イヴァンの息子⑤

「うぇっ……ん、うぅ……」


 公園の女子トイレから響く、苦しげな呻き声。声の主である蒼は鏡を前に洗面台に両手をつき、必死に込み上げてくる吐き気と戦っていた。吐き気が治まりかけるたびに頭にチラつく先程の光景。無意識にそれを追いかけようとすると、再び胃から熱が逆流する。それでも蒼は先程起こったことを整理しようとしていた。


 怪我などしていなかったはずの朔の顔に、突如現れたグロテスクな傷。思い出しただけでも吐き気を誘うその有様は、とてもじゃないがこの世のものとは思えない程酷かった。それだけでも何が起こっているのか蒼には理解出来なかったのに、その傷はものの数秒で綺麗さっぱり朔の顔から消えてしまったのだ。朔が人智を超えた能力を有していると知らなければ、特殊メイクか何かかと思っただろう。


 その上、朔が見せた不可解な行動。顔の傷が出てくる以前から、蒼は朔の行動に違和感を感じていた。それはミハイルに会う前の雰囲気の変化から始まり、実際に彼に会ってからの朔は妙に攻撃的だった。


 ――まるで何か恨みがあるような……。


 殺してくれと言っている人間がいたら、普通は考えを改めるように説得するだろう。それを朔は、説得するどころか積極的に殺そうとしているように見えた。朔がどういう人生を送ってきたかは知らないが、彼の行動は蒼にとって全く理解できないものだった。


 何故そのような行動をしたのか、問いただそうにも今この場に朔はいない。ミハイルの小屋で呆然と朔を見送った蒼は、なんとかミハイルの無事を確認すると緊張が解けたのか、急に吐き気に襲われこうして近くのトイレに駆け込んでしまったのだ。朔はこのことを知らないし、そもそも自分から戻ってくるとは思えなかった。


「ふう……とりあえず、聞いてみるか」


 蒼は吐き気が治まると、ポケットに入れていたボイスレコーダーを取り出した。とは言っても朔が何と言っていたかは蒼には分からない。唯一の心当たりである人物を思い浮かべ、蒼は姿勢を正して新宿へと向かうことにした。



 §


 先日来たばかりのロシア料理店の前に佇み、蒼は本当にこれでいいのかと自問を繰り返す。ロシア語が分かる人間の心当たりなどこの店の者達以外になかった蒼は迷わずここにやって来たが、振礼島の生き残りと関わることを避けている彼らにこんな頼み事をしてもいいのかという疑問が湧いたのだ。


 当たり前だが、蒼は振礼島の生き残りではない。だからアネクドートの者達が蒼と関わる事自体は何の問題もないだろう。だが、蒼が今彼らに翻訳を頼もうとしているのは、彼らが避ける振礼島の生き残り達の会話だ。直接顔を合わせるわけではないが、店長は蒼に振礼島の話をする際、詳しく話すことも生き残りと関わることになるかもしれないと断ったほどだ。ならば彼らの音声を聞くこともまた、関わることのうちに入ってしまうのではないか。


 ――でも、隠したくはない……。


 誰の会話かは伝えずに翻訳のみ頼むという手段もあったが、蒼にはどうしてもそれをする気にはなれなかった。単純に蒼には分からなかったロシア語での会話の中にそれと分かるものが含まれている可能性もあったが、それ以上に彼女にそう思わせたのは、ミハイルの話をしていた時の店長の顔が浮かんだからだ。


 どうするべきか――蒼が答えを出せないでいると、不意に目の前の扉が開かれた。


Приветプリヴィエットдевушкаヂェーヴシカ。そんなところにいつまでも立っていないで、中に入ってもらえると嬉しいんだが」

「あ……店長さん……」


 いつまでも店の前に立ち尽くす蒼はどこからか丸見えだったのか、店長が困ったような笑みを浮かべながら彼女を店内へ招き入れようとした。確かに店の前でずっと立ち止まられるのは迷惑だろう。そうとは分かっていても蒼はその場から動くことができず、眉を寄せながら何か言いたげに彼の方を見つめていた。


「あの、実は……」

「こんなところで立ち話もなんだろう、中に入りなさい」


 言いよどむ蒼の表情から何かを察したのか、店長は優しく、しかし有無を言わさぬ口調で再び彼女を中へと促す。蒼はそれに逆らうことができず、おずおずと店内へと足を踏み入れた。


 前を歩く店長の後を着いていくと、先日のオープンスペースにある席ではなく個室へと案内された。スタッフ用の部屋というわけではなく、他よりも少しばかり豪華な造りの部屋は蒼の目には所謂いわゆるVIPルームのように映った。六人掛けテーブルの奥の席に座るよう促され、もしかしたら会話が外に聞こえないように配慮してくれているのかもしれない、と蒼は思った。


「紅茶でいいかい?」

「あ、でも、今日は……」

「気にすることはない。私が勝手にもてなすだけだ」


 もてなしてもらえるような立場じゃないのに――店長の行動に対し蒼の胸には申し訳無さが込み上げた。彼はおそらく蒼がミハイルの情報を持ってきたのだと思っているのだろう。それは正しかったが、胸を張って言えるような内容ではない、と蒼は思わず視線を落とした。


 訪れる沈黙に、対面からは店長の穏やかな息遣いが聞こえてくるようだった。自分が目を合わせようとしていないのをどう思っているのだろう――蒼は不安に駆られたが、だからと言って視線を上げることができない。暫くして紅茶が運ばれてくると、店長はおもむろに口を開いた。


「その様子だと、何か分かったようだね」

「……はい」

「心配することはない。君にМишаミーシャの話をした時点で、ある程度の覚悟は出来ている」


 覚悟とはどういうことだろうか――自分が彼を巻き込むことを肯定してくれているとも取れる言葉に、蒼は思わず唇を噛み締めた。自分にとって都合のいい解釈をしてどうする――そう己を律し、自分こそ他人を巻き込む覚悟を決めるべきだと上着のポケットの上から中身を握りしめた。手の平に収まる程度のそれが、とても大きなもののように感じる。

 蒼はようやく視線を上げると、ポケットの中からボイスレコーダーを取り出し、店長に差し出すようにしてテーブルの上に置いた。


「これは?」

「ミハイルさんと思われる方と、別の……振礼島の生き残りの方との、会話です」

「……まさかこの短期間で二人も見つけるなんてね。君は優秀なようだ」

「私一人の力では……。今日ここに伺ったのは、彼らの会話の内容を教えていただきたいからです。でも、これも振礼島と関わることになるというのなら――」

「構わない。言っただろう? 覚悟はしていたと」


 予想外の言葉に蒼が何も言えずにいると、店長が再生するよう促した。彼の視線はテーブルの上の小さな機械に注がれており、その感情は読めない。蒼は言われるがままスイッチを押し、二人で流れてくる内容に耳を傾けた。


 流れてくる音声は、朔の仰々しい挨拶に始まり、ミハイルの殺してくれという呟き、それから蒼には全く内容が分からなかった朔の質問と、先程起こった出来事を蒼の脳裏に鮮明に再生していく。途中の朔の怒鳴り声に蒼は身体に震えを覚えたが、自分の腕をぎゅっと掴み冷静でいるよう努めた。朔は今どうしているだろうか――そんな思いが頭の中を掠めたが、ボイスレコーダーから聞こえてきた自分が慌てて走る音が蒼の意識を現実に戻した。これ以上聞いても自分がトイレで苦しむ音が聞こえるだけだ、と急いでスイッチを切る。


 蒼が店長の様子を窺うと、彼は目を閉じて苦しそうな表情をしていた。


「店長さん……?」

「ああ、悪いね。少し、考え事をしていて……」


 珍しく歯切れの悪い店長の様子に、やはり聞かせるべきではなかったか、と蒼は少し後悔した。生き残りに関わるということもそうだが、録音された音声から分かるのは、自分の知り合いが殺してくれと言いながら暴行される様子だ。聞いていて気分の良いものではないだろう、と蒼は目を伏せた。


Мишаミーシャは、どうしてしまったんだろうね」

「やっぱり、ミハイルさんで間違いなさそうですか?」

「ああ、間違いなく彼の声だ。あんなに弱々しいのは初めて聞いたが」


 そう言って悲しげな表情を浮かべた初老の男性の方こそ蒼には弱々しく思えた。あまりに悲痛さを感じるその様子に、蒼は自分の目頭が熱くなるのを感じた。


「もう一人の男は、会話を聞く限り君の知り合いかな?」

「はい。協力してもらっているというか、協力させられているというか……」


 思わず蒼が苦々しい表情を浮かべると、店長は困ったように「複雑な関係のようだ」と呟いた。


「それで、彼らの会話の内容なんですが」

「ああ。そうだな……君の知り合い、サクと言うのかな? 彼はどうやらСвятойスビトイ Граальグラーリ――日本語だと聖杯と言ったか、それを探しているようだ」

「聖杯?」

「ああ、確かにそう言っていた。彼はМишаミーシャがその聖杯の行方を知っていると思っているらしい」

「どうして……」

「そこまでは言っていなかった。だが彼が去った後、Мишаミーシャが気になることを言っていてね」

「気になること?」


 気付かなかった――と蒼は当時の様子を思い返した。てっきりミハイルはずっと同じことばかりを繰り返していると思っていたが、どうやら蒼が朔に押し倒されて呆然としている間に、他の言葉も発していたようだ。店長に「もう一回聞かせてくれるかな?」と言われ、蒼は朔が立ち去ったあたりから再生する。注意深く聞くと、確かにミハイルは蒼が聞き慣れた単語以外の言葉を発しているようだ。それを店長は頷きながら聞き、再生が終わると蒼に向き直った。


「『Леонидレオニードに殺される。Леонидレオニードがあれを持っていった。私を殺してくれ』。……小さすぎて聞き取れないところもあったが、大体こんなところだ」

「……一体、どういうことでしょうか。レオニードという人に心当たりは?」

「名前だけなら何人か知っているが、その中にいるかは分からないな」

「……私、ミハイルさんに聞きに行ってみます。ロシア語で質問内容を紙に書いていただけませんか?」


 そう言いながら蒼はバッグからメモ帳を取り出し店長に渡した。しかし彼は受け取ることなく、静かにテーブルへと視線を落としている。深く思案するような様子に、蒼はやはりこれ以上関わるのは無理だろうかと肩を落とした。


「やっぱり駄目ですか……?」

「いや、私も行こう」

「えぇ!?」


 予想外の言葉に蒼は思わず声を上げたが、目の前の男性は表情を変えることなく彼女を見据えている。その迫力に彼は本気だと悟ると、蒼は静かに頷き、二人は店を後にした。

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