第4話 東清鉄道と軍部

 南満州鉄道株式会社みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃとなるのは、ロシアが敷いた東清鉄道とうしんてつどうの一部である。 

 東清鉄道の本線は満洲里まんしゅうりから哈爾浜はるびんを経て綏芬河すいふんがへと続く路線である。

 哈爾浜はるびんから大連だいれんを経て旅順りょじゅんに向かう路線は支線である。

 ポーツマス条約によって手に入った遼東半島りょうとうはんとうに、この東清鉄道の南部支線(南満州支線)があり、南部支線の長春から旅順とその付属地が現在、満鉄の話の舞台となっている部分である。

 


 東清鉄道については軍部もまったく動かなかったわけではない。

 大津事件おおつじけんに遭遇して以来、ロシアの研究を続けていた陸軍将校・石光真清いしみつまきよに特別任務を与え、石光は哈爾浜はるびんで写真館や洗濯屋を経営し、猛勉強したロシア語を駆使し、ロシア軍の御用写真師になった。

 その立場を利用し、石光は満州の地理や駐留ロシア軍の情報を集め、東清鉄道の写真を撮っていた。

 だが、石光をやって写真を撮らせて、情報を集めさせてはいたものの、日本陸軍はそれ以上、何かしたわけではなかった。

 現場の人間は優秀なのに、その能力や集めた情報をうまく使えないのは、昭和にも続く悪習であろうか。


 陸軍ならば、児玉は何をしていたのかと思うかもしれないが、児玉は石光が哈爾浜はるびんで写真屋をしながら情報収集をしていた頃、台湾総督をしていた。

 台湾総督の前任者たちが1年程度、桂太郎にいたっては4ヶ月程度で交代してしまったのだが、児玉は台湾総督を8年勤め、台湾の平定に当たっていた。

 前述のとおり、陸軍大臣や内務大臣も台湾総督と共に兼務しており、児玉は大陸に意識を向けている暇はなかったのではないかと思われる。

 児玉は日露戦争の満州軍総参謀長であったのだから、最初から満鉄の野心を抱いていたのではと考える向きもあるが、児玉は最初から日露戦争に参加する予定だったわけではない。

 再三書いているが、児玉は台湾総督兼内務大臣であり、日露戦争前に対露戦計画を立案していたのは児玉ではない。

 陸軍参謀本部次長・田村怡与造たむら いよぞうである。

 山梨県に生まれた田村は、陸軍士官学校卒業後、ドイツに留学し、ベルリン陸軍大学校で学び、川上操六かわかみ そうろくとともに軍事研究に励んだ。

 日清戦争を経て、明治33年には陸軍少将となり、明治35年には参謀本部次長に就任した。

 明治30年代に入ると、仮想敵国かそうてきこくとしてロシアとの戦争が想定されていたが、田村はロシアとの戦争には消極的だった。

 これは田村に限らない。

 政治家も軍人も大きな国力差のあるロシアとの戦いを望まない、あるいは強く反対する者もあった。

 しかし、自分が消極的であろうと、作戦立案を求められれば、考えるのが軍人の仕事である。

 田村はロシアとの戦争を想定して、作戦を練り続けた。

 だが、知識があるがゆえに、国力の差がわかってしまって深く悩んだのか。

 田村は日露戦争開戦の前年に、過労のため死去してしまう。

 優れた戦略家として『今信玄いましんげん』と出身の山梨からとって評されていた田村が亡くなったのが明治36年(1903年)10月1日。

 その後、児玉は参謀総長だった薩摩派の大山巌おおやま いわおから強く請われて、内務大臣を降りて、降格人事となる参謀本部次長となる。

 日露戦争開戦は 明治37年(1904年)2月8日であるから、児玉は4ヶ月ほどしか時間がなかった。

 それゆえ、大きな意味で大陸進出などを考えていたかは別にして、日露戦争に参加するのが4か月前に決まった児玉が、最初から東清鉄道を狙っていたと考えるのは難しいだろう。

 では、誰がいつ後に満鉄となる東清鉄道に目を付けたのか。

 それが前述の中村是公なかむら よしことの言葉に繋がる。

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