第二話 イヴァンの息子

イヴァンの息子①

「おい小鳥遊たかなし、お前あの態度で今日遅刻ってどういう――」


 つもりだ――そう続けようとした菊池きくちは思わず言葉を切った。自分の方を振り返ったあおの顔色が彼の度肝を抜くほど真っ青だったからだ。


「一応聞くが、二日酔いではないよな……?」

「重度の貧血と全治二週間の打撲です」

「……お前何やったんだよ」


 はあ、と溜息をつきながら菊池は自分の頭をかいた。先週北海道旅行という名目の振礼島ふれとう調査に向かった部下が、どういうわけか満身創痍で帰ってきたのだ。振礼島に行かなければそこまで危険はないと思い強く止めなかったが、予想を裏切る結果を持ってきた旧友の娘の姿に、菊池の脳裏を苦い記憶が蘇る。だがそれも、蒼が「ちょっと二階から落ちまして」と答えたことで呆れに変わった。


「二階って、自分ちのか?」

「……そうですね」


 菊池の問いに、ややあってから蒼は答えた。実際は別の場所で落ちたのだが、その詳細を説明するとなると頭を打ったのではないかと病院送りにされる可能性があったため、菊池の勘違いに乗っかることにしたのだ。出社前に立ち寄った病院でも同じ言い訳をしていたので丁度いいと思ったこともある。


 だが同時に、菊池には気を付けなければならない、と蒼は思った。菊池と蒼の父、染谷そめや修平しゅうへいは旧知の仲だ。蒼も両親の離婚前、父親と住んでいた頃はよく自宅に来る菊池を目にしていた。それは蒼の現在の住まいである父親から相続した一軒家で、菊池はその住所も間取りも知っているのだ。あまり怪我の詳細を話すと、勘の良い菊池は自宅での怪我ではないと気付いてしまうかもしれない。


 さらに今、蒼の自宅には厄介な男が住み着いていた。いおりさく――自らを振礼島の生き残りと自称するこの男は、名前から出身地まで本物だと蒼に証明する手段は持っていなかったが、少なくとも人間の常識を逸した存在であることは疑う余地がなかった。



 §


「――お前どっから入ってきたんだよ?」


 放置された機械の影で血まみれの服を着替える蒼に、朔は面倒臭そうに尋ねた。


「どこって窓ですよ。あっちの部屋の窓が丁度空いていたんで、そこから失礼しました」


 蒼はそう答えると、昨日着ていた服に袖を通した。いくら自分が着ていたものとはいえ洗濯していない服をまた着るのには抵抗があったが、今の状況ではむしろ感謝すべきだと思いながら着替えを進める。旅行用に普段よりも沢山の荷物が入った大きなバッグには、着替えの他にも汗拭きシートが入っていたので身体についた血も落とすことができた。再起不能となったシャツには未練があったが、他よりも値段の高いジャケットが無傷だっただけ良しとしよう、と自分を慰める。さらに飲みかけだがペットボトルの緑茶も入っていたので、血の抜けてしまった身体に少しながら水分を補うこともできた。


「じゃあ、俺外で待ってるわ」

「え、ちょっと待ってください! むしろ朔さんはどこから入ってきたんですか!?」


 蒼のその言葉は一人にするなという意味で発せられたのではなく、朔が入ってきた場所の方が楽に通れるのではないかと思ったからだ。確かに来た道で帰れるが、血の足りていない今の蒼では身体を持ち上げる必要のある窓は体力的に厳しいかもしれない。そのため朔がどこかしらの扉から入ってきたのであれば、是非そこから帰りたいと思ったのだ。


「どこでもいいだろ」

「よくないです! 私怪我人、いや病人ですよ? ちょっと窓から帰るとか厳しいです」

「そりゃ大変だな」

「だから! 朔さんはどこから入ってきたんですか? 楽な出口なら私もそこがいいんですけど」

「俺しか通れねぇから無理だな」


 要領を得ない朔の答えに苛立ちを感じながらも、蒼は「とりあえずそこで待っててください!」と声をかけ大急ぎで着替えを終わらせた。今までの朔とのやり取りから待っていないかもしれないと思いつつ機械の影を出た蒼だったが、意外なことに彼はだるそうにしながらも着替え前と同じ場所に立っていた。


 ――こうして見るとモデルみたいだな。


 朔の服装は黒いTシャツにジーンズというシンプルなものだったが、蒼の目にはファッション雑誌のワンショットのようにも映った。先程見た朔の顔立ちといい、その長い手足といい、蒼の脳裏にある言葉が過ぎる。


「ひょっとして朔さんってハーフですか?」


 脈略のない蒼の質問に朔は一瞬片眉を上げたが、「ああ」とだけ言うと自分の顎をクイッと動かして、出口に向かうよう促した。


「お前、今度片付けとけよ」

「……やっぱそのままじゃ駄目ですかね?」

「事情聞かれたいんならそれでもいいんじゃねぇの?」


 朔の言葉に蒼は「うぅ……」と声を漏らした。――自分の血溜まりを見ながら、やはり掃除が必要かと肩を落とす。警察に見つからなければそのままでもいいのだろうが、もし見つかってしまった場合おそらくDNA検査が行われるだろう。前歴のない蒼に辿り着くことはないかもしれないが、何かの拍子にバレてしまった場合、少なくとも不法侵入の罪に問われる可能性がある。


「拭けば大丈夫ですかね?」

「漂白剤くらい撒いとけよ」


 なんですんなりそんな対処法が出てくるんだ――蒼は目の前の男を見上げてその素性を怪しんだが、そもそも彼は振礼島という怪しさ満載の島出身を自称していることを思い出して考えるのを止めた。まだ朔が何者か詳細を聞けていないが、どことなく犯罪行為には関わっていそうな気がしたのだ。


「ところで、どちらの国のハーフなんですか?」


 蒼は話題を変えるために朔の素性調査を兼ねた質問をした。人によっては嫌な顔をする可能性のある質問だったが、先程の彼の反応を見て聞いても良さそうだと判断したのだ。朔は蒼を一瞥すると、窓のある部屋に歩き出しながら興味なさそうに答えた。


「親父がロシア人」

「ああ、だからロシア語ペラペラなんですね」

「んなわけあるか。顔も見たことねぇのに」


 朔の答えに蒼はドキリとすると、その表情を窺おうと横目で彼を見上げた。父親のことを聞くのはまずかったかと心配したのだ。だが朔は蒼の心配をよそに、「ロシア語なんて聞いたことがあるやつくらいしか分からねぇよ」と今までと全く変わらない様子で言葉を続ける。それを見て蒼は胸を撫で下ろすと、丁度着いた自分が使った入り口の前に立って「これ超えるとかしんどいんですけど」と朔に話しかけた。


「なんだよ、ガキだな。抱っこして欲しいのか?」

「んなっ!?」


 ニヤリと意地悪く口端を上げた朔に、蒼は思わず奇声を発した。確かに長身で体格の良い朔からすれば、自称身長一六〇センチで華奢な体つきの蒼を持ち上げることは十分に可能だろう。しかし大人の女性への態度としては如何なものか、と蒼は屈辱に顔を歪ませた。しかも自分の意図を全く汲み取らない発言に、蒼は苛立ちを感じながら少し前にしたものと同じ質問を繰り返した。


「朔さんは、どこから入ってきたんですか?」


 朔は肩をすくめると、「知ってもしょうがない」と呟いた。それでも蒼が視線で問いかけ続けると、観念したかのように一つ溜息をついて、「うるせぇから叫ぶなよ?」と窓枠の横の壁に手をついた。


「……まじか」


 そう小さく言ったのは、蒼だ。壁に置かれた朔の手は、そのままトプッと音を立てるように壁の中へと吸い込まれていったのだ。手首まで入ったところで引き抜くと、朔は「ほらな、無理だろ?」と蒼に向き直った。


「なっ……なっ……」

「今更だろ。さっきお前の腹に手ぇ突っ込んだじゃねぇか」

「それは、そう、ですけど……」


 冷静な状態で再び見た常識外れの出来事に、蒼は気が遠くなるのを感じた。



 §


 つい昨日の出来事を思い返しながら、蒼は今更ながらとんでもないものに関わってしまったのかもしれない、と少しだけ後悔していた。命を救ってもらったという恩はあるが、朔にはまるで自分の常識が通用しない。振礼島だけでも大変そうだと言うのに、そこに彼という存在が加わるとなると自分のような若輩に捌き切れるのかという不安がこみ上げたのだ。


ほうけてるとこ悪いが、仕事は溜まってんだよ」


 バサッ、とずっと手に持っていた書類を蒼のデスクに放り投げると、菊池は「家でやってもいいけどな」ときまり悪そうに付け加えた。


「……そうします」


 口は悪いが一応心配してくれているらしい上司の言葉に、蒼は内心感謝した。先週北海道へ行く前に月曜は来ると啖呵を切った手前、休むに休めなかったのだ。


「まあ、あれだ。明日休みたいなら休んでいいぞ。お前有給溜まってるしな」


 それだけ言うと、菊池はそそくさと自席に戻っていった。

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