第四話 危険な晩餐

危険な晩餐①

 久しぶりに訪れた穏やかな仕事の時間は、蒼にとって煩わしい以外の何物でもなかった。


 ミハイルの不審な死を目撃をしたのが二日前、その夜から行方を晦ました朔を連れ戻したのが昨日の事。殺人の疑いがある人間を一人で探しに行くのは危険だと思ったが、どこかで朔はやっていないと蒼は確信していたのかもしれない。だからこそ、たった一晩帰らなかっただけで朔を探しに行ったのだ。彼は帰らないのではなく、帰れないのではないか。姿を消す直前に見せた朔の言動は、本人ですらその感情を制御し切れていないようにも見えて、放っておけなかっただけかもしれない。


 我ながらお人好しだと思ったが、たった数日でも一緒に過ごした人間を放置するなど蒼には出来なかった。そうして朔を探し始めた蒼だったが、彼は驚く程あっさりと見つかった。


 朔のことを知らなすぎた事が功を奏したのかもしれない。彼の行動範囲など今まで一緒に行ったところしか知らなかった蒼は、まず最初にそのうちの一つである例の廃工場へと向かった。そうしたら、彼はそこにいたのだ。すぐに見つかるとは期待していなかった蒼は、最初は幻か何かかと思った。それくらい呆気なく朔は見つかったのだ。


 だが、そこに居た朔は蒼の知っている彼ではなかった。見た目こそ変わらないが、纏っている雰囲気がどこか弱々しく、笑っているはずなのに泣きそうになっているようにも思えた。


 それはミハイルの死を伝えたところでより一層顕著になり、その時の朔はまるで彼のように灰となって消えてしまうのではないかと思うほどだった。


 だから蒼は、気付いた時には彼の腕を掴んでいた。折角彼が出ていくと言っているのに、迷惑な居候を追い出せる機会だったかもしれないのに、蒼は出て行くと言いかける朔の言葉を遮り、必死に彼を家まで連れ帰った。


「――何やってんだろ……」


 ふう、と大きな溜息を吐く。あれではまるで自分が朔を家に置いておきたいようではないか、と眉を寄せた。


 家に連れ戻した朔は不気味なほど大人しくしている。帰ってから一切食事を取らず、二階に貸した自室に閉じこもっていた。こっそりとドアの前で何度か様子を窺ったが、煙草を吸っている気配すらない。キッチン以外での喫煙を許す気はないが、いっそそれくらいしてくれと思う程だった。


「どうしようかな……」

「仕事すればいいんじゃないか?」

「げ」


 急に返ってきた独り言の返事に、蒼は思わず顔を歪めた。隣には額に青筋を浮かべた菊池が立っている。


「体調は良さそうだが、仕事は進んでなさそうだなぁ?」

「いや、えっと……」

「ほら、追加だ。例の俳優のネタはこんなにあるぞ? 『連日連夜合コン三昧』、『赤髪ハーフ風美女との密会』、『船を貸し切り船上パーティー』。全くいいご身分なこった」


 バサ、バサ、バサ……と読み上げ終わった書類から順に蒼のデスクに放り投げる。積み上げられていく仕事に蒼は顰めっ面を浮かべたが、すぐに困ったように眉を寄せ「これ全部ですか……?」と菊池を見上げた。


「当たり前だろ。いつまでもサボれると思うなよ」

「うぅ……」


 項垂れる蒼を尻目に、菊池は「もうサボるなよ」と言い残し自席へと帰っていった。その背中は蒼がどんな懇願をしようとも受け付けないと言わんばかりである。後回しにしていたのは事実だが、これはあんまりだと蒼はデスクに突っ伏した。


 ――私に朔さん程の情報収集スキルがあれば……。


 そう思ったが、すぐにあれは恵まれた容姿を持つ人間にのみ許された技だと気付き、デスクに顔をめり込ませた。



 §


「――ありがとうございましたー」


 夜、仕事終わりに蒼は自宅最寄り駅前にあるとんかつ屋で弁当をテイクアウトした。明るくもどこか投げやりな店員の声を聞きながら、右手に持つビニール袋をそっと見やる。その中には、二人分のカツ丼が入っていた。朔が食べるとは思えなかったが、いつまでも部屋に引きこもっていられては困ると思いエサで釣るべく買ってみたのだ。


 買ってみたはいいものの、蒼には朔がカツ丼で釣られるイメージが浮かばなかった。というより彼が食べ物で釣れる気がしない。数日一緒に暮らしているが、朔は蒼が冷蔵庫に入れておいた常備菜やベーコンなどの加工肉を適当に食べるだけで、食事らしい食事をしているのを見たことがなかった。


 ――あんな食事でよくあの筋肉保てるな。


 これもロシア人の遺伝子の力だろうか、と朔の恵まれた体格を思い出す。昨日掴んだ朔の腕は、蒼が両手で思い切り引っ張るまでびくともしなかった。それも彼がぼうっとしていたから動かせただけで、普通にしている時だったら簡単に引き戻されたかもしれない。


 大掃除の時にいてくれたら便利そう――どこか的はずれなことを考えながら蒼は自宅に帰って来ると、玄関の前で少し立ち止まった。


 ――またいなくなってる、なんてこともあるかも……。


 今朝までの朔の様子を考えれば、彼がまた姿を消していたとしても何ら不思議ではなかった。買ってきた二人分のカツ丼が無駄にならないことを祈りながら、ゆっくりと玄関の扉を開ける。すると漂ってきた石鹸の香りに、思わず蒼は顔をぱっと明るくした。


 ――お風呂に入る程度には元気になったのか。


 昨日から考えるとかなりの進歩に思えた。朔が風呂から上がる前に準備をしてしまおうと思いながら鼻歌交じりにリビングの扉を開ける。するとそこには、濡れた髪のままキッチンで煙草を吸う朔の姿があった。


「た、ただいま帰りました」

「おう」


 てっきり浴室にいると思っていた朔が目の前に現れたことで、若干蒼の声が上ずる。どうせすぐには顔を合わせないだろう、とまだ何と声をかけるか考えてなかったのだ。そんな蒼の様子を気にすることなく、朔はぼんやりと紫煙を燻らせている。相変わらず暗い雰囲気は残っていたが、昨日よりは全然マシだと蒼は胸を撫で下ろした。


「カツ丼買ってきたんですけど食べます?」

「カツ丼?」

「もしかしてご存知ないですか?」

「いや、知ってるけどよ」


 そう言って眉を顰める朔にもしかして嫌いだったかと心配した蒼だったが、彼はすぐに眉間の力を緩めると興味深そうに彼女の手元を眺め始める。その様子に嫌いなわけではなさそうだと判断すると、蒼は二人分のカツ丼をテーブルに並べた。


「はい、熱いうちにどうぞ」

「……何か企んでるのか?」

「なんでですか?」

「いや、お前がわざわざ俺に食べ物用意するなんて初めてだしよ」

「人んちの冷蔵庫漁っといて今更何言ってるんですか」


 今まで自分から食べ物をもらっている自覚がなかったのか、とじっとりとした視線で朔を睨みつけた。朔は一瞬たじろいだが、すぐに煙草の火を消して食卓につく。蒼が「いただきます」と食べ始めると、遅れて朔も目の前の丼を食べ始めた。


「どうですか?」

「ん、美味い」

「舌は日本人なんですね」

「お前の中で俺はなんなんだよ」

「……奇人?」

「それはいい意味ではないよな?」


 いくつか言葉を交わして、朔の様子を窺った。まだ本調子ではなさそうだが普通に話せる程度には元に戻ってきたことにほっとすると、蒼は本題と言わんばかりに朔に話しかけた。


「カツ丼と言えば取り調べですよ」

「は?」

「知りません? 警察の取り調べ中に、犯人にカツ丼が出されるんです」

「へぇ」

「つまり私が今から朔さんを取り調べます」

「あ?」


 怪訝そうな表情で朔が蒼を見返す。


「…………」

「何も言わないのかよ」

「いや、何から聞こうかなって……」


 聞きたいことがありすぎる、と蒼は頭を悩ませた。振礼島のことは勿論、生き残りの話やミハイルの死についての見解も聞きたかった。しかし困ったことに、聞きたいことはどうにも聞きにくいことばかりで、どう切り込んでいいのか分からない。


「……お身体は大丈夫ですかね?」

「お前それしか言えねぇの?」


 なんとか口から出たのは昨日と同じ質問で、朔が呆れたように蒼を見返した。若干馬鹿にした感じもあるその表情に、蒼は慌てて言葉を付け足す。


「ほら、あの、火傷です火傷」

「火傷?」

「はい。あの火傷、朔さんとミハイルさんのどっちにもあったなって……」


 そう言いながら、蒼は朔の様子を盗み見た。まずいことは言っていないだろうかと不安になったのだ。朔は暫く考え込むように黙り込むと、おもむろに左頬に手を当て、「これか」と少しその手をずらしながら蒼に問いかけた。


「え……出し入れ自由なんですか!?」

「出し入れっつうか、まあ、そうだな」


 完全に頬から手を外さなかったのは朔なりの気遣いだろう。いくら蒼から振った話とは言え、食事中に思い切り見せるものでもないと思ったのかもしれない。蒼が今彼に見せられたのは、火傷の端の比較的軽症と言える部分だけだった。


 朔は再び手で傷を完全に覆い隠すと、少しの間ぼうっと黙り込んでからその手を外した。そこにはもう、元の健康な肌があるだけだった。


「……あの、もうちょっとちゃんと見せてもらえません?」

「お前な……。もしかしてこういうの好きなの?」

「いえ、そういうわけじゃないです。確かにスプラッター映画は割と得意ですけど、ちょっとミハイルさんの傷と見比べたくて」


 蒼の言葉に朔は呆れたように顔を歪めながら、今度は左手を彼女の方へと伸ばし、手の甲に火傷を戻す。蒼はその傷を興味深そうに覗き込むと、思い切り眉を顰めた。


「うわあ……グロ……」

「お前がやれっつったんだろうが」

「あ、ごめんなさい。……これ痛いですか?」

「そりゃあな」

「えぇ!? 早く言ってくださいよ、もう見たんで戻して大丈夫です!」


 予想外の言葉に、蒼は自分の軽率さを反省しながら慌てて元に戻すように言った。心なしか朔の顔が怒っているように見えるのは気のせいではないだろう。あまりに簡単に出し入れするためてっきり痛みはないのかと思ってしまっていたが、痛いのであればこんな要求をする蒼に腹を立てるのは当然のことだ。


 朔は傷を消すと、黙って食事を再開した。その様子に蒼は怒らせてしまっただろうかと不安げに眉を寄せる。しかし朔はそんな蒼をちらりと一瞥し、「怒ってねぇよ」とまるで彼女の心を読んだかのように呟いた。それに安心した蒼は思ったことを伝えようとおずおずと口を開く。


「やっぱりミハイルさんの傷と同じに見えました」

「だろうな」

「知ってたんですか?」

「当たり前だろ」


 なら今の自分の行動はなんだったんだ、と蒼は頭を抱えた。朔にとっては分かりきったことを確かめるために、わざわざ彼に苦痛を与え手間を取らせたのだ。気をつけておいてこれか――ちゃんと本人に確認しないで進めてしまった自分を責めたが、ふとある疑問が頭に浮かぶ。朔とミハイルの傷が同じであれば、彼の死因は火傷とは関係ないのだろうか。朔は火傷を負った面積が狭いから無事なのかと思ったが、顔以外に傷を出したことからそうとも限らない。


「その火傷ってミハイルさんの死因になりえますか?」

「間接的にはなるだろうが、直接的にはならないな」

「……もうちょっと初心者に分かりやすいようにお願いします」

「奴がイカれちまってたのは多分この傷のせい。死んだのは別の原因」


 つまり精神を病んで何らかの方法で死を選ぶ可能性はあるだろうが、火傷だけでは死に至らないということを言いたいのだろう。正直蒼にはあの火傷で生きていられる理由が分からなかったが、同じ傷を持つ朔が言うのであれば正しいに違いない。


「朔さんとミハイルさんの傷が同じってことは、もしかしてミハイルさんも朔さんと同じ超能力使えたんですかね?」

「超能力って……まあ、使えただろうな」


 そのせいで精神を病んだのだろうということは伝えずに、朔は蒼の言葉を肯定した。朔の答えを聞いた蒼は、そのまま暫く黙り込む。


「おい?」

「あ、いや……朔さんってナイフで刺せるのかなって」

「殺す気かよ」

「いやいやいや、ミハイルさんの胸にナイフが刺さってたんですよ! でも朔さんって壁をすり抜けられるじゃないですか。ミハイルさんも同じだとして、そんな人にナイフで致命傷を与えられるのか気になったんです」


 蒼の言葉に、朔は「ああ」と納得したような声を漏らす。それに自分の疑いが晴れたのを知ると、ほっと胸を撫で下ろした。火傷のこともそうだが、ただでさえいつもより元気のない彼の機嫌を損ねすぎていると思ったのだ。


「ま、刺せるな」

「刺さるんですか!?」

「そりゃあな。じゃなきゃこうして飯食えねぇだろ」

「確かに……」


 言われてみれば、と蒼は小さく頷いた。


「物をすり抜けないのが普段の状態なんだよ。そうしたいって思った時にできるだけで」

「ってことは、もし刺されそうになってもそこだけすり抜けたいって思えば無傷で済むってことですかね?」

「そうなるな」


 なんて便利な力なんだ――そう喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。何が聞いてはいけないことか分からない状況で、これ以上不用意な発言はすべきではないと思ったのだ。


 しかし回避可能なのであれば、新たな疑問が浮かぶ。いくら正常な精神状態ではなかったとは言え、命の危険を前に回避しようとは思わなかったのだろうか。朔の口ぶりからすれば寝ていたら無理だろうが、ミハイルが刺されたのは昼間なのだ。


「朔さん達って、薬は効きます?」

「なんだよ、いきなり」

「だっていくらあの状態のミハイルさんでも、そう簡単に刺されるのかなぁって。刃物が見えれば身構えられません? だから薬でも飲まされてたのかと思ったんですけど」

「相手が隠してたのかもしれないだろ」

「あ、確かに……」

「まあ、全く気付かれないように隠せるくらいだから大した大きさの刃物は使えないだろうけどな。それで致命傷になったなら奴の運が悪かったか、相手が相当上手かったかのどっちかだろ」


 どのくらいの大きさだっただろう――朔の言葉を聞きながら、蒼は一昨日の記憶を呼び起こした。食器のそれと同じような見た目と大きさで、鋭い両刃を持つナイフ。しかし自分では隠しきれる大きさかどうかの判断がつかない。そういえば、と蒼は思い出すと、テーブルの横に置いてあったバッグの底からハンカチに包まれた物を取り出した。


「これはどうです?」

「……お前、これって」


 ヒクヒクと顔を引き攣らせる朔の前に出したのは、ミハイルの身体に刺さっていた銀色のナイフだった。まさかと目で訴えかけてくる朔に、蒼は「持ってきちゃいました」と明るい調子で答える。


「『持ってきちゃいました』じゃねぇだろ。つーかお前昨日からこれずっと持ち歩いてたのか?」


 朔はそう言いながら蒼の両頬を左手で摘み、むぎゅっと押しつぶす。「ふぐっ」という情けない声が漏れたが、「忘れてまして」となんとか言葉にした。


「お前の軽率っぷりには尊敬すら覚えるよ……」


 朔は蒼の顔から手を話すと、そのままその手で前髪をかき上げた。呆れ果てたようなその仕草を見てやっと蒼は自分の行動を思い返し、確かに軽率だったと顔が一気に青ざめる。毒されている――非常識な出来事の連続で自分の感覚がおかしくなり始めていることに気付き、悲鳴を上げたくなった。


「銃刀法違反で捕まらなくてよかった……」

「ちょっと罰金取られた方が気を付けるようになっていいんじゃねぇの?」

「我が家にそんなお金はありません」


 ただでさえ一人分の生活費がかさむのに――蒼は朔を睨みつけた。しかし彼はそんな視線もどこ吹く風で頬杖をつきながらナイフを手に取ろうとしている。自分は平気で凶器に素手で触るくせに――そう蒼が言い返そうとした時だった。


って……!?」


 カラン、と小さな音を立てて朔の手からナイフが落ちる。


「切ったんですか!? 気を付けて――」


 くださいよ――蒼は続く言葉を言えなかった。ナイフに触れた朔の手に、再びあの火傷が現れたからだ。何をふざけているんだと思ったが、呆然とする朔の表情を見て、それが彼の意図したものではないと悟った。

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