第7話 満州に期待を寄せる国民

「『南満州鉄道株式会社設立の件』が公布されたのは先月ですよね。あの時に初めて、南満州鉄道株式会社の名称を知った気がします」

「満州経営委員会が発足したのが、今年、明治39年の1月。それから西園寺首相が官邸で『満州問題に関する協議会』をしたのは5月だそうだ。それで6月公布、7月に設立委員会設置、だな」

「またずいぶんと駆け足ですね。国民の期待が大きいからでしょうか」

「もう気の早い者たちは満州に旅行に行っているからな」

 7月から8月にかけて、陸軍や文部省主催の全国規模の満州修学旅行団だけでなく、東京・大阪両朝日新聞主催の『ろせつた丸満韓巡遊船』も満州に旅行に行っている。

 まだ設立委員会が慌ただしく設立されて動き始めた頃に、もう民間では満州への期待が高まっていたのかもしれない。

「本当は経済的なことだけ考えるならば、南部支線を手放すのもありなのだが……」

 実際、日露戦争を推進したはずの桂太郎も、9月にポーツマス条約が調印された翌月の10月にアメリカの鉄道王ハリマンに南部支線の日米共同運営を持ちかけられ、首相として予備契約を結んでしまっている。

 帰国した小村寿太郎外相が慌てて猛反対したため、契約は取り消されたが、政府にとって満鉄の扱いが曖昧だったエピソードと言える。

 これは桂太郎だけではない。

 陸軍の田中義一、海軍の秋山真之、外務省の山座円次郎など日露戦争の開戦を画策推進した『湖月会』とも付き合いがあった倉知鉄吉も南満州鉄道に関する座談会の速記録でこう話している。

「南部線を取っても損になるという計算しか出ないですが之を言っては南武線を取ってはいかぬ論に油を注ぐことになるから、よく分からぬけれども大したことは無かろうというので誤魔化した」

 誤魔化すにしても、誤魔化してどうしようという指針はなかった。

 ただ、満鉄は経済的なことだけではないのだ。

 『10万の生霊と、20億の戦費』を払ったといわれるこの地は、ただの土地や線路以上の意味を持ってしまっている。

 日清戦争以来の悲願であった遼東半島を得ることに国民は意味を見出していたし、政治的戦略的にこの地の中にあるものを手放すことはできなかった。

 少し後の話になるが、満鉄が株式会社として株を発売したとき、国民の期待が如実に表れた。

 第一次株式募集の時に、なんと1077倍を超える空前の人気を博したのである。

 新たな地に誕生する満鉄に当時の日本人の期待が集まっていたのがよくわかる。

「それでは満州行きは無しということですね」

 是公はそう結論付けようとしたが、後藤は眉を寄せた。

「いや、絶対に行かないというわけではないのだが……」

「珍しく歯切れが悪いですね。何だったら行くんですか?」

「児玉さんが満州に専念してくれるなら考える。今、児玉さんは満州経営委員会の委員長だから満鉄創立の責任者となるわけだが、その後、誰か違う人間が満州鉄道の上に立つのでは困る。俺が考えた満州経営と変わってしまうかもしれない」

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