二人の亡霊③

 初めて会った廃工場、ミハイルのいた公園――朔は蒼がいそうな場所を見て回ったが、すっかり日が落ちた今でも彼女を見つけられていなかった。


 最後の可能性として初めて蒼の姿を直接見たロシア料理店までやって来たが、入り口のドアへと伸ばした手は誰に何と切り出せば良いのか分からず、中々それに触れることができなかった。


 ――確か、ここの店主は……。


 記憶を辿り蒼の所在を尋ねるべき人物に見当を付ける。朔はやっとドアを開けると、出迎えた店員に乱暴に詰め寄った。


「イヴァンはどこだ」


 朔の予想を裏切り、店員は訳がわからないという表情を浮かべた。しかし彼の雰囲気にただ事ではないと察したのか、「少々お待ち下さい」と決められた台詞を言うと店の奥へと入っていった。


 店員のその反応に朔は自分の見当が外れたかと少し懸念を抱いた。だが先日蒼をアネクドートで見張っていた時に聞いた男性の声と、彼女のボイスレコーダーで聞いた声が同じだという自分の記憶を信じ、入り口近くの壁に身体を預けた。


 蒼から聞いた話では、ミハイルの父親の名前はイヴァンと言うらしい。そしてミハイルが死んだあの日、最後に話していた相手を彼が“отецアチェッツ”と呼んでいた。“отецアチェッツ”とは、ロシア語で父親を意味する。


 蒼はイヴァンの友人から聞いた話だと言っていたが、状況から考えればその友人がミハイルの父親本人、つまりイヴァンという名前で間違いないだろう。


 そのまま少し待っていると、先程の店員が消えた方から初老の男性が歩いてきた。それが蒼が先日話していた相手だと気付き、朔は小さく安堵の息を漏らす。一方で男性は訝しげな表情を浮かべたまま朔に近寄ってきた。


「イヴァンか?」

「……その名前をどこで?」


 その声に朔は改めて自分の推測が間違っていなかったと確信すると、目の前の男は今は別の名前を使っているのかもしれないと気が付いた。しかしそれに気付いたところで一々気を遣う気にはなれず、ぶっきらぼうに「自分が言ったんだろ」と吐き捨てる。


「蒼って記者、知ってるだろ?」

「……ああ、彼女か」

「あの女、今日ここに来たか?」

「君は何者だ? 見ず知らずの相手に知り合いのことを教えたくはないんだが」

「アイツはここに来たのか? それだけ答えろ」


 朔の言葉に店長、もといイヴァンはやや考える素振りを見せる。そして「君の声は聞き覚えがあるな」と呟くと、思いついたかのように手を叩いた。


「ああ、サクと言ったかな」

「なんで俺の名前――」


 朔が最後まで言う前に、イヴァンは得意げに「お互い様だ」と笑った。しかしすぐにその笑顔をしまうと、「彼女に何かあったのか?」と神妙な面持ちを浮かべる。


「お前ら、ミハイルを殺した奴らに見られてたかもしれねぇんだよ」

「そうか……」


 もっと驚くかと思っていた朔は、イヴァンの落ち着いた様子が意外だった。だがすぐに彼の立場を思い出すと、こういった状況に慣れているのだろうと納得する。イヴァンは確かにロシア料理店の店長ではあるが、それ以外にも大声では言えない仕事をしていると知り合いから聞いていたのだ。


「で、来たのか?」


 勿論、蒼のことだ。イヴァンは朔が蒼の知り合いだと分かったからか、先程までよりも少しだけ警戒を緩めた様子で口を開いた。


「彼女なら来ていない」

「アイツがどこで働いてるか知ってるか?」

「……そういえば名刺をもらい忘れたな」

「ちっ……」


 朔は踵を返すと、別の場所に探しに行くためドアに手をかけた。すると後ろから「一ついいか」と声がかかる。何も収穫が得られたなかった朔が苛ついた様子で振り返ると、イヴァンは真剣な表情で口を開いた。


「彼女に、何か協力できることがあるなら何でもすると伝えてくれ」

「……分かった」


 そんな事言ったらまた首突っ込むだろうが――内心そう悪態をついたが、イヴァンの様子に無碍にすることができず、とりあえず首肯し店を後にした。


 朔はアネクドートを出ると、再び蒼を探そうと歩き出した。しかし蒼がいる可能性のある場所で、朔に場所が分かるものはもうなくなってしまっていた。


 会社の場所くらい聞いておけばよかったか――蒼の本業など自分が詳しく知る必要はないだろうと全く興味を持っていなかったことを悔いた。せめて最寄り駅くらい知っていればまだ良かったが、朔はそれすらも知らない。彼が知っていたのは蒼がゴシップ誌の記者であるということだけで、その雑誌名が何かというのも知らなかった。


 蒼が情報を欲しがっていた芸能人のことをまだ調べているかもしれないという考えも頭を過ぎったが、前日の彼女は意気揚々ともう終わりそうだと語っていたことを思い出し溜息を吐いた。終わりそうだということは、追加で調べるということはないだろうと思ったのだ。


 朔は再び蒼に電話をかけたが、相変わらず彼女が出る気配はない。使い慣れない小さな機械を忌々しげに睨むと、頭をガシガシと乱暴に搔いて一旦家へと戻ることにした。既に帰宅していることを期待したのもそうだが、蒼の自室に勤務先の住所など何か探す場所の手がかりがあればと思ったのだ。


 朔は自分の中の焦燥感を押し殺し、家路へと急いだ。



 §


 既に見慣れた一軒家の前にやって来ると、朔はいつものように家の内側にある鍵のツマミを回そうと手を伸ばそうとした。しかし、ふと視界に入ったドアノブに目を引かれその動きを止める。


 自分が家を出るときに鍵はかけたので開いているはずはない。蒼が帰ってきていたとしても、元々一人暮らしだった彼女はすぐに鍵をかける習慣があるため、やはり閉まっているはずである。


 だから朔は先に鍵を開けなければならないのだ。だが、この時は妙にそのドアノブが朔の気を引いていた。


 ――もし開いてたら、それは……。


 単なる鍵のかけ忘れということもあるが、この状況のせいか嫌な想像を掻き立てられた。朔は一つ呼吸を置くと、ゆっくりとドアノブを引いた。


 カチャン……小さな音を立ててドアが開く。その瞬間、朔の脳裏には母親の最後の姿が浮かび、頭がすっと冷えた感覚がした。


 玄関には蒼の靴が何足か出ている。しかしあまり気にしたことのなかった朔には、自分が家を出るときと変わったかどうか判断ができなかった。


 蒼が靴を脱ぎっぱなしにする性格なら分かったかもしれないが、彼女は脱いだらすぐに隅に寄せてしまう。朔は自分の鼓動が早くなるのを感じながら、念の為靴を履いたまま一歩一歩家の中を進んでいく。その時、ふと覚えのある匂いが微かに鼻をついた。


 ――この甘ったるい匂い……。


 嗅ぎ慣れたその匂いは、一体どこで知ったのだったか――朔は記憶を辿ろうとしたが、それよりも今はこの状況の確認が先決だとそれを振り切った。匂いを嗅いだ瞬間に危機感を感じなかったのも大きいだろう。危険なものの記憶と紐付いていないという事実が、朔にその匂いの持ち主を思い出させるのを後回しにさせた。


 この家には誰かいる――本来この家にはなかったはずの匂いもそうだが、朔の直感がそれを告げていた。勿論蒼が既に帰宅しているだけの可能性もあったが、相手がレオニードの関係者であることも考慮し、久しぶりに出来る限り警戒をしながら気配を探る。


 すると、ピチャピチャと微かに響く水の音を朔の耳が捉えた。なるべく自身の気配を消すようにしながら、音のする方へと向かっていく。不思議と甘い匂いもまた強くなっていった。


 ――……風呂?


 どうやら水の音は浴室からしているようだった。蒼が帰宅しているのであれば、時間帯を考えても何の不思議もない。朔は少しだけ考える素振りを見せたが、ゆっくりと浴室へと続く脱衣所のドアを開けた。


 ふわっと、例の甘い匂いが一層強まる。耳を澄ませば浴室の音はシャワーを使っている音だと分かった。廊下から脱衣カゴの中を覗き見ると、蒼のものと思われる洋服が入れられているのが見える。そこで漸く帰宅した彼女がシャワーを浴びているだけだと朔は胸を撫で下ろした。


 ――この匂いはどこから?


 一番大きな懸念が去ったことで、朔は改めてその正体を探ろうとした。脱衣所の中に入り、匂いの元を探す。とはいえ脱衣所には大して物が置かれていない。洗剤類にタオル、それから蒼の着替えだけだ。洗剤は見覚えのない物が増えているわけではなさそうだとすぐに分かった。タオルの匂いを嗅いでみたが、それも違う。朔は少し抵抗を覚えたが、蒼の着替えにも念の為顔を近付けた。


 ――これも違うってことは……か……。


 最後に残った物を一瞥して顔を顰めた。流石に他人が脱いだばかりの服を嗅ぐというのは如何なものか、と頭を悩ませる。しかしこの匂いの根源を確認しなければならないという強迫観念にも似た何かが、朔の思考を支配しつつあった。


 なんで俺がこんなことを――余計な物は出てくるなと念じながら脱衣カゴに手を伸ばし、蒼が先程まで着ていたであろうシャツを手に取った。


「……これか」


 手に取っただけで今までで一番強く匂いを放ったそれに確信する。自分も喫煙者のせいか、煙草の匂いには鈍感になっているようで気付かなかったが、甘い匂いに紛れて煙草の匂いがした。


 そこで漸く朔の記憶が蘇った。このクセのある匂いの煙草を吸う人間――最後に見た彼の、普段からは想像できないような弱々しい姿。


 ――アイツが生きてる……? いや、まさかな……。


 その人物の遺体を見つけられていないことを思い出し朔の中には希望が生まれたが、すぐにそれはないと首を振った。もし彼が生きているのであれば、とっくに再会できているはずだ。自分が必死に彼を探したように、彼だって自分を、他の生き残りを探すはずなのだから。


「――……人の服持って何してるんです?」


 突然聞こえた声に、朔の身体が強張った。思いがけない記憶に完全に状況を忘れていたことに気付くと、「あー……」と言い訳を探しながら蒼を振り返る。


「……朔さんて、そういうご趣味の方ですか?」

ちげぇよ」

「じゃあ何故なにゆえ私の服を? っていうか、とりあえずそれ置いてくれません?」

「……ああ」


 浴室のドアから顔だけ出す蒼に気まずさを感じながら、朔は言われたとおりに手に持っていた服を脱衣カゴに戻した。


「お前、誰かと一緒にいたのか?」

「いきなりなんですか?」

「この煙草の匂い、珍しいなって思ってよ」

「……朔さんには関係ないです」

「あ?」


 妙につっけんどんとした蒼の態度に、朔は眉を顰める。だがすぐに自分の行動にも問題があったと思い出すと、大きな溜息を吐きながら頭を乱暴に搔いた。


「とりあえず服着たいんで出てってくれません? そして土足で歩いたところはちゃんと拭いといてください」


 「まったく、これだから欧米人は」とよく分からない文句を言いながら蒼は顔を浴室に引っ込めた。誰のせいでこんなことをやっていると思ってる――朔は何も知らない蒼の態度に少しだけ苛立ちを感じながら脱衣所を出ようとドアに手をかけたが、仕返しを思いつき浴室の扉に向かって声をかけた。


「一応言っとくけど、結構透けてたからな」

「え? ……ぎゃっ! 変態!」


 浴室の磨りガラス越しに暴言を吐く蒼に、「見せたのはお前だろ、痴女が」と言い残すと朔は廊下へと出ていった。



 §


 朔がまだアネクドートにいた頃、喫茶店で涼介と別れた蒼はぼんやりとしたまま帰路についていた。そうしていつの間にか自宅の玄関に入っていたが、そこまでの記憶が定かではない。それでもいつもの習慣で視界に入った靴を揃えると、そのままとぼとぼとした足取りで浴室へと向かった。


 服を脱げば、ふわっと涼介の吸っていた煙草の匂いが漂う。長時間一緒にいたことで鼻が慣れてしまったが、こうして嗅ぐとやはりバニラよりも煙草特有の匂いの方がキツいなと顔を顰めた。職場でも家でも周りに喫煙者が多いため仕方がないことだが、どうにも洋服につく匂いだけは不快感を感じられずにいられなかった。


 ぱさっと力なくシャツを脱衣カゴに放り投げると、蒼は鏡に映った自分の顔に苦笑を浮かべた。なんて酷い顔だ――そうなった経緯は分かっているが、まるで死にそうな表情だと自嘲気味に笑う。


 少し視線を下に移せば、腹部にある真新しい傷跡が目に入った。普通に治療を受けるよりかは綺麗なのだろうが、嫁入り前の身体にこんな傷が出来てしまったことを思うと些か悲しい気持ちになる。先日至近距離で見た傷一つないエレナの身体の記憶も相俟って、自分は何をやっているんだろうと溜息を吐いた。


 この傷は間違いなく自分が招いたことだ。しかし父親の件と、涼介の話から思い至った、朔に後ろめたいことがあるのではという考えを思うとやるせない気持ちになる。この傷を治してくれた張本人は、一体どういうつもりで自分に近付いたのだろうか。


「……聞いてもどうせ答えてくれないんだろうな」


 傷を指先で一撫でし、残りの洋服も脱ぎ捨てて浴室へと向かった。蛇口を捻るとシャワーからは冷たい水が出てくる。いつもなら温水が出てくるまで待つが、蒼はなんとなしに冷水のまま頭にかぶった。


「冷たっ」


 分かっていたはずなのにその冷たさに自然と身体がぶるっと震える。そのままじっと待つと、段々と温かいお湯へと変わっていった。深い呼吸を繰り返しながら暫くお湯を浴び続けて身体を温めると、シャンプーを手に取り頭を洗う。流れていく泡と共に髪についた煙草の匂いが消えていくのを見ながら、蒼の胸にはなんとも言えない気持ちが湧き上がってきていた。


 ――誰を信じればいいんだろう……。


 少しずつ信頼関係が築けてきたと自負している相手は、自分を騙しているかもしれない。一方で、まだ会ったばかりの人間はそんな孤独感を紛らわしてくれるような暖かさがあった。


 何故自分は、排水口へ吸い込まれていく泡に名残惜しさを感じているのだろうか。


 完全に身体が嗅ぎ慣れたボディソープの香りに包まれた頃、ふと浴室の外に人の気配を感じた。そっと扉を開けて顔を出せば、朔が脱衣カゴの前に立っているのが見える。よく見ると足元は靴を履いており、珍しく汗の滲んだシャツを見る限り何かあったことは明白だった。


 しかし彼が手にしているのは自分が先程まで来ていた洋服だ。何か事情があるにしろ、流石に自分の体臭が染み付いているであろう物を持たれているのは気分がいいものではない。というより、羞恥心がまさった。


「……人の服持って何してるんです?」


 蒼が意を決してそう話しかけると、いつも余裕綽々といった雰囲気の朔が身体を強張らせるのが見えた。

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