第11話 灰ゴブリン視点





 自分が何をされたのかがわからない。


 彼は腹に熱にも似た痛みが重く澱んでいるのをどこか他人事のように感じていた。



 ふと鼻の中に混じる、血と土の匂いに気付く。



(地面、ああ、私は倒れているのか…)



 最高のタイミングだったはずだ。はじめに食らった頭への蹴りや不意に抉られた目の痛みを考えても、それでも狩ることのできたはずの一撃だった。



 一瞬、ほんの一秒にも満たない短い時間ではあったが、ヤツはたしかにこちらの存在を失念した。


 だがそれも阻まられた。ヤツの顔面を割れるはずだった自慢の鉈は弾かれた。



 それから何が起きたのかがよくわからなかった。



 腹に何か大きなものがぶつかったような圧を覚えて、気付けばこうやって地面に伏していた。




(強い…)


 彼の胸の中にそんな感想が浮かぶ。単純にヤツの方が自分より強いのだろう。そう考えるとこれは当然の結果だ。



 1人では勝てない。それが彼の素直な敵への評価だった。


 ただ単に自分より体格が大きい事や、力が強いだけならいくらでもやり方はある。


 それだけではない敵だった。少なくとも戦う技術やツキも、持っている敵だ。



 それでも



(あと3人…、あと3人、戦士がいれば…)


 戦士として受けた教育が、このような状況にあっても彼に冷静な戦力分析を促していた。


 自分一人で狩る事は出来ない。それでもあと3人、戦える仲間がいればどうにかなる。その自信が、幾度か父と共に一族の狩りに参加してきた彼にはあった。



 ここ最近急に現れた牙も、爪もない、。ヤツらを狩るのは初めてではない。



 仲間さえいれば、連携さえいればこの強い大猿も狩れる。


 それが彼の敵への評価だった。



 そう、この大猿は獲物のはずだ。それもとびっきり美味ー



 時間がまるで何倍にも引き伸ばされたような不思議な感覚。視界の中に地面と、砂利と、それから顔をすこし動かすと




 変わり果てた弟の死体が見えた。





 途端、彼の体に力が漲る。意思と関係なく腕が体を起こそうと手のひらに命令して地面を掴む。





 殺す、殺す、殺す、殺す。殺されなければならない。


 獲物である分際で、誇り高き一族に流血を強いるこの敵を狩らねばならない。




 報いを。血を。臓物を。


 使命感にも似た暗い怒りだけが彼を突き動かしていた。




 だが、それと同時に自らの死も感じていた。彼の頭上で大猿が、敵が、その武器を高らかに掲げるように持ち上げ振り下ろそうとしていた。



 目に見えなくても、感覚で敵がとどめを刺そうとしているのが分かる。



 容赦なく、冷静で、厄介な獲物だと彼は思った。




 手の届く範囲に鉈はある。だが間に合わない。立ち上がり、それを拾って反撃する前に敵の武器が己の命を奪うだろうことを彼は確信していた。




 それが、振り下ろされる。




 彼はそれでも動きを止めない。刹那と言える短い時間の中で立ち上がろうと動き続けた。




 いずれやってくるであろう。痛みを予想しながら。


 首か、頭か?



 耐えられるものなのだろうか? それは父にも教えられた事のないものだった。









 痛みが来ることはなかった。


 代わりに彼の目の前の地面が光を遮られ、影の中にいるように暗くなる。



 カッ、という硬い何かに、より硬い何かが食い込む音が短くなった。



 この音を知っている。懐かしい音。彼が生まれた時からあった優しい影。




 うつ伏せの姿勢から体を動かし、尻餅をつくような姿勢なると



 そこにはまるで彼を守る盾のように木の根が複雑に絡み合いながら敵の武器を遮っていた。



 地面を隆起させ、突き破って現れたそれは生き物のように怪しく胎動している。



 こんなことができる人物を彼は一人しか知らない。



 彼の背後からまた新たな木の根が伸びてくる。


 それは物凄い速さでその面積増やし、彼の腹のあたりをぐるっと一周、円を描くように回り、萎んだかと思うとそれを巻きとった。




 ぐんっと、その木の根に彼は引っ張られ宙を舞う。


 完璧に地面から離れる寸前、そばに転がっていた鉈を手で掬い取る。


 とても勢いのある引っ張り方だったが、不思議と痛みを感じない。



 宙を舞い、空に引っ張られている時、ほんの一瞬敵と目が合う。



 真っ黒な瞳に白い目。その目から彼は感情を感じ取れることはなかった。


 敵と距離が一気に離れる。


 勢いよく、彼は住居の方へ戻される。3つ並んでる住居の一番奥、敵から一番遠く離れている戦士用住居からその木の根は伸びていた。




 木の根が地面に優しく彼を下ろす。



 そこにいたのは、彼を死の淵から救ったのは。




「レド! 無事ですか?」



 母親だ。傍にはまた地面からまるでゆりかごのように木の根が生えておりその中で、妹が眠っていた。




「母様、どうして…」



「レド、今はそんな事を言っている場合ではありません。」


 母は彼に問いかける。



「クルメクは…。」



 彼は力なく左右に首を振り俯く。



「そうですか…、」


 母の声はか細く消える。



 母は崩れそうになる膝を正す。



 そして、息を大きく吸い、吐き出す。


「レド、端的に答えてください。私が援護すれば、狩れますか?」



 その瞳に燃えるものはなんなのだろうか。彼と同じ黯いものがたゆたう。




 母親の足元からとても小さな、木の根が羽虫の幼虫のように蠢いている。



 精霊士はその感情により、木を操る。


 荒ぶっているのだろう。背後の住居の木材の節々から歪に枝が伸び始めている。



 その力の異様さを彼は再認識する。



「狩れます。母様の力があれば。ヤツの臓腑をクルメクに捧げます。」




 母は、じっくりと顔を笑顔に歪ませる。




 ああ、怒った時の父親の表情と似ている。




 彼と母は、10メートル向こうの敵の方を向く。



 敵は、獲物は1匹。こちらは二人。



 彼の脳みその奥にある、遺伝的な本能が数的有利を取れたことにより囁く。


 狩れる。狩れ。殺せ。



 母の足元から、地面が蠢き、木の根が触手のように三本ほど新しく現れる。


 根の先、尖った先端はゆらゆらと揺れながら敵に狙いを定める。




 彼の腹に溜まっていた熱のような重い痛みはいつのまにか消えていた。



 体を屈め、足の指で地面を掴む。


 父に習った狩りの手法。彼らの種族の優れた速筋から生まれる瞬発力を利用した戦い方。




 狩れる。狩れる。狩れる。




 木の根が一斉に敵に向かって伸びる。意思をもつかのように。



 彼もそれに合わせて敵に駆け出そうと力をこめる。意志を持って。






 強力な援軍、狩りの興奮によって彼の脳内は心地の良い狂気に満たされる。




 薄っすらと残った冷静な部分が、ほんの少しだけ囁いた。





 本当に父や戦士はこの敵に敗北したのか? 8名の強き戦士がどうやって?





 それにしたって、死体だってー



 だがそのささやきは狩りの興奮によって塗り潰された。答えが出ることはない。






 その時だ。




 敵が、足元を攫い、何かをこちらに放り投げる。




 それは鋭く投げつけられるのではなく






 大きく、弧を描いて彼と母のすぐ近くに落ちた。






 黒い袋。



 落ちた衝撃によりその中に入っていたものが転がり出た。






 あ、あ、あああああああああ。









 父の生首。




 顔の半分が潰れている。








 母は今度こそ、腰が抜け、その場に崩れ落ちる。




 その死者の瞳が彼の瞳をどろりと撫ぜた。




 遅れて投げられた小さな赤い筒のようなものが爆音とともに弾けたのはそのすぐ後だった。

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