第103話 川の字

(あぁ……。やってしまった……)


 頭から熱いシャワーをかぶりながら俺は一人猛省していた。猛省の理由は勿論先ほど起きてしまったトラブルについてだ。


 ドクドクと心臓の鼓動がうるさい。浴室に響いているのではないかと思うくらいだ。


「……にしても、凄かったな」


 ポツリと呟きながらシャワーを止め浴槽につかる。「あぁ~」という間抜けな声と共に浴槽から勢いよく湯が溢れる。


「どんな顔していればいいんだ……」


 湯上がりの彩乃先輩は当たり前だが顔が赤く紅潮していた。だがその赤みの理由は一概に風呂上がりだからという訳ではない。


 ……現に俺が謝った時も全然目を合わせてくれなかったし。


(この場合はどうするのが正解何だろう……。もう一回謝った方がいいのか? いや、もう蒸し返さない方がいいのかもしれない)


「……取り敢えずもうあがろう。これ以上湯に浸かってたら確実にのぼせる」


 ◆


「――あ、まーちゃんだ。おかえりなさい」


 バスタオルで髪の毛を拭きながら居間へと戻ると、彩乃先輩に櫛で髪をとかれている琴葉ちゃんがフリフリと手を振る。


 琴葉ちゃんが着ているのは俺が前着ていた古いTシャツ。見慣れたTシャツの筈なのに琴葉ちゃんが着る事によって可愛く見えるのは何故だろう。


「あのね、あーちゃんが変なの」


「ん? 変って?」


「なんかね、ずっとあーちゃんの顔が赤いの。お風呂に入ってるときも、今もだよ?」


 そう琴葉ちゃんが言った瞬間、彩乃先輩はバッと琴葉ちゃんの背中に隠れるようにして顔を隠す。だが小さな琴葉ちゃんに隠れられる筈もなく、若干赤くなった頬が見えていた。


(ああ……。そりゃそうなるわな)


「ま、まぁそういう日もあるんじゃないか。……じゃあ琴葉ちゃん。寝る準備しようか」


「んー……。わかった。あーちゃんもお布団準備しよ?」


「そ、そうね琴葉ちゃん。じゃあやろうか」


 彩乃先輩は櫛を自分の鞄にしまい、布団が入っている押し入れの方へと琴葉ちゃんを誘導していく。


 彩乃先輩に対してどんな態度をとっていくかも重要だが、寝床についても問題がある。


 それは――布団が三つもないという問題だ。この家にあるのは俺の布団と来客用(ほぼ彩乃先輩用になっているが)しかない。


(琴葉ちゃんや彩乃先輩を畳にそのまま寝かせる訳にもいかないし……しょうがないから俺が畳かな)


 布団がどこにあるのか知っている彩乃先輩は慣れた手つきで押し入れから布団を出す。その様子を後ろで見ていた琴葉ちゃんは、何かを数えるように人差し指を動かす。


「……あれ? まーちゃん。お布団がふたつしかないよ?」


「あ、ああ。だからあーちゃんと琴葉ちゃんがその布団を使ってくれ。俺はそこらへんで寝るから――」


 そう言った瞬間、琴葉ちゃんは胸の前でバツ印をつくる。


「だめ。まーちゃん風邪引いちゃう」


「え、でも二人を畳で寝かせる訳には……」


「一緒にねればいい。三人でひっつけば、三人ともお布団で寝れる」


 琴葉ちゃんは妙案を捻り出したとばかりに、むふんと胸を張る。


 だが俺と彩乃先輩は琴葉ちゃんのようには考えられず、二人の視線がぶつかる。


「……い、いいんじゃない?」


「え」


「ほら、琴葉ちゃんの言うとおり畳の上なんかで寝たら風邪引いちゃうかもだし。……私は三人で寝るに一票かな」


「ま、まじすか……」


 状況は二対一。多数決でいくならこのまま三人が二人用の布団で寝ることになる。


 まぁぶっちゃけた話、二人用の布団に三人寝ると言っても琴葉ちゃんはまだ小さいからそこまで窮屈ではないだろう。


「……分かりました。じゃあ三人で寝ましょうか」


 ◆


 時計の針が動く音が暗闇に聞こえる。俺の腕を枕にして寝ている琴葉ちゃんは、幸せなそうな寝息をたてていた。


 俺と彩乃先輩に挟まれて寝る事に興奮気味だった琴葉ちゃんだったが、部屋を暗くしてから間もなく寝息が聞こえてきた。今日は色んな事があって疲れていたのだろう。


「……ねぇ、政宗君。起きてる?」


「……起きてますよ。どうしました?」


「……ごめんね、さっきは。痛かったでしょ」


 さっきというのは俺の顔面に洗濯用洗剤がめり込んだ時の事か。


「いやまぁ……痛かったのは痛かったですけど、あれは俺が悪いんで」


「……そう」


 彩乃先輩はその言葉を最後に黙ってしまう。だが彩乃先輩から寝息は聞こえてこないので寝た訳じゃないだろう。


 それから数分たったあと、


「……ねぇ、政宗君」


「……何でしょうか」


「琴葉ちゃんが言ったじゃない? 将来やりたい事はないのかって。……政宗君ってどんな風になりたいとかあるの?」


 俺の将来、か……。


 俺は特別秀でた才能なんかない。だから、嫌でも普通に生きていかなければならない。


「……特にないですね。強いていうなら、今までお金で苦労してきたので稼げる職業につけたらいいなと思うくらいです」


「……そう、なんだ」


「彩乃先輩は何かないんですか? やりたい事とか」


 彩乃先輩なら何をしてても不思議じゃない。難関大学にだって受かるだろうし、お堅い職業ではなく少しリスキーな職業でだって結果を出すのであろう。


 そんな彩乃先輩に何か夢があるのか、俺は本気で気になっていた。


「……私はあの華ヶ咲家の人間。普通の職業では駄目だし、自らが選んだ道のトップに立たないといけないの。……だから現実的に考えて、パパのお仕事をやるんだと思う。勿論ネームバリューのある大学を卒業した後でね」


 天井を向くようにして寝転んでいた彩乃先輩は寝返りをうち、琴葉ちゃんの方を向く。そして寝息をたてる琴葉ちゃんの前髪を優しく撫でる。


「本当はちょっと興味があるような進路もあるんだけどね。でもパパの仕事をやっていく方が、華ヶ咲家に相応しい人間になれる確率が高いから」


「……彩乃先輩なら、どんな道を選んでもトップを取れると思いますが」


「あはは。買いかぶりすぎだよ。私にそんな才能はないよ。……いつも必死なんだよ? 政宗君みたいに勝手に皆が期待してくるからさ」


 そう言いながら彩乃先輩は琴葉ちゃんの枕と化した俺の腕をつねる。だが痺れているのかあまり痛みを感じない。


「もう高3だからね。そろそろ……というか遅いくらいか。進路を決めないと」


「……そうですね。文化祭が終われば楽しい行事はほぼなくなりますし。そうしたら後は卒業式が待ってるくらいですね」


 俺の言葉に「卒業……か」と闇に溶けるような小さな声で呟いた彩乃先輩は、琴葉ちゃん枕となっている俺の手を握る。


 痺れている筈なのに、その手の感触はとても柔らかく感じた。


「……そうだね。卒業、だね」


「……はい」


 彩乃先輩はその言葉を最後にすやすやと寝息をたて始めた。俺の手を握ったまま。


 前腕には琴葉ちゃんの頭。そして手には彩乃先輩の柔らかな手。


 二人の女の子に占拠された俺の左腕の痺れを感じながら、俺もゆっくりと瞼を閉じる。


(卒業、ね……。彩乃先輩が卒業したら、この関係はどうなるんだろうか)


 意外にもすぐに迫っていた別れの時。


 その時俺は、どんな気持ちになるのだろうか。

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