小鳥遊蒼の災難⑤

――現在


「うあッ……や、やめて……!」


 朔はバールに手をかけると前後左右にグリグリと動かし始めた。先端が脆くなったコンクリートの床に刺さっているのか、バールを持つ彼の手にはガリガリとした固い感覚が伝わってきていた。なんとまぁ運のぇ女だ――朔は蒼の状況に思わず笑みを溢しながら、なるべく動かしすぎないよう少しずつバールを床から引き抜こうと試みる。一方で蒼は目の前の男の意図がわからず、彼女の胸にはまるで拷問のように痛めつけられるのではないかという恐怖が押し寄せてきていた。痛みに耐える蒼にできるのは、制止の言葉を絞り出すことくらいだった。


「助かりたいんじゃないのか?」

「たす、ける……?」


 殺すの間違いではないだろうか、と蒼は訝しげな表情を浮かべた。彼女からしたら、少なくとも朔が今行っている行為は助けるという目的とはかけ離れている。耳に届くクツクツという笑い声も、目の前の男が気の狂ったサディストだと思わせるのに十分だった。そんな相手の様子と助けるという発言は全く一致せず、蒼はただただ朔を見つめることしかできなかった。


「助けてやってもいいけど条件がある」

「条件……?」

「俺に協力しろ」

「何、を……?」


 蒼は探るような眼差しで、未だに逆光で顔の見えない朔を見つめた。助かりたいが、すぐに返事をすることはできない。朔の正体は不明な上、何に協力すればいいのかも分からないのだ。さらに彼は楽しげに蒼を痛めつけており、現在進行形で人間としての信用度を急降下させている。そんな相手に例え命と引き換えでも協力するなどと、さながら悪魔に魂を売るようなものだと蒼は思った。


「協力すんなら助けてやるよ。じゃなきゃ放置する」

「ぐっ……やめ……やめてっ……」


 朔は再びバールをいじりながら蒼に答えを促した。実は既に床から引き抜くという目標は達成しており、後は動かないようにバールを支えてやるだけでよかったのだが、彼女の探るような瞳にこれは相当追い込まれないと首を縦に振らないタイプだと判断し、追い込むための行為として実行しているのだ。何に協力すればいいのかという蒼の問いに答えればまた違ったのだろうが、朔は事前に内容を知らせてやる気はさらさらなかった。彼女の性格は知らないが言ったところで信じない可能性があったし、下手をすれば折角見つけた協力者道具が逃げ出してしまう可能性もあったからだ。


「協力すんの? 死ぬの?」


 朔の問いに、蒼は唇をキュッと噛み締めた。ここで彼に協力すると答えなければ、どう考えても自分は死ぬしかないのだ。こんな相手にこんな状況で出遭ってしまうだなんて――蒼はこの状況に陥る原因を作った自分の浅慮さを呪いながら、自分に唯一許された言葉を紡いだ。


「死に、たくない、です」

Хорошоハラショー


 言うが早いか、朔は蒼の脇にしゃがみこんで思い切りバールを引き抜いた。突然の衝撃に蒼が悲鳴を上げようと口を開くと、その喉から叫び声が発せられるよりも早く、朔は自分の手を彼女の腹にズプッと音を立てて


「うわあああああッ!」

「うるせ」

「ふぐっ……! んー! んーッ!」


 あまりの痛みと不快感につんざくような悲鳴を上げる蒼の口を、朔は空いている方の手で塞いだ。それでも蒼の悲鳴は収まることはなく、朔の手の隙間から呻くような声が漏れ出てくる。


 自身の内臓をまさしくまさぐる感覚に、蒼の全身には鳥肌が立ち、身体中から汗が吹き出した。それでもお構い無しに朔の手は蒼の腹の中で動き続ける。酸欠のせいか蒼の意識が遠のきそうになった時、ぬるっとした感覚と共に朔の手が彼女の腹から引き抜かれた。蒼はなくなった不快感に安堵しながら、朦朧とした意識の中で力なく虚空を見つめていた。だが次第に頭の中がクリアになってくると、自分の腹部から痛みも消えていることに気が付き、慌ててバールが刺さっていた場所に手を当てた。


「え……あれ? 傷は……?」


 朔は蒼から引き抜いた血まみれの手を舐めながら、ペタペタと自分の腹を触って混乱のあまり百面相をする彼女の様子をおかしそうに眺めている。


「助けてやるっつったろ?」

「でも……え? なんで、どうやって……」


 自分の置かれた状況に理解の追いつかない蒼はそのまま暫く落ち着かない様子だったが、不意に目を閉じたかと思うと大きく深呼吸を繰り返した。これは蒼が目の前の物事が理解できない時にする癖で、こうすると勉強でも人の話でも、一旦そういうものとして受け入れることができる。いつまでも分からない事に拘ってその場に取り残されるより、一回全体を知った上で考えた方が結果的に理解しやすいと思っている蒼が身につけた技だった。


 ――なんだかよく分からないけど、傷は治った。助けてもらえた。一番の危機は脱したんだ。


 そう自分に言い聞かせ蒼はゆっくりと目を開けた。そんな彼女の様子をつまらなさそうに朔は見下ろしている。その態度に蒼は思わずキッと朔を睨んだ。


「なんだよ、助けてやったのに文句でもあるのか?」

「……そういうわけじゃないです。ていうか普通助けるって救急車呼びません?」

「携帯持ってないのにどうやって呼ぶんだよ」

「私のが二階に……」

「めんどい」

「『めんどい』って救急車呼ぶだけですよ? こんな訳のわからない方法より面倒くさいわけ……うっ……」


 反論しながら起き上がろうとした蒼は、突然襲ってきた目眩に再び倒れ込んだ。貧血のような感覚に顔をしかめ手を額に伸ばそうとすると、背中にズキッとした激痛が走る。どうやら朔が治したのは腹の傷だけで、地面に打ち付けた背中の怪我はそのままだったらしい。折角なら全部治してくれればいいのに――そう思いながらも視界の端に捉えた光景に、その気持ちを口にする事はできなかった。


「あー、傷は治したけど血は抜けっぱなしだから鉄分取るか輸血しとけよ」

「……早く言ってください」


 一旦受け入れたとはいえ自分の身に起こったことは夢かもしれないと思っていた蒼だったが、倒れ込んだことにより改めて目にした血だらけのバールと血溜まりに、これが現実であると信じざるを得なかった。一歩間違えば死んでいたという恐怖が背中を撫でつけ、ブルッと身体を震わせる。どんな方法であれ助けてもらったことには変わりない、と改めて自分に言い聞かせた。


 恐怖から気を紛らわすため何か言わなければと考えを巡らせた蒼だったが、出会ったばかりで話題など思い付かず、結局「大体、こんな治し方するなら先に言ってください」とささやかな苦情を口にした。


「言っても信じないだろ?」

「そうかもしれませんが、心の準備というものが……」

「別にいいじゃねえか、気持ちよかったろ?」

「どこが! むしろ逆ですよ、人生最悪の感覚です」

「そのうち良くなるんだよ」

「そんな何回も腹に穴開けろってことですか!?」


 大声で叫びながら、蒼は自分の状況に唖然とした。先程まで恐怖を感じていた相手と何をこんなに気軽に話しているのか。奇想天外な方法で傷を治されたことにそれまでのやり取りが頭から消えてしまっていたのは認めざるを得ないが、相手は治せるとはいえ自分を痛めつけ、謎の交換条件を提示してきた男なのだ。


 蒼は気怠さと背中の痛みを堪えてなんとか身体を起こすと、それまでの自分の態度を反省し目の前に座る朔の顔を見つめた。位置が変わったことで見えるようになった朔の顔は蒼の予想に反してとても整った造りをしており、テレビで見かけるハーフタレントのような顔立ちをしていた。


「助けていただいたことは感謝しています。ですがまだ協力する内容を聞いていません。それに、あなたは一体……」

「お前、振礼島のこと知りたいんだろ?」

「なんでそれを……」


 驚きの表情を浮かべる蒼に、朔は楽しそうにクツクツと笑い声を漏らす。


「それ知らなきゃこんなとこ来ないだろ、どう考えても。お前馬鹿なの?」

「は!?」


 バカにされたことで思わず声を上げてしまった蒼だったが、その直前の言葉に自分の行動がいつからか筒抜けだったということに気が付いた。


 ――でも、一体いつから?


 アネクドートの人間が伝えたのか、それとも網走で取材していたせいか。蒼が深い思考に入ってしまったことに気が付いたのか、朔は「おい」と彼女を小突いた。


「振礼島のこと教えてやるよ。じゃなきゃ俺の協力なんて出来ないからな」

「……振礼島のこと、詳しいんですか?」

「そりゃあな。何せ故郷だ」

「え……!?」


 ならこの男は生き残りということか――関わってはいけないはずの人間に、確認を取った上で関わってしまっていた事実に蒼は呆然とした。


「お前が協力すんのは俺のための情報収集。それと風呂と飯と、あと寝るとこ」

「……ん? 後半なんかおかしくないですか?」

「おかしくねえよ。島のこと調べてんなら分かるだろ? 俺難民みたいなもんなの。世話しろ」

「はぁ!?」


 思いがけない言葉に叫ぶ蒼を放置して、朔はあっという間にどこかへと姿を消した。蒼はそれを気にすることも、その場で動くことも出来ず、頭の中では朔からの要求が駆け巡っていた。


 ――振礼島の生き残りと関わってしまったことは、もうどうしようもないので受け入れることにしよう。振礼島のことを教えてくれるなら万々歳じゃないか。


 問題は朔の得体が知れないことと、残りの要求だ。助けてもらったとは言え彼が何者なのかという問題は非常に重要である。何せ朔は先程、有り得ない方法で蒼の傷を癒やしたのだ。


 だがそれ以上に今、蒼にとっては朔のもう一つの要求に関する問題の方が重要だった。風呂と食事と寝床――つまり衣食住を提供しろとのことだと思われるが、自分の生活で精一杯の蒼には金銭的に朔専用の住まいを用意してやる余裕などない。となると自宅を提供するしかないのだが、それをしてしまうと今度は自分の行き場がなくなる。どちらにせよ実質的に二世帯分の生活費を賄うことは今の蒼には不可能だった。蒼としては断りたい気分でいっぱいだったが、超自然現象的な技を操る得体の知れない存在の機嫌を損ねたらどうなるか全く予想がつかない。最悪、傷を元に戻される可能性だってあるかもしれない。


 蒼が現状に頭を悩ませていると、天井の穴から朔が降りてきた。ただし、蒼を跨ぐようにして、である。蒼は落ちた場所から動いていないので、同じ穴から降りたら同じ場所に着地するのは当然のことだ。頭の片隅ではそんなことは分かっていたが、消えたと思ったら突然目の前に降ってきた朔に、蒼は驚く余裕もなく固まって只々彼の顔を見つめていた。


Не спиスピーдевочкаヂェーヴァチカ

「え……って近!」


 どこか聞き覚えのある台詞に意識を戻すと、朔が至近距離で手を振っていた。朔は蒼が自分の方に意識を向けたのを確認すると、彼女の横に移動しながら手に持っていたバッグを地面に下ろした。


「それ、取ってきてくれたんですか?」

「また落ちられても治すの面倒だしな」

「うっ……」


 存外朔はいい人間なのかもしれない。彼の行動に認識を改めると、蒼はもしかしたら断れるかもという期待を持って朔に衣食住問題について話すことにした。


「あの、風呂と食事と寝床の件なんですが……」

「あ?」

「私の収入では朔さん用に別の住まいを用意するのは難しくてですね」

「お前んちでいいじゃん」

「え!?」


 さも当然とばかりに朔は言い放つと、「じゃなきゃお前の荷物取ってこないだろ」と呆れたように蒼を見た。


 ――つまり最初から人の家に転がり込む気だったと……? 普通別の住まいを要求するものでは……?


「安心しろよ、お前好みじゃないから何もしないって」

「は!?」

「まさか断ろうとか思ってないよな? 俺はお前の命の恩人だぞ。命の恩は命で返せって言うよな」


 ニヤリと笑う朔を前に、蒼は口をパクパクとさせ固まることしかできなかった。


 悪魔に魂を売るようなものだ――自分の身に立て続けに降りかかる災難に、蒼は少し前に朔に対して感じた自分の印象が正しかったのだと痛切に感じた。

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