庵朔の郷愁④

 焼き付けるような痛みで朔は目を覚ました。


 痛みの元を確認しようにも辺りは真っ暗で何も見えない。だがすぐに確認する必要がないと気が付いた。痛いのは、全身だったからだ。


 ヒュー……ヒュー……と、風船から空気が抜けるような音を立てて呼吸していた。だから苦しいのかとより多くの酸素を求めると、だんだんとその音は小さくなっていった。


 ――何が起こった……?


 目を凝らすため力を入れようとしたが、いつもと目元の感覚が違うことに違和感を覚える。それでも必死に見ようと試みると、ぼんやりと視界に明かりが灯り、さらに見ようとするとそれはどんどん鮮明になっていった。


 ――……なんだこれ。


 クリアになった視界に広がったのは、隆起した地面だった。目の前に土の壁が立ち塞がっている。この時、漸く朔は自分がうつ伏せになっているのだと気が付いた。さらに状況を確認しようと身体に力を込める。


「つっ……!?」


 声にならない声が口から漏れた。全身の痛みは今まで経験したことのないようなもので、少しでも動かそうとすれば身体を焼かれるような痛みに襲われる。


 ――そうだ、んだ……。


 全身を焼かれるよう――その感覚があまりにも鮮明に残っていたことから、朔は自分の身体が炎に包まれたことを思い出した。恐る恐る視線を手元に移すと、そこにあった物体に思わず悲鳴を上げそうになる。いや、悲鳴は上げていた。のだ。


 一頻ひとしきり空気が勢い良く漏れるような乾いた音を出し切ると、少しだけ冷静になれた朔は改めてその物体に視線を戻した。


 ――これ、俺の手か……?


 そこにあったのは皮膚が焼け爛れ、筋肉どころか骨すら見えそうな肉の塊だった。炭のように真っ黒になった指が、それが人間の腕であることを表している。あまりに現実離れした光景に朔はしばし痛みを忘れ、ただ呆然とその腕に見入っていた。


 ――これだけ焼かれても、人間って案外死なないんだな。


 状況を受け入れられないのか、どこか冷静にそんなことを考えていた。


 ――腕がこんなんなら顔もヤバいんだろうな。母ちゃん気絶じゃ済まないな……。


 そこまで考えて、ふとこの状況を思い出した。どれほどの時間が経っているのかは分からないが、隆起した地面は先ほどの地震によるものだろう。島の建物は古く、あれだけの揺れに耐えられるとは思えなかった。朔の家も古い建物だ。倉庫の火事のせいで笹森が華は早く帰ってくるんじゃないかと言っていたことを思い出す。もしかしたら彼女は自宅でこの地震に遭ってしまったかもしれない。


 急に華の安否が心配になった。この島の住民は携帯電話を持たない。この状況で朔が華の無事を確認するには、自分で直接見に行くしかないのだ。


 ――動け。


 朔は自分の身体に指令を出した。痛みなどいくらでも我慢する。だから動け、と。


 しかし焼け焦げた身体はそう簡単には言うことを聞かない。それでも朔が必死に命じ続けると、ゆっくりとだが手足が動くようになってきた。


 ――早く、早く……!


 もし華が家の倒壊に巻き込まれていたら。帰宅途中で地割れに巻き込まれていたら。考えるだけで朔の頭からは血の気が引いていった。


 なんとか動くようになった身体で朔は家路を急いだ。しかし、彼の身体は地面を這うことしかできない。身体を動かす痛み、身体が擦れる痛み、既にどこがどれほど痛いのか分からなくなっていたが、それでも朔は必死に自宅へと向かった。


 長い長い時間をかけて、朔は見覚えのある場所に戻ってきた。どうやら最初にいた場所は住宅街からそこまで離れていなかったらしい。しかしそこに見慣れた街並みの面影はほとんどなく、そこら中で建物が倒壊していた。時折見える黒い塊はなんだろうかという疑問が頭を過ぎったが、今の朔には周りを気にしている余裕などない。


 一刻も早く華の無事を確認すること。


 意識が朦朧とするたびに自分を鼓舞し、ただ只管ひたすらに自宅を目指す。


 そうしてやっと、自宅の前まで辿り着いた。朔の嫌な予感は的中し、古い建物は見るも無残に崩れ去っていた。


「アッ……」


 華に呼びかけようと口を開くが、喉がやられているのか声が出ない。


 ――動け……動け動け動け!


 呼びかけるのを諦めた朔は、這うことしかできなかった自分の身体に念じ、やっとのことで瓦礫を掴みながら立ち上がった。立ち上がったことで見えるようになった瓦礫の奥に、見覚えのあるバングルが見えた気がした。


 一歩進んでは体勢を整え、また一歩進めば体勢を整える。たった三メートル程度の距離を進むのに、朔は瓦礫伝いにたくさんの時間をかけた。そうしてなんとかバングルの元に辿り着くと、朔は己の目を疑った。


 人型の黒い塊が、華のバングルを着けていた。


 普段なら悪い冗談だと思っただろう。しかし朔には、それが華だと一目で分かってしまった。もはや華の面影などないはずなのに、目の前の物体は間違いなく彼女だと断言できる。


 朔はゆっくりと煤けたバングルに手を伸ばした。何故そうしたのかは分からない。唯一華の名残をしっかりと残す物に触れたかったのかもしれない。


 しかし朔がバングルに触れると、その振動のせいか華の身体が左腕からボロリと崩れ去った。その光景を見て初めて、朔の脳裏にはっきりと華が死んだという言葉が浮かぶ。


 ――どうしてこうなった?


 炭になっているということは華も焼かれたのだろうか。自分は助かったのに、何故華は助からなかったのだろうか。


 ――どうしてこうなった?


 百の命と引き換えに――ふと頭に浮かんだその言葉は、誰が発したものだったのだろうか。百の命と引き換えに自分は助かったのなら、その命は誰のものだったのだろう。何故、華ではなく自分が助かったのだろう。


 ――どうしてこうなった?


 こんなにも悲しいのに、どうしてこの身体からは血の涙しか出ないのだろうか。どうしてこの身体は、身を切り裂くようなこの無念を声に出すことができないのだろうか。


 焼け爛れた身体で生き永らえている自分が、酷く醜く思えた。



 §


――現在


 まだ一年も経っていない過去の出来事を思い返しながら、朔はぼんやりと虚空を眺めていた。


 あれから自分の身に起こったことについて何度も考えた。しかし何度考えても、自分が生き延びて華やリョウ、笹森など他の人間が死んでいい理由は見つからなかった。


 そう、皆死んだのだ。


 どういうわけかこの身体は、ちゃんとコントロール出来ればこうして元の姿を保っていられる。その状態でならこれまでどおり動くことができる。それに気付くのに何日もかかったし、さらにコントロールできるようになるには結果として半年以上かかったが、朔は少しでも動けるようになるたびに島に生存者がいないか探し回った。


 だが、見つかったのは炭となった死体だけだった。


 朔もそうだったように皆服ごと焼け焦げて、まるで誰だか分からない。はっきりと誰だと断言できたのは、結局華しかいなかった。


 ――『百の命と引き換えに』。


 もし自分が助かったのは振礼島に住まう百の命を引き換えにしたからだとすれば、他に二十人程度同じような人間がいてもおかしくない。だがこれまで朔は噂は聞けど他の生き残りに会ったことがなかった。だからミハイルを見たときには心底驚いたのだ。本当に生き残りがいたこと、そして、彼が自分と同じだということに。


 明らかに精神を病んでしまったミハイルに、朔は同情した。この厄介な身体になって不思議な力を得たが、あまり乱用するとその代償として精神を蝕まれかねない苦痛が待っている。その苦痛から逃れるために死んでしまいたい、だが死ねばこの苦痛は永遠に続くだろう――長くこの身体と付き合ううちに気付いた事実。同じ身体を持つミハイルが気付かないはずがない。


 だがそれでも彼は死を求めた。だから朔は殺そうとした。彼を苦痛から救うために、そして自分の気を晴らすために。


 そう、自分の気を晴らすためだ。島の人間の死は、聖杯によってもたらされたと朔は確信していた。そしてその聖杯はヴォルコフの物――つまり彼の部下であるミハイルを殺すことで、少しでも復讐を果たそうとしたのだ。


「俺も大概自分勝手だな……」


 リョウとの諍いを思い出し、自嘲するように笑った。


「――そうですね、朔さんは自分勝手です」


 返ってくるはずのない言葉に、思わず朔は目を見開いた。朔が答えないでいる間にも、後ろから聞き覚えのあるエンジニアブーツの足音がコツ、コツと近付いてくる。


「お身体は、大丈夫ですか?」


 てっきり突き飛ばしたことへの罵倒が飛んでくるかと思いきや、自分の身を案じる質問に朔の口から「はっ……」と乾いた笑い声が溢れた。


「お前他に言うことないのかよ」

「ありますよ。たくさんあります。でもとりあえず安否確認が最優先です」


 背もたれにしている古い機械越しに聞こえてくる蒼の声は、少しだけ震えていた。無理もないか――彼女を突き飛ばした上に、中々衝撃的な光景を見せたと自覚していた朔は一人苦笑を浮かべる。それでも蒼がここにやって来たという事実に、朔は自分の中が少しだけザワつくのを感じた。


「もう、帰って来ないんですか?」


 躊躇いがちに蒼が尋ねた。無理矢理居候になった人間でもたった一晩帰らなかっただけでこの女は心配するらしい、と朔はどこかぼんやりと考えていた。


「どうだかな」

「はっきりしてください」

「……えらい強気だな」

「このくらい強気でいかないと、朔さんに誤魔化されそうなので」


 どの口が言ってんだか――未だ震えを含んだ蒼の声に苦笑いする。


「俺が怖いか」

「はい」

「なら安心しろ、出てくから」


 あまりにはっきり言われたせいか、朔の口からは驚く程すんなりとその言葉が出ていた。折角手に入れた拠点をあっさり手放そうとしている自分に若干驚きつつも、言った手前そうしないわけにはいかない、と朔はそのまま話を続けようとする。だが先に蒼が小さく「怖いのは――」と口を開いたので、朔は自分の言葉を飲み込んだ。


「――怖いのは、よく分からないからです」

「……ああ」

「朔さんが何か抱えているのだろうというのは、昨日の出来事でなんとなく分かりました。どうせ教えてくれないんでしょうけど、会って間もない人間に言いづらいこともあると思うので今は追求しません」

「……そうか」


 後ろから大きく深呼吸する音が聞こえる。何をそんなに躊躇っているのか、と朔は首を傾げた。つい先程の言葉が昨日のことを言っているのであれば、他のことなど大したことないだろうと思ったのだ。しかし、それも蒼が次の言葉を言うまでだった。


「ミハイルさんが亡くなりました」

「……は?」


 気付いたときには朔は機械の影から蒼の前に飛び出していた。蒼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその表情を安心したかのように綻ばせる。彼女の発言と一致しない表情に、朔の頭には疑問符が浮かんだ。もしかして本土と振礼島では“亡くなった”の使い方が違うのかと朔が自分を疑い始めた時、蒼がゆっくりと残りの言葉を紡いだ。


「その様子じゃ、やっぱり朔さんが殺したわけじゃないんですね」


 ああ、そういうことか――チクリ、と胸に小さな痛みを感じながらも蒼の言葉に納得した。しかし同時に、あまりに軽率な行動に呆れて思わず苦言を呈する。


「お前、人を殺人鬼だと思ってんならこんなとこまで来るなよ……」


 こんなところ――それは蒼と朔が初めて出会った廃工場だった。人気ひとけがないこの場所まで殺人の疑いがある人間を探しに来るなどと不用心極まりない。


「だっているとは思ってなかったんですもん。朔さんだったらこんなあっさり見つかるところに行かないんじゃないかなって」

「……悪かったな、あっさり見つかって」

「まあ、何かしら事情はあるんでしょう。それに――」


 事実、朔が廃工場にいたのは彼なりに事情があるからだった。十分な金を持ち歩いていなかった上に、昨日の一件のせいでだったのだ。その状態で不用意に出歩くことはなるべく避けたかったため、すぐに思いついた場所に身を隠していた。そんな朔の事情など知らない蒼は、彼が苦々しい顔をするのにも構わず言葉を続ける。


「――なんとなく、朔さんが殺したわけじゃないんだろうなって」


 その言葉に、朔の中で何かがすっと晴れていく感覚がした。彼が何も言えないでいると、「朔さんだったらこう、殴り殺すんじゃないかと」と蒼が茶化すように拳を構える。あまりに不格好な構えに朔が思わず笑うと、それを見た蒼もにっこりと微笑んだ。


「ってことは、殴られた感じじゃなかったと」

「はい。……ていうか、死因が何なのかよく分からないんです」

「見たわけじゃないのか?」

「見ましたよ。見ましたけど……」


 言い淀む蒼に朔が眉をひそめる。彼女にしては珍しく言葉を探すようなその様子に、朔は何故だか少しだけ嫌な予感がした。


「炭というか、灰みたいになって崩れてしまったんです。いや、それは亡くなった後? その前は全身焼け爛れていて、胸にナイフが――」

「待て」

「あ、すみません。やっぱりよく分かんないですよね……」

「奴は灰になったのか?」

「え? あ、はい。そうですけど……」


 歯切れ悪くそう答える蒼の声を遠くに聞きながら、朔の頭の中には華の最後の姿が浮かんでいた。軽く触れただけで、ボロリと崩れ去った人だった物――心のどこかで、自分と彼女らは違うのだと思っていた。炎に焼かれ、少しでも油断すると途端に全身を苦痛に蝕まれる醜い生き物――他人の命を犠牲にして生き永らえている自分と、あの日その人生の幕を閉じた島の人々は全く別なのだと思いたかった。


「――朔さん」


 しかしそれがどうだろう、蒼の話では自分達も彼らと同じ最期を辿るらしい。それはつまり、自分と彼らに何ら違いがないことを意味しているのではないか。他人の命を踏みつけにして生きている自分と、そんな自分に命を奪われた彼らが同じであっていいはずがない。


「――朔さん」


 もし自分達が同じならば、何故彼らは生きていないのか――長い時間をかけて蓋をした思いが、朔の中から溢れようとしていた。


「朔さん、帰りましょう」


 その時、蒼が朔の手を引いた。自分の奥深くに仕舞い込んだ激しい後悔と無念を覗き込もうとしていた朔だったが、その力の強さに思わず意識を現実に戻す。自分の腕をぎゅっと掴む蒼の目が、まるで何かの痛みに耐えているかのような悲痛さを訴えていた。


「いや、俺は――」


 出て行く――咄嗟にそう言おうとした朔の言葉は、蒼に一層強く腕を引かれたせいで最後まで言えなかった。

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