だということは承知していたつもりだったが、いざ本当に自分の身に降りかかると急に実感が湧き上がってくる。


 そして同時に、これなら自分の父親も殺されかねないという認識を強くしていた。事故とはいえ蒼を切りつけてしまった男は一切の戸惑いを見せなかった。それが意味するのは、彼にとってそういったことが何ら特別ではないということだ。


 とんでもないところに来てしまった――本当に自分とは感覚が違う人達なのだと、もはや疑う余地はなかった。


 ――それにきっと、朔さんも……。


 自分の姿を見た朔が少しでも狼狽えた様子を見せれば、また違ったのかもしれない。しかし先程の彼は蒼の怪我を見ても驚きこそすれ、慌てる気配が全くなかった。


 朔は人を殺したことがあるのかもしれない――向き合うことを恐れ逃げ出した考えが、頭の中を埋め尽くす。自然と初めて出会った時の記憶まで蘇り、朔にとってもこういった状況は珍しいものではないのだろうという確信が蒼の中に芽生えていた。初めて、朔のことが怖いと思った。


 思考に沈みながら浅い呼吸を繰り返す蒼の口を、朔はそっと手で覆った。びくりと蒼の肩が跳ねる。それでも朔はその手を外すことはしなかった。音の響く倉庫内では彼女の呼吸音さえ聞こえてしまいそうだと思ったからだ。


 見ていて同情を覚えるほど震える蒼に、朔は彼女の怪我だけでも治そうかとその傷を見やった。しかし今この状況で油断するわけにはいかないと思い直し、そっと目を逸らす。傷を治そうとすると物をすり抜けるときの感覚に加え、相手の感情に引きずられてしまうということを思い出したのだ。ただでさえ不快感に意識が持っていかれるというのに、明らかに動揺している蒼の感情にまで触れれば、無事にこの場を切り抜けることが出来なくなってしまうかもしれない。


 幸い未だ放心状態なのか蒼が騒ぐことはなかったが、時間の問題だろうと朔は眉根を寄せた。倉庫内には乱暴な足音と、男がロシア語で怒鳴る声が響き渡る。


 ――レオニード、ではないな……。


 声を聞いたことはないが、いつか遠目に見た人物がこんなふうに怒鳴り散らす姿は朔には想像できなかった。常に冷たい薄ら笑いを浮かべ、しかし気品のようなものを感じさせる佇まいの男は、仮に殺そうとした相手に逃げられたとしても余裕を失うことはないだろう。


 怒鳴り声が何と言っているか詳細を把握できるほど朔はロシア語を理解していなかったが、それでも声の主が女を探しているということは分かった。その女が蒼である以上、見つかるわけにはいかない――無意識のうちに蒼を包む腕に力を込めた。


 このまま隠れ続ければ、騒ぎを聞きつけた人間が集まってくるためあの男は逃げるだろう。だがそうなれば、次にいつレオニードに近付けるか分からない。出来れば逃げる前に捕まえたいが、この状態の蒼を放置するのも気が引けた。


 ――いや……奴を逃がす方がコイツにとってはヤバいのか。


 今まで可能性でしかなかったが、この状況では確実に蒼は顔を見られている。あの様子では逃げたところでまた彼女が狙われてもおかしくはない。


 朔は大きく一つ息を吐くと、口を押さえたまま「おい」と小さな声で蒼に声をかける。その呼びかけにやっと意識を戻した蒼は状況が理解できないのか困惑した様子だったが、待っている時間はないとばかりに朔は尻ポケットからずっと入れっぱなしになっていた袋を取り出した。


「これ持ってろ」

「何ですか……?」

「見りゃ分かる。俺がここから出たらすぐに使えるように準備しとけ。別に本当に使う必要はないが、目立つように持っとくだけでも牽制になるはずだ」


 そう言い終わるやいなや、朔はすっと貨物の間から出て行った。取り残された蒼は未だ震える手で渡された袋の中身を取り出し、驚きに目を見張った。


 ――なんで……。


 見覚えのある銀色に光るナイフを手にした瞬間、蒼の頭を支配したのは疑問だった。それが蒼の身を守るものだとは簡単に思い至ったが、朔が何故自分に渡したのか分からなかったのだ。


 ――だって、私は、朔さんを……。


 疑っているのだ、人を殺したことがあると。自分とは常識が全く異なるのだと実感し、恐怖すら覚えているのだ。レオニードも朔も結局は同じ、どちらも簡単に人を殺せる人間なのだろう、と。


 それだけではない。もしかしたら朔は自分を騙しているのかもしれない、そう思っていた。実は蒼の父親と振礼島の関係を知っていて、その上で何か目的を持って自分に近付いてきたのではないかと考えていたのだ。


 だからこそ分からなかった。もし騙しているとしたら、そんな相手にこんな物を渡すだろうか。他の武器ならいざ知らず、確実に朔を傷つけることができ、更には朔自身の身をあの男から守ることのできるものを、この状況で自分に預けるだろうか。


 ――違うんだ……。朔さんはきっと……。


 そうしてやっと、蒼は自分の間違いに気が付いた。朔との出会いは確かに偶然とは思えない。だが今まで朔と過ごしてきて、彼が蒼に嘘を吐いたことは一度もなかった。本当に言えないことは嘘で誤魔化すのではなく、はっきりと言葉と態度で示していたということを思い出し、それが騙している相手にする態度ではないと気が付いたのだ。


 ――を渡したのも、私のことを信じてくれているからじゃないか……。


 気が付けば、朔に対する恐怖は消えていた。未だに自分の身が危険に晒されたことに対する恐怖は残っていたが、朔に対しては恐怖どころか申し訳なさすら感じ始めていた。


 ――いつだって私の身を案じてくれていたのに……。


 それなのに自分は朔を疑い、恐怖すら覚えた。彼が一度も自分に危害を加えようとしたことがないにも関わらず、たった一度だけ抱いた疑念に流されていた。


 途端に蒼は自分が恥ずかしくなった。強くナイフを握りしめ、唇を噛み締める。


 ――自分に余裕がなくなったからって、なんで朔さんを疑ったんだ。例え朔さんが人を殺していたとしても、私は……。


 いつの間にか震えは止まっていた。蒼はキッと前を見据えると、朔を追いかけ争う音のする方へと踏み出した。



 §


 貨物の隙間から出た朔は、蒼の居場所がバレないよう木箱やコンテナの合間を縫ってゲオルギーの後ろに回り込むと、一気に走り出して思い切り飛び上がった。


Ч――!?」


 朔の隠しもしない足音が聞こえたのだろう。ゲオルギーは咄嗟に後ろを振り返ったが、その時にはすでに朔の蹴り出した脚が眼前に迫っていた。


 直後、朔の脚がゲオルギーの顔面を捉える。


 助走をつけた朔が全体重をかけて放った蹴りには耐えられず、喰らった勢いのままゲオルギーは後ろへ倒れ込んだ。しかしここは貨物が所狭しと置かれている倉庫だ。彼の身体が地面に近付くより先に、すぐ近くにあった木箱へと背中から突っ込んだ。


 重い衝突音と共に、乾いた音を立てて木箱の側面が割れ崩れる。中から蚕の繭のような緩衝材がバラバラと流れ出た。


 ゲオルギーはそのまま地面に崩れ落ちかけたが、それでも何とか立ち上がろうと壊れた木箱を掴み踏み留まる。混乱しながらもこれ以上攻撃を喰らわないよう、必死に身体を変化させようと試みていた。だがその努力は、同じ生き残りである朔には意味がなかった。


 朔はすぐにゲオルギーに近寄ると、自分の腰あたりまで下がっている彼の襟首を掴み、力いっぱいその顔面を殴りつける。


 その顔にさらなる衝撃が襲った瞬間、ゲオルギーはやっと相手が自分と同じであることを理解した。今の彼には当たるはずのない攻撃を当てることが出来る存在など、限られているからだ。


 そのままうつ伏せに倒れ込んだゲオルギーがたまらず咳き込むと、地面に血が飛び散った。朔は全く気にする素振りを見せることなく、一連の争いによりすっかり包帯の取れた手で相手の両腕を拘束し、逃げられないよう体重をかけた。


Вставайフスタヴァーイ


 地を這うような低い声で、朔がゲオルギーに語りかける。相手が気絶したら言え――かつて彼が兄のように慕う人物から教えれたその言葉は、“起きろ”という意味を持っていた。


 朔の呼びかけにゲオルギーはうつろな目で彼を見上げると、自嘲するように口端を上げた。朔はその様子を冷たい目で一瞥し、レオニードの居場所を問いかける。


Гдеグヂェ Леонидレオニード?」

「……Онオン――」

「朔さん!」


 ゲオルギーが朔の質問に答えかけたとき、蒼が貨物の影から飛び出してきた。両手には言われたとおりナイフを握りしめている。顔色はまだ戻りきっていなかったがその表情には既に恐怖はなく、ただただ朔を心配するかのように眉間に力が入れられていた。


「何やってる、隠れてろ!」


 朔はゲオルギーを拘束する力を強くしながら蒼を諌めた。しかし彼女は立ち止まりこそすれ、隠れる気配はない。何かを訴えかけるような眼差しで朔を見つめながら、その場に留まり続けた。


 その視線の意味を計りかねていた朔だったが、下からクックッと笑う声が聞こえてきたことで考えを打ち切った。


Сакуサク?」

「あ?」

Яヤー слышалスリーシャル твоёトゥヴァヨー имяイーミャ


 ゲオルギーの言葉が理解できないのか、朔が怪訝そうに顔を顰める。


Японецイポーニツ……японецイポーニツ сказалスカザール Сакуサク


 やっと理解したゲオルギーの言葉に、朔はその目を大きく見開いた。


 ――……?


 その時、朔の鼻腔を甘い匂いが掠めた。だが実際にはそんな匂いなどどこからもしていない。それは先日嗅いだばかりの匂いの記憶だった。


 否定したはずの考えが、彼の頭の中に蘇った。


 その動揺を拘束されている人間が悟らないはずはない。ゲオルギーは思い切り身体に力を入れると、自身を拘束する朔を押しのける。そしてそのまま蒼を視界に捉え、迷うことなく彼女の方へと駆け出した。


「えっ……!?」


 突然の出来事に蒼の身体は硬直した。顔を血まみれにした男が凶悪な表情を浮かべ自分に近付いてくる――それは先程まで蒼の身体を支配していた恐怖を思い出させるのには十分だった。


「蒼!」


 朔の声が響く。彼女の名を呼びながらゲオルギーを止めようと伸ばした手は空を切った。


 ――今度こそ死ぬ……!


 蒼は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。その直後、両手に鈍い感覚が走る。「グッ……」、苦しげにくぐもった声が、一拍遅れて頭上から落ちてきた。


 ――痛くない……?


 思っていたのとは違う感覚に、恐る恐る目を開ける。


「う、嘘……なんで……」


 視界の先には、これでもかというくらい力が込められた自分の両腕。それは男の身体に触れそうな程近く、しかし間にある何かに阻まれ直接触れることはない。


 無意識のうちに突き出していたナイフが、ゲオルギーの腹を貫いていた。

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