梨沙 阿田川
阿田川がようやく追いついた時、梨沙は木にしがみついていた。かなり斜面を転がったためか、顔に泥がついている。
「阿田川君――」
潤んだ瞳が月明かりを反射した。思わず抱きしめたくなったが、そんな時ではない。
上から敵が降りてくる。阿田川達と違い、急斜面でも転倒することなく、しかも迅速に。
自動小銃が火を噴き、近くの木の幹が爆ぜたように音をたてる。
「梨沙ちゃん、下まで行くぞ」
阿田川は梨沙の腕を取ると、引っ張りながら斜面を滑る。草や枝に体中を引っ掻かれて痛むが、気にしてはいられない。
不意に斜面が終わりを告げた。ようやく地に足が着いたように感じる。だが、そこは平らな地面ではなく、ゴロゴロと大きめの石が転がっていた。
「急ごう」梨沙の手を取って走り出す阿田川。
「来てくれたんだね」
梨沙が言う。こんな状況にも関わらず、少し嬉しそうだった。
「体が勝手に動いちゃったよ」
握り返してくる梨沙の手に、ぎゅっと力がこもった。
しばらく走ると暗がりが少し晴れた。生い茂っていた木々が少なくなっている。代わりに小さな洞窟があった。
追っ手の足音が聞こえる。二人は慌てて洞窟に入って行った。
高さはあるが、狭かった。しかも、しばらく進むと行き止まりとなる。
小型の懐中電灯を持っていた阿田川がそれをつけると、どこへも続く道はなく、意地悪な岩々が行く手を阻んでいる。
懐中電灯を消しても、微かに明るさがあった。どこか岩のすき間から、月明かりが忍び込んでくるらしい。
既に梨沙の息はあがっていた。阿田川は彼女の肩を抱くと、二人、ゆっくりと座り込む。
ジッと耳を澄ました。
まだ、敵は来ないようだ。
このまま見つからずに……。そんなのは甘い考えだというのはわかっていた。
「阿田川君」
梨沙が耳元で呼びかけてきた。
「ん?」肩に掛けた手を上げ、梨沙の頭を撫でるようにする。
「私、ずっとあなたのことが好きだった」
こんな時に何を――という思いはすぐに消えた。こんな時だからこそ、かもしれない。
「俺も、ずっと梨沙ちゃんのことが好きだった。でも、ごめん。俺、面白がってた。気の無いようなふりをして、君のこと弄んでいたのかも……」
「そんなことない。楽しかったよ」
梨沙が笑った。そして、何かを取り出す。
阿田川は目を剥いた。それは、ダイナマイトだった。続いてライターも出す。
敵の足音が聞こえてきた。洞窟の入り口辺りにいるらしい。こちらに向かって来る。
「もう、終わりだね」
「そうらしい。でも、最後まで戦うよ」
阿田川は震えながらも言った。拳銃をとり出す。
梨沙が、阿田川の手にそっと触れ、銃を下ろすように促した。
「私は、もうずっとさっきから、死ぬ覚悟を決めてたの」
「え?」
「もうずっと前からだよ。道の駅で襲われた後くらい。だって、こんな状況で、私みたいなのが生き残れるわけないもん」
「何を言ってるの?」
「いいの、もう。こういう時は、女の方が覚悟は早いんだから」
阿田川は梨沙の顔を見つめた。彼女はとても穏やかな笑顔を見せた。
梨沙の意図を感じとった阿田川は、それに抗うつもりがない自分に気がつき、そうすると、どこかしら気が楽になった。
最後に、二人は見つめ合い、そして、一瞬だけ目を閉じて唇をかさね合わせた。
「ありがとう」と梨沙が言う。
「それは、俺が言う言葉だよ。本当に、ありがとう」阿田川が応えた。
静かに、梨沙がライターに火をつけた。ダイナマイトの導火線を近づけていく。少し震えていたので、阿田川が手を添えた。
「絵里香ちゃんや大久保君、沙也香ちゃん達の家族、それに、他のみんなの少しでも助けになるようにして、逝こう」
梨沙の言葉に阿田川はゆっくり頷く。「そういうのも、少しは格好いいかもしれない」
応えたものの、声は震えていた。それが情けなくもおかしくて笑った。梨沙も笑う。二人、手を添えあって導火線に火をつけた。
敵の足音は、もうすぐそこまで来ていた。阿田川は懐中電灯をつけ、それを投げた。敵の足が一旦止まり、そして次にはこれまで以上に早くなった。
「最後に梨沙ちゃんと一緒で良かった」
「私も……」
敵の姿が見えた。三人だ。それぞれ自動小銃を構えながら、近づいてくる。
梨沙と阿田川は両手を差し出した。そこには、もう導火線も僅かになったダイナマイトがあった。
三人の敵が息をのんだのがわかった。慌てて逃げ出そうとする。
見ていると痛快な気分になった。
次の瞬間、轟音とともに、梨沙と阿田川の世界は真っ暗になった。
洞窟は、あっと言う間に崩れ落ちた。
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