赤髪のエレナ③

「――ほら、いくらでも見なさい」

「そう言われても目のやり場が……」


 自分とはまるで異なる裸体を前に、蒼は怖気づいていた。あの後どうにか朔を説得しホテルに入った三人は、彼をリビングに残し蒼と赤髪の女性二人、浴室で蒼による女性のボディーチェックを行っている。


 朔曰くタトゥーがあればどんな図柄か覚えておけとのことだったが、目の前の透き通るような白い肌にはタトゥーどころかシミ一つない。遠い世界のモデルならともかく、至近距離でマネキン並にスタイルの良い身体を見せつけられた蒼は、こっそりと自分の身体を触ってショックを受けていた。


 ――なんの拷問だろ……。


 女性に「もう大丈夫です」と声をかけると、蒼は服を着る彼女を浴室に残しリビングへと戻った。


「タトゥーなんてなかったですよ」

「そうか」


 ソファに腰掛けていた朔はそれだけ言うと徐に立ち上がり、浴室のドアの前に立った。「スケベですね」と蒼が訝しげに言えば、「見張ってるんだよ、馬鹿か」と呆れたように返される。彼らのいる客室は五階にあったが、浴室は廊下と面しているためあの女性であれば逃げることは可能なのだ。それに気付いた蒼は「……馬鹿ですみません」と気まずそうに小さく謝った。


「――わ、こんなとこで待ってなくても逃げないってば」


 着替え終わり浴室から出てきた女性はすぐそこにいた二人の姿に驚くと、全く警戒する様子もなくリビングのソファに腰掛けた。小首を傾げ、言ったとおりでしょと言わんばかりににっこりと朔に微笑みかける。


「レオニードとは?」


 未だ警戒した様子の朔は、出口を塞ぐようにして移動しながらそう尋ねた。


「彼は嫌いよ。顔も見たくない」

「知り合いではあるんだな」

「姉がね。私はまともに口を利いたこともないし、これから先も話したいとは思わない」


 心底嫌そうに言う彼女の表情からは、蒼は嘘を感じられなかった。朔が懸念していたモノとの関係がないということが分かったので、蒼は彼に「もういいですか?」とお伺いを立てる。朔は仕方なさそうに頷くと、ドスンとベッドに腰を下ろした。それを見て蒼は今から自分の仕事をしていいのだと判断し、女性の隣にちょこんと座って軽く咳払いをした。


「ではでは改めまして」

「はいどうぞ、ちんちくりんちゃん」

「ち……失礼な! 確かに貴女からしたら私はちんちくりんなのかもしれませんが、私には小鳥遊蒼という名前があるんです!」

「アオ? 変な名前」

「変って……! もう、この人嫌だ! 朔さんからも何か言ってくださいよ!」


 人を馬鹿にしきった女性の発言に加勢を求めるべく蒼は朔を振り返る。しかし珍しくきょとんとする彼の表情を見て、まさかな――と嫌な予感で顔が引き攣った。


「その顔……まさか朔さん、私の名前知らなかったなんてことは……」

「……字はさっき見た」


 気まずそうに目を逸らしながらそう言う朔が指すのは、スマートフォンの操作説明の時に蒼が自分の連絡先として登録してみせた名前のことだろう。先程女性に渡しかけた名刺は薄暗くて朔には見えていないはずだ。今の蒼にはどうでもいいことだったが。


「字だけ!? ってことは今まで名前知らなかったってことですか!? 朔さんに一度も名前呼ばれたことがなかったのはそういうことですか!? 下の名前ならともかく苗字は家に表札かかってるじゃないですか!」

「別に困らないからいいだろ。つーか表札だってだっけか? あんなん苗字とは思わねぇし」

「なら一体何だと思って……」

「あー……趣味?」


 何を適当なことを――蒼は怒りにわなわなと震えつつも、同時にショックを受けていた。仮にも一緒に暮らしている相手に自分の名前すら知られていなかったのだ。とてつもなく険悪な仲というならともかく、自分と朔はそこそこ打ち解けてきたと思っていたのに――そんな蒼を女性がおかしそうに笑いながら、悲哀を滲ませる華奢な肩をぽんっと軽く叩いた。


「そろそろ本題に入りたいんだけど」

「うぅ……失礼しました」


 そうだ、今はこの女性だ――蒼は未だショックを引き摺っていたが、貴重な情報提供者の機嫌を損ねてはならないと両頬をぱちんと叩く。


「……さて、では始めます。まずお名前からいいですか?」

Еленаエレーナ Соколоваソコロワ、こっち来てからはエレナって名乗ってるわ」

「そのお名前ってことは、エレナさんはロシア人なんですか?」


 蒼の問いにエレナは朔の様子をちらりと窺う。キツく睨むのは余計なことを言うなという意味なのか、それともちゃんと答えろなのか――どちらの意味だろうと思いながら「父がロシア人で母が日本人」となるべく当たり障りのないように答えた。


「なるほど、だから日本語お上手なんですね」

「そういうこと」


 そこから暫くは、蒼の仕事に関する質問が続いた。事前になんでも答えると言っていたとおり、エレナは蒼の質問に詳しく答えていく。


 やがて自分の仕事に関する質問は終わったのか、蒼が突然「ちなみにヴォルコフって何ですか?」と問いかけた。


「ヴォルコフは……っと、それは彼から聞いたら?」


 エレナは勢いで答えかけて、ベッドの方から突き刺さる視線に気付き口を噤んだ。エレナにはまだ朔と蒼の関係は分からなかったが、どうにも朔の方が蒼に対して情報を隠している節があると感じていた。


 彼の機嫌を損ねるようなことは言わない方がいい――この身体のお陰で一般人相手になら対処できる自信はあったが、同じ身体を持つ相手ではそうもいかない。このアドバンテージがなければ自分はただの女なのだ、と肩を竦めた。


「でもあの人教えてくれないんです。人の名前知らなかったくせに」

「それは酷いわね。名前知らなかったくせに」

「名前は関係ねぇだろうが」


 不機嫌な顔で朔が女二人を睨むが、彼女達は互いに顔を見合わせて「怖ーい」と声を合わせる。いつの間にそんなに打ち解けたんだ――エレナはともかく蒼の方は調子に乗っているだけだと分かりきっていたが、それでも名前を知らなかった事には少なからず負い目を感じていたので朔は閉口するしかなかった。


「教えてあげたら? まだ会ったばっかりだけど、この子目を離したら一人でも突っ込んじゃうタイプじゃない? 今回は相手が私だったしアナタも近くにいたからいいけど、今後もそうとは限らないでしょ?」

「それは……」

「エレナさんの言う通りですよ! 朔さんが教えてくれないなら私は一人でどうにかします!」

「お前はちょっと黙ってろ」


 それは考えなかったわけじゃない――朔は頭をガシガシと掻くと、そのまま膝に頬杖をついて視線を落とした。


 蒼は元々行動力のある人間だ。そうでなければ何も情報がないのに単身北海道に乗り込んだりはしないだろう。それがきっかけで朔は彼女の存在を知ったし、利用するには丁度いいと目をつけたのだ。しかし行動力はあるのにそれに見合った警戒心というか、思慮深さが足りない――それが短期間朔が蒼と過ごして感じた彼女の印象だった。


 エレナの言う通り、蒼に何も言わなければ彼女は自分で調べてしまうだろう。今回は偶然自分が近くにいたが、まさか四六時中見張っているわけにもいかない。ならばせめて、どういう相手に最大限の警戒心を持って接するべきかというのは教える必要があるかもしれない。それでも、蒼がちゃんと警戒してくれるとは思えなかったが。


「――トカゲのタトゥー」

「え?」


 突然脈略もなくそう話しかけてきた朔に、蒼は思わず聞き返した。


「お前トカゲのタトゥーがどうのって言ってただろ? あれトカゲっつーか、火蜥蜴サラマンダーな」

「あ、ミハイルさんにあったっていうあれですね?」

「ああ。あれはヴォルコフっていう男の組織の証だ」

「ということはミハイルさんも?」

「そうなる。ヴォルコフ自体はこっちからちょっかいかけなきゃ何もして来ないだろうが、問題はレオニードだ」


 そこまで言って、朔は一つ大きな深呼吸をした。憶測は含めず、最低限の事実だけを――そう思いながらも、どうしても昨日浮かんだ考えが頭の中にちらつく。


「奴の名前はレオニード・ヴォルコフ――ヴォルコフの馬鹿息子だよ。元々親父の権力使って好き勝手やってたような奴だから、ヴォルコフの部下なら奴と繋がってる可能性が高い」


 だから火蜥蜴サラマンダーのタトゥーを持っている奴には近付くな――言外にそう含めて蒼の目を見つめた。彼女にも朔が言いたいことが伝わったのか、外でエレナにしようとした行動がどれほど軽率だったのか改めて気付いたらしい。表情を固くして朔の視線を受けていた。


「――補足してもいい?」


 不意にエレナが声を上げる。


「今レオニードに付いてるのはあの日の生き残りだけだと思うわ。ミハイルがヴォルコフに密告したから」

「え? エレナさん、ミハイルさんのことご存知なんですか?」

「たまたまね。彼の方が先に私に気付いて近付いてきたの。なんだかレオニードに相当追い詰められてたらしくて、ヴォルコフに彼のしたこと伝えたから一緒に逃げようって」

「逃げようって……それっていつ頃の話ですか?」


 その逃亡は間に合わなかったことを知っている蒼は、無意識のうちに眉を寄せていた。


「最後に会ったのは二週間くらい前かしら? でもその時にはもうギリギリ正気を保ってるって感じだったから、さすがに付いていく気にはなれなくてね。そもそも親しくもないし。――正気を失った理由は、アナタなら分かるでしょ?」


 そう言ってエレナは意味ありげに朔に目配せした。蒼にはその言葉の意味は分からなかったが、朔の方は眉間に皺を寄せて何かを考えるような表情をしていることから、彼には伝わっているのだろう。


 自分を見つめる蒼の視線に気付いたのか、朔はほんの少しだけ彼女と目を合わせたが、すぐにその目を逸らす。また言わないつもりか――その態度に蒼はそう気付いたが、今は踏み込むべきではないと首を振ってエレナに顔を向けた。


「なんでミハイルさんは、エレナさんと逃げようとしたんでしょうか?」

「……姉のせいよ」


 エレナは前髪をかき上げると、その長い睫毛を伏せながら思い出すように話しだした。


「姉がね、レオニードの女だったの。だから彼にくっついてたミハイルとは面識があった。あの日レオニードが私の目の前で姉を殺したから、多分その負い目があったのね」

「……殺したって、どういうことですか?」


 思いがけない話に蒼は自分の表情が引き攣るのを感じていた。レオニードの名前が出てから人の死が急に近くなった――朔が何故自分に振礼島を調べるのを止めさせようとしたのか、その本当の意味を今更ながらに理解しぎゅっと自分の腕を掴む。


 エレナはそんな蒼の様子を一瞥したが、あまり気にした素振りを見せず「そのままの意味よ」とだけ答え、朔に向き直った。


「アナタは見たんじゃない? 聖杯いっぱいに注がれた血を」

「……ああ」

「あれ姉の血よ。レオニードの奴、遊び半分で変な儀式をしようとして傍に居た姉の首を切ったのよ」


 儀式って何のことだろう――蒼はその疑問を口にしようと朔を振り返り、止まった。見た目こそ平静を装っているが、彼のその雰囲気は昨日自分に自身の考えを話してくれたときと同じものだと気付いたからだ。


 ――あの夜のことはきっと奴が引き起こしたんだ。


 おそらく今、朔の中ではこれが確信に変わったのだろう。儀式とやらの話で何故そうなるのか蒼には全く分からなかったが、朔のわずかに揺れる瞳からそれだけは確かに感じ取れた。正直聖杯だの儀式だのと言ったオカルト的な話は未だ半信半疑だったが、目の前の朔はそれが事実だと、レオニードがすべてを引き起こしたのだと確信している。分からないことだらけのこの会話の中で蒼が唯一分かったのは、朔の中に燻る真っ黒な感情がその頭をもたげようとしていることだけだった。


 どうしよう――朔を内から喰らおうとしているその存在に気付いても、どうしたらいいか分からず蒼は唇を噛み締めた。これ以上エレナが朔を刺激するようなことを言う前にその話を止めるべきか? いや、もう遅い――止めたところで朔の中の確信が覆るとは思えなかったし、何より部外者の自分にそんな権利はないだろう。


 そうか、自分は部外者だった――分かりきっていたその事実が急に蒼の中に重くのしかかった。


「――お前の話だと儀式をやったのはレオニードで間違いないんだな?」


 いつもよりも些か低い声で、朔が確認するように問いかけた。この状況で朔が何か話すとは思っていなかった蒼は、弾かれたように顔を上げその表情を確認する。しかし彼の目は真っ直ぐエレナを捉えており、その感情を推し量ることはできなかった。


 ちくり、小さく蒼の胸が痛む。襲ってきた疎外感を振り払おうと小さく首を振るが、それは纏わりついて離れる気配がなかった。


「そうよ、ずっと見てたから間違いない」


 エレナの返答に「そうか」とだけ小さく呟くと、朔は何かに耐えるかのように眉根を寄せ目を瞑った。


 ――今、朔さんは何を考えているのだろうか。


 彼らの言葉から推測すれば、レオニードが朔にとっては仇にあたるということがはっきりしたのだ。それは憎しみや怒りの向け先のなかった朔にとっては喜ばしいことなのかもしれない。だが、目の前の彼はどう見ても喜んでいるようには見えなかった。


 ――エレナさんなら、何を考えているのか分かるのだろうか。


 自分と違い朔と過去を共有している人間になら分かるのかもしれない。そう思ったが、蒼にはエレナの表情を見ることはできなかった。見たらきっと、自分と彼らの間にある何かに気付いてしまう――いくら首を突っ込んだところで所詮自分は部外者なのだ。当たり前のその事実がいやに蒼の心に突き刺さっていた。

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