第38話 木沢包囲網

主要登場人物別名


弾正・霜台… 六角定頼 六角家当主


筑前守… 三好長慶 細川家臣 三好家当主

大和守… 篠原長政 三好家臣

宗三… 三好政長 三好分家当主


左京亮… 木沢長政 畠山家臣 南山城守護代 河内・大和にも影響力を及ぼす


右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主


――――――――


 

 天文十年(1541年)十月

 六角義賢の伊勢遠征も終わり、近江には平穏な時間が流れていた。

 しかし、摂津・河内では細川晴元の命で三好長慶・三好政長・波多野秀忠らが塩川政年の籠る一庫城いちのくらじょうを攻め、包囲戦は二カ月にも及んでいた。

 塩川政年は細川高国の妹を妻としていた為、いつ細川晴元に攻められるかわからないと思って常より警戒していたが、三好長慶が正式に摂津守護代に任じられると長慶から攻められるのではないかと疑心暗鬼に陥り、この八月にとうとう細川晴元に叛旗を翻した。

 畿内には再び戦乱の気配が漂って来ていた。



「大和守。一庫城の様子はどうか?」

「未だに固く守って出てこようとはしません。総攻めをなさいますか?」

「いや、宗三の為の踏み台になってやる義理もあるまい。得る物の少ない戦だ。できるだけ損耗は避けたい」


 ―――良き采配振りだ


 二十歳になった三好長慶の冷静な判断に篠原長政も深く頷く。

 まるで往時の主君元長を見ているような気持ちにさせられることがある。


 ―――殿、若君は立派な御大将へとお成り遊ばされておりますぞ


 万感の思いを抱きながら、篠原長政も三好長慶と共に眼前にそびえる一庫城を見上げる。城には旗がはためき、曇天模様の空の下で山城の威容を醸し出している。

 しかし、一庫城に援軍など来るとは思えない。このまま籠っていたとしても、兵糧が尽きれば結局は出て来ざるを得なくなるだろう。摂津は既に細川晴元の勢力下にあるのだ。



「殿!一大事でございます!」


 伝令が慌てて本陣内に駆け込んで来る。三好長慶は弾かれたように振り返り、篠原長政も不審な面持ちで伝令の方へと体を向ける。


「いかがした?」

「大和信貴山城の木沢左京亮が謀叛!南山城・河内・大和の軍勢を率いて一庫城の後詰の為にこちらに進軍しております!」

「何!?軍勢はいかほどだ!」

「およそ三万の軍勢を集めております!」

「三万だと……」


 三好長慶が言葉を失くす。

 一庫城包囲軍は一万に満たない。城方と木沢軍とで挟撃されれば、包囲軍はあっという間に壊滅するだろう。


 一瞬の放心の後、三好長慶が即座に断を下す。


「撤退する!すぐさま越水城へ戻る用意をしろ!そのまま籠城戦になるかもしれん。戦支度は解かぬように全軍に徹底させよ!」

「殿!宗三殿にはお知らせいたしますか?」


 長慶は一瞬迷った。三好政長も憎き父の仇の一人であることに変わりはない。だが……


「知らせておけ。我らはすぐに陣を退く。一人で死にたくなければそちらも陣を退けとな」


 今はまだ木沢長政と相対するために三好政長の力は必要だ。積年の恨みよりも今目の前に迫る危機を何とか乗り切らねばならない。


 三好長慶は十月二日には全軍を越水城に退却させる。報せを受けてから翌日には撤収を完了する素早い軍事行動だった。




 ※   ※   ※




 朽木稙綱は、息子たちからの書状を前に難しい顔をして座っていた。

 昨年に将軍義晴の側衆の任を辞した稙綱は、代わりに次男・三男・四男を将軍側衆として仕えさせ、自身は嫡男の晴綱が治める朽木谷へ戻って隠居状態になっていた。

 稙綱は既に四十四歳になっており、当時としてはもう楽隠居を決め込んでもおかしくない年齢ではあった。


「父上、失礼いたします」


 廊下から声がしたと思ったら、声を掛ける間もなく嫡男の朽木晴綱が室内に入って来る。


「弟からは何と?」

「読んでみよ」


 書状を差し出すと、晴綱が食い入るように読み始める。

 しばらく室内には虫の音だけが響いていた。


「……木沢左京亮が謀叛を……京の公方様も慈照寺(銀閣寺)へと移られたのですか」

「うむ。木沢は細川右京大夫殿の命を聞かず、公方様に直接京の警護の任を与えられたいと迫ったそうだ。

 しかし、木沢はあくまで南山城の守護代であり京や畿内の仕置を任されたわけではない。いかに実力があるとは申せ、僭越の沙汰であることは言うまでもない。

 公方様も右京大夫殿も認めるわけにはいくまいよ。まして、右京大夫殿は三好に塩川を攻めるように指示していたと聞く。木沢の行動は明らかに分を超えている。下剋上の夢を見たのであろう」


「木沢の反乱は成功しましょうか?」


 息子の問いに、稙綱もしばし黙り込む。


 ―――このままでは収まるまいな


 それだけは確信に近いものがあった。息子たちからの文では、将軍義晴は木沢の反乱を幕府に対する謀叛と断定しているし、義晴の庇護者たる六角定頼がどう出るかわからない。それに、三好もやられっぱなしで軍を退くほど弱くもないはずだ。

 一庫城の救援に赴いた木沢長政は、返す刀で三好長慶の越水城を攻めていたが、越水城が容易に落ちないと知ってからは池田信正の籠る摂津原田城を攻め、それにも失敗するとこの頃には反転して上洛し、京の警護を将軍義晴に願い出ている。

 木沢の行動は後年の明智光秀以上に支離滅裂で一貫性が無かった。


「場合によっては我ら朽木も霜台に従って出陣することになるかもしれん。備えだけは怠らずに行っておけ」

「ハッ!」


 ―――忌々しいが、この事態を何とか出来るとすれば霜台以外に居らぬだろうな


 義晴側近の側衆は慌てることしか出来ないらしい。慌てた所で状況が良くなるはずもないのだから、今やるべきは三好長慶や細川晴元と協調して木沢長政の反乱を鎮圧することのはずだ。

 それだけの実力と声望の持主と言えば、口惜しいが六角定頼しか思い浮かばない。


 若い頃にはライバル意識をむき出しにしていた稙綱も、今や六角定頼の実力と声望、そして何よりその器量を頼るようになっていた。人間五十年と言われる時代で、四十を超えれば嫌でも器量の違いというものを知らしめられる。

 複雑な心境ではあったが、若い頃からの付き合いであるだけに定頼の力を誰よりも認めているのも稙綱だった。




 ※   ※   ※




「くっ!おのれ!おのれ!おのれぇぇぇぇ!」


 書状を力ずくで引き裂いた木沢長政は、さらに手の中で粉々に切り裂いた。

 それだけでは気が収まらず、居室内に置いてある茶器の名物も辺り構わずに放り投げて鬱憤を晴らしいている。


 天文十年(1541年)十二月

 十月より急展開を迎えた『木沢長政の乱』は、わずか二カ月で木沢長政を追い詰めつつあった。

 上洛して京の警護役を務め、実力で京を占拠しようと狙った木沢の目論見は足利義晴の坂本脱出で水泡に帰す。

 細川高国存命中から、六角は畿内の情勢にさほど積極的ではない。だが、他勢力が近江に侵入した時には容赦なく全力で叩き潰す。以前京の警護に当たっていた時に嫌と言うほど思い知らされていた。

 河内や大和の軍勢が近江に進軍することは六角定頼の怒りに火を付ける恐れがある。西の三好とも対峙している今、無闇に近江にまで兵を向けて虎の尾を踏むわけには行かなかった。


 京の警護役を勝ち取れなかった木沢は、三好長慶と並んで摂津で声望を集める池田信正の原田城攻めへと再び反転する。

 しかし、将軍義晴が木沢の乱を謀叛と断じたことでそれまで従っていた南山城・摂津の国人衆が離反し、元々共に兵を挙げたはずの塩川政年や三宅国村にも裏切られて信貴山城に戻っていた。


「殿、今しばし落ち着かれませ」

「やかましい!これが落ち着いていられるか!」


 木沢長政の甲高い怒鳴り声に家臣の柳生家厳も顔をしかめる。

 畿内で孤立を深める木沢長政に対し、従っているのは大和柳生庄の国人である柳生家厳の他河内・大和の僅かな国人衆だけになっている。


「……公方様からは何と?」

「細川右京大夫はわしに同心しない。詳しくは六角弾正からわしに伝えると申してきおった」

「六角様から……」

「そのような命令が今の幕府ごときに出せるわけがない。どうせ六角弾正の手配りであろうよ」


 柳生家厳も難しい顔をして黙り込む。

 裏切った三宅や塩川などはものの数ではない。三好長慶や三好政長ともある程度は渡り合っていけるだろう。

 だが、六角定頼までもが敵に回るとなると分が悪すぎる。

 定頼の力で安定を見せている近江では、軍備の増強も著しいと聞く。味方の離反が相次ぐ中で近江の軍勢が明確に敵対すれば、ますます逃げ出す者が出て来るだろう。


「先月には伊賀の笠置城も伊賀の国人共によって落とされた。岩倉へ逃げていた細川右京大夫も芥川城に戻り、わしを包囲するために精力的に動いている。

 今やわしの味方はその方らだけになってしまった」


「本願寺は何と申しております?本願寺の証如殿とは昵懇の間柄でありましょう」

「……一向宗はわしに味方は出来ぬと申してきおった。それも弾正の指図であろう」


 木沢長政は今までとは打って変わって悄然と肩を落とす。

 我ながら、よくもまあこれだけ一気に悪い条件が次々と出て来るものだと逆に感心すらしてしまう。


 ―――わしは自分の実力を勘違いしていたのか?


 充分に勝ち目はあるはずだった。挙兵前は、畿内で六角と対等に渡り合えるのは木沢長政だけだとあちこちで評判になっていた。

 小生意気な三好長慶を下し、三好政長を河内から追い出し、紀伊を抑えて京に上る。

 京を抑えてしまえば六角とも充分に渡り合える。今や飯盛山城を気にしていたあの頃とは違う。六角の調略などにびくともしないぐらいの軍勢を整えたはずだった。


 だが、東の六角、西の木沢とまで称された木沢長政の軍勢は、近江の彼方から六角定頼の咆哮が聞こえただけで次々に離脱していく。格の違いというものをまざまざと見せつけられる思いがした。


「ともあれ、河内の畠山家はわしが抑えておかねばならん。遊佐が何やら水面下で動いているようだが、遊佐を取り除いて河内の軍勢を取りまとめればまだ再起を図ることはできるはずだ」

「……」


 柳生家厳にも言葉がない。

 そんなことで勢力を盛り返せるような劣勢にはとても見えない。今や畿内は将軍義晴、言い換えれば六角定頼を盟主とした木沢包囲網が敷かれている状態だ。

 一つ一つ各個撃破していければいいが、全部が一斉に掛かって来れば苦戦は免れないどころか敗色濃厚と言わざるを得ない。


「まずは小生意気な三好のガキを黙らせる。西を確保すれば、後ろを気にせず戦える。

 そもそもあのガキは昔から気に入らなかったんだ」

「……承知いたしました。もう一度軍勢を集めましょう」


 一礼して柳生家厳が下がっていく。

 冷静になって考えようとするが、頭とは裏腹に木沢長政の内心には焦りの感情だけが募る。


 ―――このままでは終わらぬ!終わらぬぞ!


 権謀術数を駆使して畿内の戦乱を渡って来た木沢長政は、乱世の梟雄として今一度起つ決心を固めた。

 最初の標的は、三好長慶だ。


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