二人の亡霊②

 平日の午後もだいぶ過ぎた頃、大きな欠伸をしながら階段を降りてきた朔はキッチンへと向かい換気扇のスイッチを入れた。そのまま緩慢な動きでダイニングチェアに腰掛けると、テーブルの上に置きっぱなしになっていた煙草を手に取り火をつける。


 ――朔さんデカくて圧迫感あるから、もうそこに座って吸っていいです。


 顰めっ面で蒼がそう告げたのは昨日のことだ。元々は換気扇の下、つまりコンロの前でのみ許されていた喫煙だが、家主である蒼のこの発言により少し離れたこの場所での喫煙が許可されるようになった。聞けばかつて蒼の父親も同じ場所で煙草を吸っていたとのことで、彼女にとっては特に違和感はないのだという。


 父親の死後、一度賃貸に出していたらしいこの家の壁紙は一部貼り替えられており、キッチンを含めたリビングはその一部に該当するらしい。だから最初は喫煙場所を限定したが、コンロに居座られる方が邪魔だと気付いたのだと蒼は言った。


 邪魔という物言いは本来であれば朔に不快感を与えるはずだったが、特にそういった感情を感じることなく彼は受け入れている。居候という身分もそうだが、何より蒼とコンロを使うタイミングが重なったことなど一度もないのだ。つまり椅子に座ればいいのにという彼女の気遣いであることは明白だった。本当にお人好しだと思ったが、不便に感じていたことは事実なので朔はそれに甘えることにした。


 寝起きのぼうっとした頭で紫煙を吐き出しながら、朔は前夜に集めた情報を頭の中で整理していた。朔がこの時間まで寝ていたのは単に彼が寝すぎたわけでなく、帰りが夜明け近かったからだ。これは蒼が知らないことだが、朔は彼女に見つからないように夜中に抜け出していた。


 夜中に出かけるのは勿論、振礼島の生き残りに関する情報を集めるためだった。蒼に気付かれないようにやらなければ、自分も行くと言って聞かないだろうと分かりきっていた朔は彼女の外出中、もしくは就寝中にのみ情報収集が出来た。


 昨夜行ったのは、ミハイルの足取りの確認だ。彼が渋谷のクラブで最後に目撃されたのは二週間前だが、ロシア人を見たという話はそれより最近の可能性があったのだ。先日蒼とクラブで聞き込みをした際はミハイルの精神状態のことなど知らなかった朔は、あまりいつ頃見たかという情報には拘らなかった。だがエレナの話を聞く限り、二週間よりも最近だった場合は辻褄が合わなくなる。


 だから朔は情報をより正確なものにするためにロシア人を見たという人間を探しに行ったのだが、分かったのは一番最近ではつい数日前まで目撃されていたという情報だった。つまり、ミハイル以外のロシア人がいたことになる。


 ――もしそいつが生き残りなら何のためにあそこに来た……?


 勿論振礼島とは全く関係のない人間だったかもしれないが、念の為そうでない可能性も考えなければならない。ミハイルがレオニードに追い詰められ姿をくらましていたとしたら、そのロシア人は彼を探していた可能性もあるのだ。


 東京の、それも渋谷という街は多くの外国人で溢れかえっている。それは朔も承知しているため本来であればそこまで気にしなかっただろうが、彼がこの懸念に囚われていたのには理由があった。


 ――俺たちがミハイルに会った直後に殺されるって、偶然で有り得るか……?


 朔が一番気にしていたのはそれだった。朔達がミハイルに会った時点で彼のタトゥーは焼かれており、それが意味するのは既にレオニードが彼を発見していたということだ。自分たちがミハイルに接触した途端、彼が殺されるというのは偶然では考えづらい。


 ――報復か、口封じか……。口封じなら遊ばず殺すか?


 エレナの話によれば、ミハイルはレオニードにとって都合の悪いことをしている。その報復であれば、わざわざ長く苦しむように殺したとしても不思議ではない。一方で口封じであるならば、下手に生き延びられれば情報が漏れる可能性がある。


 それらを考えると、朔はミハイルが殺されたことに関しては偶然の可能性の方が高いのではと感じていた。報復ならば自分たちが現れたことなど関係ないだろうし、口封じだとしても、ミハイルに接触する人間が現れたことに気付いて慌てて殺したのであれば、情報が漏れないよう即死に近い形で殺すはずだ。それでも、朔の中にはまだ引っかかるものがあった。


 ――もし偶然だとしても、即死させなかったならちゃんと死んだことは確認したいはず……。


 万が一ミハイルが一命を取り留めるだなんてことがあれば、レオニードにとって不都合が起きる可能性が高いのだ。だからいくら放置したとしても、誰かに近くで監視させるなどして、ミハイルが死ぬまで面倒な事が起きていないということを確認したいだろうと考えられた。


 それに気付いた瞬間、朔の背中に冷たいものが走った。


 ミハイルが刺された経緯が何にしろ、彼の死を見届けようと監視を置いていたとしたら、確実に蒼はその人間に姿を見られている。


 ――なんで気付かなかったんだ……!


 朔は慌てて煙草を押し消すと、蒼に電話をかけた。しかしコール音が虚しく響くだけで、彼女に繋がる様子はない。留守電にメッセージを入れようと思ったが、それに切り替わることもなくただただ時間だけが過ぎていく。


「くっそ、自分が出ろっつったんだろうが……!」


 諦めた朔は電話を切り身支度を整えると、蒼を探すため行き先も決めないまま家を飛び出した。



 §


 その頃、蒼は涼介と名乗った男性と喫茶店にいた。今時珍しく分煙すら行っていない個人経営の店で、昭和レトロを感じさせる店内には客はまばらにしかいない。彼らのいる場所は駅から離れており、時間帯の影響もあってか空いているようだ。


 少し前に席へと運ばれてきたコーヒーの湯気をぼんやりと眺めながら、蒼は自分の気持ちが落ち着くのを待っていた。そんな彼女を目の前に、涼介はのんびりと煙草を吸っている。少しバニラのような甘ったるい香りの混ざる煙は初めてだったが、今の蒼はそれにありがたさすら感じていた。朔でも菊池でもない、自分の事情を全く知らない人間と一緒にいるのだと実感することができたからだ。


「――何かあったの?」


 コーヒーに手を伸ばした蒼に涼介が問いかける。蒼はコーヒーを啜りながら、何をどう話すべきか考えていた。詳しい事情は話せないし、話す気もない。だが誰かにこの気持ちは吐き出したかった。カップをゆっくりとソーサーに置くと、ぽつりぽつりと話しだした。


「ちょっと、周りに認めてもらえなくて――」


 何を認めてもらえないのかなど一言も言っていないはずなのに、その言葉を口に出すとまた悔しさに涙が滲んできた。涼介は聞き役に徹しているのか、蒼を急かすようなことはせず静かに言葉の続きを待っている。


「――自分でも背伸びしてるかもしれないっていうのは分かってるんですけど、でも、頭ごなしに否定されてばっかというか……」

「悔しかったの?」

「そうですね……。私の事を心配してくれてるっていうのは分かるんですけど、そんなに頼りないのかなって……」


 そこまで言うと、蒼はふうっと息を吐いた。唇を噛み、眉根を寄せる。そのまま目を閉じて何度か呼吸を繰り返すと、熱くなっていた目からは熱が引いていった。そうしてゆっくりと目を開けたが、まだ前を見ることができず視線は下に落とされている。


「置いてきぼりにされたと思った?」

「え?」

「あれ、違ったか。なんとなく蒼ちゃんの雰囲気的に悔しいのと、ちょっと寂しそうな気がしたんだけど」

「……いえ、合ってます」


 なんでこの人はそう何回も会っていない相手の心境が分かるんだろう――蒼は目の前でほっとしたような表情を浮かべる涼介を不思議に思った。そんなに自分は分かりやすいのだろうか。直情的な方だと自覚しているが、まだ涼介の前でそれを出した覚えはない。なのに当てられたということは、自分が余程わかりやすかったか、彼が異常に察しがいいかのどちらかだろう。


「なんか、最近自分は蚊帳の外なのかなって感じる事多くて」

「それは大事な事に対して?」

「……私にとっては大事です。でも、周りからしたら私には関係ないと思うようなことなのかも」


 さすがに父親の死に関して関係ないと思われるのは心外だったが、両親の離婚後一度も父親と関わりを持たなかったのならそう思われても仕方ないのか、と肩を落とした。


 事実、蒼は染谷の遺体を目の前にしてもほとんど何も感じなかったのだ。彼女の中で父親の顔はうろ覚えであり、声すら思い出せない程疎遠だったのだから仕方ないだろう。酔って足を踏み外して死んだという情報も、蒼の中にわずかに残っていた情を奪うのには十分だった。


 自分は染谷の娘ではなかったのかもしれない――血の繋がりがあるのは間違いないが、父娘だったかと言われると自信を持って答えられそうになかった。再び涙が込み上げそうな気配を感じ、蒼は慌てて首を振る。すると涼介が「その人達はさ――」と口を開いた。


「――蒼ちゃんを仲間はずれにする人っていうのは、蒼ちゃんにとってはどんな人?」

「どんな人って……上司と、それから……」


 蒼は朔について答えようとしたが、なんと答えたらいいのか分からなかった。自分と朔の関係は何だ? ――家主と居候であり、協力者でもある。だが、そう答えるのは何故か憚られた。蒼が言葉を見つけられないでいると、涼介が小首を傾げ「大事?」と問いかける。


「え?」

「今考えてる人。大事な人?」

「いや、大事っていうか……なんだかよく分からないなって」

「でも嫌いではないんでしょ? なんとなくだけどさ。嫌いな人相手に寂しいなんて思わないだろうし」

「……そうですね」


 確かに嫌いではない。だが、大事かと言われるとそれもよく分からなかった。


「じゃあ、相手は蒼ちゃんのことどう思ってると思う?」

「どうって……」


 思わぬ質問に蒼は答えに窮した。朔が自分をどう思っているかなど、考えたこともなかったのだ。


「……嫌われてはないと思います。いや、微妙ですね……よく馬鹿にされるし」

「蒼ちゃんの前で笑う?」

「笑いますけど、大抵嘲笑ってるって感じですよ? たまに柔らかい感じで笑うときもありますけど、そういうのは凄く稀です」


 人を馬鹿にしたような朔の表情を思い出し、蒼は忌々しげに顔を歪めた。ごく稀に弱っている時であれば普通に笑うが、蒼の記憶にある朔の笑顔というのは殆ど意地の悪いものだった。そんな蒼の様子を見ながら、涼介は「……なるほどね」と意味ありげに口端を上げる。その言葉の意味が分からず蒼が顔を上げると、いつもどおりニカッと笑って「妬けちゃうなぁ」とおどけてみせた。


「妬ける?」

「だって仲良さそうじゃん。相手が男か女か分からないけど、なんかいいなぁって」

「仲良くはないですよ。……意地悪だし」

「ま、自己評価は置いといて。蒼ちゃんはさ、少なくとも仲が悪いわけではない相手に認めてもらえなかったのが悔しかったってことでしょ?」

「……はい」


 改めて第三者からそう言われると居心地が悪いものを感じ、蒼は再び目を伏せた。


「問題はなんで相手が蒼ちゃんを遠ざけたのかってことだけど――」


 一番知りたい情報に、思わず伏せたばかりの顔を上げる。そうして目に入った涼介の顔は、蒼が今まで見たことのない真剣な表情をしていた。


「――例えば、何か後ろめたいことがあったとか?」

「え?」


 涼介の言葉に蒼は自分の体が固まるのを感じた。単純に自分のことを認められていないと思っていた蒼にとって、その答えは予期していないものだったのだ。


「こんなに認められないことを悔しがるってことは、蒼ちゃんって結構頑張り屋でしょ? それだったら普通、多少蒼ちゃんに力不足を感じてもフォローして成長するように促したり、一緒にやろうって話にならない? それをしないってことは、蒼ちゃんを認めたくない理由があるってことだよ」


 「俺の場合だけどね」と付け加えると、涼介は新しい煙草に火を着けた。先程まで吸っていたものはいつの間にか終わっていたらしい。蒼は涼介の言葉の意味が理解できず、ただその様子を見守っていた。


「認めたくない理由って、例えば……?」

「知られたくないことがあるとかね」


 知られたくないこと――何故か真っ先に蒼の頭に浮かんだのは、父親の死のことだった。振礼島に行って殺された可能性がある父親――その島に住んでいた人間なら、真実を知っているのではないか。一度感じてしまった疑念は、蒼の頭の中の情報を勝手に引きずり出し、悪い方へと紐付けていく。


 ――朔さんが私に協力を求めたのは、偶然だった……?


 彼は確か、蒼が記者で振礼島のことを調べていると知った上で近付いてきた。どういう経緯で知ったのか知らされていなかったが、もし朔が他にも蒼の情報を持っていたとしたらどうだろう。


 例えば、染谷と蒼の関係。そして朔が染谷の死について何かを知っていたとしたら――自分では突飛な発想だとは分かっていても、そう考えると朔が蒼に振礼島について十分な情報を与えないのも頷けた。しかもあの島の人間の中には平気で人を殺すような者もいるのだ。朔の話ぶりではレオニードが異常なように聞こえたが、本当は朔もそちら側の人間ということはないだろうか。


 疑心暗鬼に陥りそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた蒼に、涼介は煙草を持つ手で口元を隠しながら再び口端を上げた。その目は少しだけ細められており、口の形が見える者からすれば笑顔と取れるだろう。


 だが、蒼からはその口は見えない。涼介の細められた目は自分を心配するような表情として受け取った。朔に対して疑念を抱いてしまった今の蒼にとっては、自分に優しく接してくる涼介を無条件に味方だと認識してしまうには十分だった。

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