第五話 赤髪のエレナ

赤髪のエレナ①

 仕事の遅れを取り戻すため休日出勤していた蒼は、夕方になりやっとキリのいいところを迎え、ぐっと伸びをした。したたかに打ち付けた背中の痛みは殆どなくなり、貧血の症状もだいぶ良くなってきた。背中の見た目だけは未だに黄色や緑の痣がまだらに残っていたが、動くのに支障はなくこれはもう全快と言っていいだろう。蒼は急いで荷物をまとめ、職場の入っている雑居ビルを後にした。


 ――朔さん、ちゃんと来るかな。


 朔とはこの後、渋谷で会うことになっている。彼が待ち合わせ場所に来るかどうか心配しながら、仕事用の大きめのバッグの中から財布を漁り、小さいショルダーバッグへと移そうとしていた。


「――わっ!?」

「おっ、と!」


 余所見をしていたせいで、ドンッと前方から来たであろう人と思い切りぶつかる。「すみません!」、自分が前を見ていなかった自覚のある蒼は慌てて頭を下げた。


「私ったら前見てなくて……! お怪我はないですか? 何か溢してしまったりとか……」

「あはは、そんな慌てなくて大丈夫大丈夫。俺こそごめんね? ちゃんと避ければよかった」

「いえいえいえ、私がこんな往来でよそ見していたから……!」


 平身低頭謝る蒼に相手は吹き出すと、「そんなに気にしないで」と優しい物言いで彼女に語りかけた。その声色に良い人だと安心すると、やっと蒼は顔を上げて相手の姿を確認した。


 少し長めの茶髪に、人好きのする笑顔。年頃は二十代後半だろうか、身長は蒼より少し高いくらいで、程良くがっしりとした体格をしていた。なんか安心するな――最近朔とばかり一緒にいたからか、愛想の良さそうな物腰と日本人らしい外見に安心感を覚えた。


「本当すみませんでした」

「どんだけ腰低いの。ま、危ないからとりあえず前は向いて歩こうな」

「は、はい!」


 ――兄がいたらこういう感じなのだろうか……。


 蒼の不注意にも関わらず怒らないどころか身の安全まで心配してくれた男性に、思わず彼女にはいないはずの兄というものを想像する。男性は蒼ににっこりと笑いかけると、「じゃあなー」とその場を後にした。あの人当たりの良さは是非とも朔にも見習ってもらいたいと思いながら、蒼は待ち合わせ場所へと急いだ。



 §


 ――近づきたくないなぁ……。


 朔との待ち合わせ場所に着くと、先に着いていたらしい彼の姿が目に留まった。渋谷の人だかりで簡単に見つけることが出来たのは、単に朔の身長が高いだけでなく妙に人々が彼から距離を取っているからだった。最初は朔が何かしたのかと思った蒼だったが、注意深く周りを観察するとその原因は別にあるとすぐに分かった。


 ――あれは皆、声をかけようとしてるんだよね……?


 待ち合わせで有名なその場所に一人で立っている朔に、周りの女性達が声をかけるかかけまいか迷っているのだ。すぐに声をかければいいのにそうしないのは、朔の纏う不機嫌な空気のせいだろう。あれは確かに近付きがたい、と何度もそれに晒されている蒼は頷きたくなったが、しかし自分は今からその朔に声をかけなければならない。


 ――ベンチに座るとかして目立たないようにしてくれればいいのに!


 何故わざわざ目立つように立っているんだと憤りながら、その勢いで朔に近づき声をかけた。


「ちゃんと来てくれたんですね」

おせぇよ」

「時間どおりじゃないですか!」

「知らね」

「あ、もしかして時計も持ってませんね? 全くどんだけ文明と距離置いてるんですか」

「わざとじゃねぇよ」


 不機嫌な空気が消えたことで、機嫌が悪かったのは自分を待っていたせいかと気が付いた。現在の時間も分からないのであれば後どれだけ待てばいいのか予想もできず、確かにストレスが溜まるだろう。蒼はバッグから古いスマートフォンを取り出すと、朔に「大事に扱ってください」と言いながらそれを手渡した。


「何これ?」

「私の古いスマホですよ。格安SIMなら月千円くらいで使えるんです。昼間契約して軽く初期設定はしておいたので、さっさとパスワードと指紋登録してください」

「指紋?」

「顔認証がない時代に買ったやつなんですよ」

「なんだそれ」


 携帯電話を持たない生活を送っていたため指紋認証も顔認証もよく分かっていない朔は、訝しみながらも蒼に言われたとおりに操作していく。昨夜の食事風景を見る限り朔は右利きだったが、残念ながらその手はまだ包帯に包まれていた。そのことに蒼はまた少しだけ心を痛ませながら「後から右手も登録してくださいね」と説明し、左手の指紋を登録させる。聞けば初めて持つらしい携帯電話を朔がうまく使えるか不安だったが、最低限電話機能の使い方だけその場で覚えさせた。


 蒼がわざわざ朔に携帯電話を持たせたのには理由がある。勿論、一度何も言わずいなくなっていたこともそうだが、それよりも彼女にそれを決意させたのは、未だに朔がこれ以上彼女が振礼島に関わることを認めていないからだった。


 どうにか自分の家に留まらせることには成功したが、少しでも油断すると朔は一人で動いてしまうだろうと思ったのだ。そうなった時、彼の後を追う手段がなければ本当に振礼島のことについて知ることができないまま終わってしまうかもしれない。その不安を少しでも解消するために、蒼はこうして自腹で朔に携帯電話を持たせることにしたのだ。


「これで大丈夫そうですね。地下はまだ圏外のところがあるかもしれないので、もしここの電波の表示部分に圏外って出てたら外に出てみてください。まあ、今日行くところは地上みたいなんですけど」

「ふうん」

「ちゃんと私からの電話は出てくださいね」

「気付いたらな」


 朔の返答に蒼の中には不安が残ったが、こればかりは彼を信じるしかない。


「じゃ、行きましょうか!」


 元気良く蒼が歩き出すと、朔は面倒臭そうに後に続いた。


 今回彼らが待ち合わせたのは、朔に蒼の仕事を手伝ってもらうためだった。例の芸能人に関する情報を集めきれていない蒼は別のクラブで情報収集しようと思ったのだが、自分にはああいったところでの仕事は向いていないと自覚していた。そこで昨日の事があった朔の気分転換も兼ねて手伝いを頼み込んだのだ。


 少し歩いて先日とは別のクラブに着くと、例のごとく朔は受付に多めの現金を渡してエントランスをくぐる。その姿にもう何も言うまいと蒼は黙って後に続いた。


「――やっぱいいな」

「そんなにクラブ好きなんですか?」

「この空気だよ。手も良くなってきた気がする」

「えー、嘘だぁ」


 自分には考えられない発言に蒼は顔を顰めた。手まで良くなってきたとは相当なクラブ好きなのだろう、と肩を竦める。


「そう言えば、ミハイルさんって何でこんなとこにいたんですかね?」

「そりゃ奴も居心地いいだろうしな」

「……もしかして本気だったりします?」

「何が?」

「いや、空気がいいっていう話です。てっきり朔さんは根っからのパリピなんだと思ってましたが、その感じだと生き残りあるあるなのかなって。なんとなく教会とは正反対な場所の気もしますし」

「なんだそりゃ。まあ、それで間違ってはねぇよ。こういう悪意とか欲望っつーの? そういうのが強い場所は居心地がいい」

「……なんか悪魔っぽい」


 そう言って蒼は再び顔を顰めたが、一方で朔の口数の多さには少し嬉しさを感じていた。昨日の一件で少しは自分のことを受け入れてくれたのだろうか。以前よりも少しだけ柔らかくなったその態度に、これが彼の素なのかもしれないと口端を上げた。


「何ニヤニヤしてんだよ?」

「ないでもないですー」

「仕事しろ」

「うぅっ……!」


 痛いところをつかれた蒼は眉根を寄せると、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出して例の芸能人の写真を朔に送った。もう一つ持っていた大きいバッグは邪魔になるため、入店時に店のコインロッカーに預けている。


「今送ったんでちょっと見てみてください」


 そう言われて朔は自分のスマートフォンを見ると、「こいつのこと聞けばいいのか?」と蒼に確認する。


「そうです。ご協力お願いします」

「ったく、面倒臭ぇなぁ」


 そう言って朔は顎で行くぞと合図をし、二人で店内を歩き始めた。別行動の方が効率は良いのだろうが、今回は後学のためにと蒼が見学を申し入れたのだ。流石に相手が女性か男性かでは勝手が違うのだろうが、最初の声のかけ方くらいは勉強になるだろうと意気込む。周りの視線が時々刺さる気がしたが、これも今後のためだと蒼は耐えることにした。


 店内はやはり薄暗く、かと思えばアップテンポの音楽のリズムに合わせてチカチカと照明で照らされているため、どうにも見通しが悪い。女性の平均的な身長である蒼の前には自由に踊る人々の壁が立ちはだかり、遠くを見ようにも他人の身体が邪魔になってうまく見ることはできなかった。


 一方で周りよりも頭一つ分程高い身長を持つ朔は、人の波に溺れ歩きにくそうにする蒼とは違いスイスイと人混みを縫うように店内を歩き回る。蒼は必死にそれに着いていくが、突然朔が立ち止まったため「ぶっ!」と思い切りその背中に顔から突っ込んだ。


「……なんなんですか、もう。いきなり止まらないでくださいよ」


 今日はよく人にぶつかるな――そんなことを考えながら朔に抗議した蒼だったが、目の前の人物からは返事が返ってこない。BGMのせいかとも思ったが、今の密着している状態であれば朔が何か喋れば振動が伝わるはずだ、と不思議に思い彼の顔を見上げた。


「朔さん?」


 見上げた朔の顔は、固まったようにどこか一点を見つめていた。どうしたのだろうとその視線の先に目を移すと、人混みの中に一人の長身の女性がいた。時折人の壁の隙間から見える彼女は周りと比べて一際スタイルが良く、確かに一度見たら暫く見ていたくなるのも納得できる。緩くウェーブのかかった長い髪を持つ彼女は、遠目でははっきりとは分からないが顔立ちも相当な美人なのだろうということが窺えた。


 ――……好みなのかな?


 周囲とは明らかに雰囲気の異なるその女性を一心に見つめる朔の姿に、一目惚れかもと思いながら「そういうのは後にしていただけると……」と声をかける。


「あの女、同じだ」


 意味の分からないその言葉に、蒼が思わず「え?」と聞き返した時、朔は既に走り出していた。と同時に、女性がこちらを振り返る。彼女もまた大きく目を見開くと、踵を返して朔から逃げるように走り出した。


「え、何? どういうこと?」


 理解の追いつかない状況に混乱しながらも、蒼もまた朔を追いかけ走り出す。朔が人を無理矢理かき分けたお陰か、店内には蒼でも通りやすい道ができていた。それはこの暗さの中でも朔を追いかけるための目印ともなり、そのためあっという間に店の奥へと姿を消した朔にそれほど遅れることなく蒼も続く。


 店の“STAFF ONLY”と書かれたドアを抜けると、イベント時の控室だろうか、いくつか扉のある長い廊下へと出た。見晴らしの良くなったその場所に安堵しつつ、廊下の先の行き止まりに二人の姿を見つけた蒼は、やっと追いついた、と走るのを止めて歩き出す。が、すぐにその足を止めた。


「えぇー……」


 朔の少し前を走っていた女性は廊下の行き止まりにどうするのかと思いきや、そのまま速度を緩めることなく。さらにそれを追いかける朔もまた壁へと吸い込まれ、そのまま二人は蒼の前から姿を消したのだ。


 なるほど、というのはそういうことか――納得しながら二人の消えた壁へと駆け寄った蒼だったが、そこに来るまでに非常出口がなかったことに顔を引き攣らせた。これでは後を追いかけられない。


「このびっくり人間共がぁ!」


 完全に二人を見失ったことへの嘆きが、誰もいない廊下に木霊した。

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