第三話 庵朔の郷愁

庵朔の郷愁①

――某年二月


 その夜は、空が綺麗に晴れ渡っていた。


 しかし一度ひとたび地上に視線を移せば、辺りに広がるのは荒れ果てた街並み。地割れを起こしあちらこちらで隆起している地面に、それに巻き込まれ倒壊する家屋。なぎ倒された街路樹やそこら中で水浸しになった道路が意味するのは、この美しい星空とは裏腹に、つい一時間程前までこの辺りが激しい風雨に晒されていたということ。人の気配はなく、廃墟となった街は静寂に包まれていた。


 そんな暗闇の中、微かに動く影があった。その影はゆっくりと這うようにして、もはや道路とは言えない道を只管ひらすら進む。影が通った後には赤黒い湿った染みが残されていた。


 長い長い時間をかけて、影はある家の前で止まった。四本の手足で地べたを這っていた影は、周りの瓦礫に手をついて身体を持ち上げる。二本足で立つその姿はまるで人間のようだった。この日は新月、いつもよりも弱い夜空の明かりが照らす影の姿は赤黒く、濡れたように所々光を反射し、影というよりは肉塊という表現の方が似合うような様だった。人間ならば本来顔があるであろう場所にはギョロリと目玉がむき出しになっており、鼻や口はただれて殆ど確認出来ない。辛うじてぽっかりと開いた横向きの小さな穴が、そこに口があることを示していた。


 影は瓦礫伝いによろよろと崩れた家の方へと進む。その先には、真っ黒な炭で出来た人のような姿があった。年齢も性別も分からないそれは、下半身を瓦礫に挟まれ、そこから抜け出そうとしたかのように腕を外へと伸ばしている。左腕に付けられたすすけた腕輪に影が触れると、その炭で出来た人の形をしたものはボロリと虚しく崩れ去った。


 カラン……と、物悲しげな音を立てて腕輪が瓦礫の上に落ちる。影の蒼色の瞳は小刻みに揺れながら、その様子を捉えていた。


 ――どうしてこうなった?


 すすまみれた腕輪の上に、ぽたりと一つ、雫が落ちる。


 ――どうしてこうなった?


 ぽたり、ぽたり……ゆっくりと続けざまに落ちてくるそれは、赤い色をしていた。


 ――どうしてこうなった?


 影はその場に崩れ落ち、天を仰いだ。大きく開いた口は慟哭の声をあげていたのかもしれない。しかし辺りに響くのは、空気を吐く掠れた音だけだった。



 §


――八時間前


「おはよー」


 いおりさくが自室からダイニングにやってくると、バスローブに身を包んだ女性がふわりと笑いかけた。


 年齢を感じさせない童顔に、バスローブの上からでも分かる豊満な体つき。しかし身長は低く、背の高い朔と並ぶと遠目からは子供のようにも見える。彼女の名前は庵はな。朔の実の母親である。


 朔は寝ぼけ眼で華を一瞥すると、「まだいたのか」と大きな欠伸を漏らしてダイニングチェアに座わった。


「この時間はいつもいますー。アンタが家にいないだけでしょ」


 そう口を尖らす華の姿は、皺一つない顔も相俟って小さい子供のように見える。彼女のその容姿と性格のせいか、朔はあまり華のことを母親と思えなかった。勿論、血の繋がった親子という認識はある。しかし知人の母親と比べると、朔にとっての華とは母親というよりも年の離れた姉というイメージの方が強かった。外見だけで言うと、数年前から朔と同年代に見えるようになっていたのだが。


「……まだ付けてんのかよ、それ」


 身支度も途中だというのに華の左腕に付けられたバングルを見て、朔は眉を顰めた。煙草に火を付けながら華の方を見やると、彼女はそれを右手で撫で付け嬉しそうに笑っている。可憐という言葉が似合う華には不釣り合いな、男物の無骨なデザインのバングルは、何年もつけているのかステンレス製であるにも関わらず少しくすんで見えた。


「だって朔からのプレゼントだもん」

「いつの話だよ。もう十年くらい経つだろ」

「なあに、新しいのくれるの?」

「馬鹿言え」


 朔は苦々しい表情を浮かべて紫煙を燻らた。それは朔が人生で唯一母親に贈ったもの。十年前、彼がまだ十四歳の頃に華と大喧嘩した際、周りに唆されてプレゼントしたものだった。アクセサリー類を付けることを嫌う華だったが、以来このバングルだけは大事そうに毎日付けている。


「でもほんっとプレゼントのセンスないよね。明らかに私に似合わないでしょ」

「なら返せ」

「嫌ですー! 皆にこれ見せながら『うちの子センス悪いでしょ』って自慢してるんですー!」

「自慢じゃねぇだろ」


 頭をボリボリと掻きながら、朔は溜息を吐いた。母と言うには外見も性格も幼すぎる目の前の女性は、迷惑なことに朔にとっては不名誉なその自慢をここ十年ずっとし続けていることを知っていたからだ。所謂いわゆる娼婦と呼ばれる職に就く華の顔は広く、振礼島ふれとうに住む日本人の殆どがその話を知っていた。


 初めこそ華に怒りを覚えた朔だったが、毎日毎日大事そうにバングルを磨く姿を見ていたらいつの間にか毒気を抜かれてしまい、気付いた時には完全に諦めるようになっていた。


「ふふ、墓まで持ってくんだ。だからちゃんと棺桶には入れてね? あ、笹森ささもりさんに頼んどいた方がいいか」

「なんで隣の爺なんだよ」

「だってアンタの方が早死しそうじゃん」


 息子に言う台詞か――そう思ったが、否定ができず口端を引き攣らせるに留まった。今まで何度か死にかけたことがあるのを、忘れたわけではなかったからだ。


 振礼島は非常に閉鎖的な島だ。人口も少なく、仕事も限られる。振礼島に生まれた子供は、家業として何かしらの商いをする家庭に生まれればいずれそれを引き継ぎ、そうでない子供は大抵華のように身体を売る仕事をするか、振礼島を拠点とした物流の仕事に関わることになる。


 家業を持たない華の息子である朔は後者だった。振礼島は地理的に日本とロシアの領土の間にあり、昔から境界が曖昧な地域だ。通常国家間の物の出入りは厳しく税関に管理されるが、振礼島はその曖昧さ故、ここを通過した貨物はどちらの国でもとして扱われ、途端にチェックが甘くなる。本来であればそんなことは不可能なのだろうが、振礼島はそれが許されている地域だ。さらに外界から閉ざされた環境というのも情報が漏れにくく、曖昧さを保ち続けるには好都合だった。


 つまり“振礼島を拠点とした物流の仕事”というのは、自然と非合法のものが多くなる。朔の仕事は品物の管理とトラブル対応で、それは時に暴力での解決を求められることもあるものだった。今でこそ怪我は減ったが、仕事をし始めた十代前半の頃はボロボロになって帰宅することが頻繁にあったのだ。その度に華は悲鳴を上げ、卒倒し、朔の傷を見ては子供のように泣きじゃくった。


 その姿を思い出すと、息子の方が早く死ぬとのたまう実母に対して何も言い返せないのは仕方のないことだろう。顔に傷を作ると泣きながらも「折角綺麗に生んだのにぃ!」と憤慨する母だとしても、心の底から朔のことを心配しているのは誰の目から見ても明らかだった。


「――そういえば、今日なんでこんな時間にいるの?」


 朔がぼんやりと煙草を吸っていると、いつの間にか化粧と着替えを済ませていたらしい華がそう問いかけた。タイトなワンピースにカーディガンを羽織り、朔の前の椅子に腰掛ける。コートを着ていないということは、まだ家を出るまで時間があるのだろうと頭の片隅で考えながら、朔は今日の予定を思い返した。現在午後六時前、いつもであればこの時間に朔は家にいない。細かい時間は決まっていないが、昼過ぎには出掛けて夜中に帰ってくるのだ。


「なんか夜に大事な荷物が届くんだとよ」


 時折、こういうことがある。朔の仕事ぶりは評価されているらしく、より厳重なを求められる貨物を扱う場合、特別にその日は他の仕事をせずその貨物のみを担当することになるのだ。


「ふうん、結構置いとくの?」

「朝には出すらしい」

「お、よかったじゃん」


 貨物によっては数日振礼島に保管することがある。今回のような仕事でそのパターンに当たってしまった場合、何日も帰れなくなることもあるのだ。


「そろそろ行こうかな」

「おう、さっさと行け」

「冷たーい」


 不満そうな顔でカーディガンから厚手のコートに着替えると、華は玄関のドアに向かって行った。


「お仕事気をつけてね。遅刻しちゃダメだよ!」

「るっせぇな、さっさと行けクソババア」

「可愛くないなぁ。でも愛してるよー!」


 たまに家で居合わせるといつもこうだ――母親の過剰気味なコミュニケーションに辟易しながら溜息を吐くと、朔は「はいはい、分かったよ」と面倒臭そうに答えた。そんな朔の返事に何がそんなに嬉しいのか、華は満足そうに笑って家を出ていく。


 パタン……――ドアの閉まる小さな音が、一人になった部屋に響き渡った。

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