小鳥遊蒼の災難③

 蒼はJR新宿駅に到着すると、東口を抜けて西武新宿駅に向かって歩き始めた。台風の名残か、路上の隅にはまだ青い落ち葉や木の枝が寄せられている。上を見ればよく晴れた青空が広がっていたが、久々に感じるじめっとした空気に蒼は少しだけ嫌そうに顔を歪めた。大抵の駅で複数路線の乗り換えが外に出ることなく完結するこの都心において、毎日この乗り換えをしなければならない人たちはストレスを感じていることだろう。そんなことを考えながら蒼は西武新宿駅近くにある目的地、ロシア料理店アネクドートに足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「一名です」


 カランカランとベルの音を鳴らすドアを開け店に入ると、外国人男性店員が流暢な日本語で蒼を出迎えた。この日の営業を開始したばかりなのか、店内はのんびりとした雰囲気が漂っていて他に客もいない。いくら日曜といえども、まだ朝十時を回ったばかりのこの時間からレストランに行こうとする人間は少ないのだ。


 席に案内された蒼は料理を注文すると、ゆっくりと店内を見渡した。天井からはオレンジ色の光を放つ小さな照明が何個か吊るされ、優しい光で落ち着いた雰囲気を作り出している。味のある漆喰の壁やアンティーク調の木製家具だけ見るとどこの国の店か分かりづらかったが、所々に飾られたマトリョーシカがここがロシア料理店であることを静かに主張していた。


 ――これだけ見ると、情報屋に勧められるようなイメージの店じゃないんだけどな……


 蒼はあまり利用したことがなかったが、知人の情報屋が典型的なアンダーグラウンドの人間のような空気を放っていることから、彼に勧められる場所もまた同じような雰囲気のものだと思っていた。蒼がロシアのことをよく知らないのも影響しているだろう。どうしても学生の頃に習ったソ連だの冷戦だのといった暗いイメージが先行し、怖さにも似た感情を抱いていたのだ。そのためロシア料理店といえばきっと暗い雰囲気の店なのだろうと思っていた蒼だったが、実際に見ると今のところ特に怪しい点はなく、何も知らずに来ていたら常連になりそうなくらい彼女にとっては居心地のいい店だった。


 ――値段だけちょっと厳しいけど……


 毎日気軽にランチをするにはこの店の価格帯は蒼にとっては少し上だった。事前に色々とメニューを見たにもかかわらず結局ブリヌイを注文したのは、まだ手が出る値段だったからだ。いつかメイン料理も食べてみたいと思いながらスマートフォンでグルメサイトの写真を見ていると、店員が「お待たせしました」と注文した料理を運んできた。値段が張るだけあって盛り付けも綺麗にされている。それを崩すことに躊躇いを感じながらも、蒼はゆっくりと目の前の料理を口に運んだ。


美味うまっ……!」


 思わず出た声に、ハッとして口を手で押さえた。他に客のいない店内に自分の品のない感想が思いの外響き渡ってしまったからだ。普段行くような店なら気にすることはないが、先程料理を運んできたスタッフの価格帯相応の接客態度に少しだけ萎縮してしまっていたのだ。


 一人で気恥ずかしさを感じながらも気を取り直すと、ゆっくりと時間をかけて料理を味わっていった。全部なくなる頃にはすっかりリラックスしていた蒼だったが、空腹を満たしきれなかったことに少しだけ悔しさを感じて眉をしかめた。


 ――今度はもっとお金がある時に来よう。


 網走取材の出費のせいでこれから圧迫されるであろう家計に一頻ひとしきり思いを馳せると、蒼は大きく深呼吸をして本来の目的を果たすべく店員を呼び寄せた。


「追加のご注文ですか?」

「いえ、すみませんが店長さんを呼んでいただけますか?」


 蒼の言葉に店員は一瞬固まると、「何か粗相がありましたか?」と不安げな表情を浮かべ、今までと比べたら少しだけ不自然なイントネーションで聞き返した。その様子に蒼は頻繁に接客に使う言葉以外は苦手なのかもしれないと考えながら、「そういうわけじゃないんです――」と言葉を続けた。


「――加納かのうの紹介だと伝えていただければ分かると思います」


 加納というのは蒼にこの店のことを教えた情報屋の名前だ。彼に店長を呼ぶ際は自分の名前を出せば伝わると言われていたのだ。店員は少し考え込むと、訝しげに首を傾げながらも「少々お待ち下さい」と店の奥へと消えていった。


 慣れない要求のはずなのに食べ終わった皿を片付けることも忘れない接客レベルに、蒼は改めて関心した。彼がもしロシア出身であるならば、自分のロシアに対するイメージをちゃんと変えなければならないだろう。そんなことを考えながら待っていると、奥から恰幅の良い初老の白人男性が現れた。ジャケットを羽織り品の良さそうな佇まいのその男は、蒼に近付くと自分が店長だと名乗った。


 ――サンダースに似てる……。


 某ファストフード店のキャラクターの姿を思い浮かべながら、蒼はまじまじと目の前の男を見つめた。綺麗に整えられた短い髪は見事なまでの白髪で、日本人のものとは全く違うその色はさながら真っ白な雪のようだった。気難しそうな顔をしているが、白のスーツを着て笑ったら誰もが自分と同じことを思うだろう。そんなことを考えつつも、蒼は割とカジュアルなジャケットに身を包んだ男の姿を意外に感じていた。店長というからには、てっきりコックの格好かスーツ姿だと思っていたのだ。


Не спиスピーдевушкаヂェーヴシカ

「なんて……?」

「『寝ないでくれ、お嬢さん』。君が私を呼んだんだろう?」

「あ、えっと、すみません……?」


 寝ないでと言われたことに一瞬理解が追いつかなかった蒼だったが、謝ってから自分がぼうっとしていたことを指していたと気付き、改めて小さく「すみません」と店長に伝えた。


Такタク、カノウの紹介と聞いたんだが」


 パシンと胸の前で手を合わせ、店長は蒼に話を促した。ロシア語が混ざっていたように感じたものの、大した意味はないだろうと判断し蒼はここへ来た目的を切り出す。


「そうです。振礼島ってご存知ですか? 実は私、振礼島のことを調べていまして、加納さんにあなたのことを教えていただいたんです」

「フレ……北海道にある島だったかな?」

「はい。あの島で何があったのか調べているんです。二月の災害のことでもいいし、振礼島自体のことでもいいです。何かご存知じゃありませんか?」

「フレは日本の島だろう? なら君の方が詳しいはずだ」


 そう言うと店長は「力になれなくて申し訳ない」と言いながら店員を呼ぶと、ロシア語と思われる言葉で何かを伝え、蒼に「折角だから紅茶をご馳走しよう」と愛想良く笑いかけた。その様子に引っかかるものを感じた蒼は、疑いの眼差しで店長を見つめる。それでも彼は片眉を上げ、両手を広げるだけだった。


「振礼島に行った人、口封じで殺されたそうですよ」

「……というと?」

「被害者が生前に会った方の話を聞いたんです。あの島は随分、ロシアと密接に関わっていたようじゃないですか。色々と、良くないものを運び入れていたんでしょう?」


 これは蒼のハッタリだった。振礼島に行った人間が死んだのは事実だが、他殺とは断定されていない。ロシアから何かを運び入れているという話も蒼の推測に過ぎなかった。ロシア人も含めると島の人口は二千人、その人数を週に一回の物資輸送だけで食べさせられるとは思えず、ロシアからも物資を輸入していたのではと考えたのだ。


 蒼の言葉に押し黙った店長は考えるようにして彼女を見つめている。その時、入り口の方でカランカランという音が響いた。店長は音の方を一瞥し店員が対応に向かうのを確認すると、蒼の向かいの椅子に座って諦めたように深く息を吐いた。


「どこで知ったか知らないが、それ以上関わらない方がいい」

「密輸を認めるということですね?」

「知らない方がいい」


 ――密輸してたのか……。適当に言っただけだったのに……。


 思わぬ情報を得たことに蒼が閉口すると、ちょうど紅茶が運ばれてきた。店員は店長に何かを確認すると、テーブルの上に並べ始める。蒼の席だけでなく店長の前にもカップを置いたことから、彼が飲むかどうか尋ねていたのかもしれない。


「なら、二月の災害のことはどうです? 何かご存知じゃないですか?」

「……生き残りがいるという話なら、聞いたことがある」


 そう言って紅茶のカップを口に運んだ店長に、蒼は自分の中で期待が一気に膨れ上がるのを感じた。


「その生き残りの方というのは、今どこに?」

Не знаюズナーユ、生き残っているという話自体が噂のようなものでね」

「……どこにいるかは分からない、ということですか?」

「確かな情報がないんだ。二月以降教会で暴れ出したのを見たり、取引現場で見かけたり、そういう噂話が流れているだけだ。ただ、『奴らには関わるな』――これだけは、どういうわけかはっきりとした注意として流れている」

「どうして――」


 蒼が詳しく聞こうとすると、店長は首を振ってそれを制した。


「悪いがお嬢さん、これ以上君に話すこともうちに入るかもしれない」


 そう言って店長は再び紅茶を口にした。蒼は彼の放つ突き放すような空気にどうしたらいいか分からず、ただ居心地悪そうに目の前のカップに目線を落とすことしかできなかった。


 ――ということは、生き残りは複数いるということ?


 政府の発表とは異なる内容に、蒼は紅茶を飲んで気持ちを落ち着かせようとカップに手を伸ばした。


「甘いのが嫌いでないのなら、そのジャムを入れてみるといい」

「え?」

「聞いたことないか? ロシアでは紅茶に砂糖だけじゃなくジャムも入れる」

「へえ……。でも、店長さんは?」

У меняミニャー диабетヂアビェット……糖尿病なんだ」


 心底悲しそうな店長の様子に蒼は断る気になれず、勧められたとおりにジャムを溶かして紅茶を飲んだ。


「あ、美味しい」

Хорошоハラショー


 満足げに微笑んだ店長は居住まいを正すと、真剣な表情で蒼を見つめた。突然の変化に蒼は驚いたものの、すぐに自分も背筋を伸ばし何か言いたげな店長の口から出る言葉を待った。


「私の古い友人にИванイヴァン Сергеевセルゲーエフという男がいてね」

「…………」

「息子はМихаилミハイルという。年は大体三十くらいだったか。グレーの瞳にブロンドの髪で、確か左腕にトカゲのタトゥーがあったはずだ」

「あの……それが一体?」


 要領を得ない店長の話に蒼が不審に思っていると、店長は周りをキョロキョロと見渡し、意を決したように「フレにいたんだ」と呟いた。


「え?」

Мишаミーシャ……Михаилミハイルはフレにいたんだ」

「亡くなった、ってことですか?」

「そう思っていた。だが東京で見かけたという噂を聞いた。八月のことだ」

「まさか……」


 ――そのミハイルという男は振礼島の生き残りということ?


 視線で蒼の言いたいことを察したのか、店長は神妙な面持ちでゆっくりと静かに頷いた。生き残りには関わらないんじゃなかったのか――目の前の男に不信感を抱きかけた蒼だったが、すぐに自分の考えを改めた。おそらく店長にとってそのミハイルという男はそれだけ大事な存在なのだろう。この話をしだす前の彼の様子を見れば、それなりの覚悟した上で自分に話しているというのは明らかだった。


「もしそれっぽい人を見かけたらお伝えしますね」

「……次来た時はメイン料理をご馳走しよう」


 そう言って、蒼の目の前の男は弱々しく笑った。

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