第3話 児玉源太郎の説得

 明治39年(1906年)7月。

 後藤新平ごとうしんぺい児玉源太郎こだまげんたろうに呼び出され、満鉄の総裁になるよう説得された。

 なんとか話を終えて、戻ったときには、顔に強い疲労の色が浮かんでいた。

「……疲れた」

 児玉の説得から帰ってきた後藤が深い溜息をつきながら、椅子に座り込んだ。

 後藤は精力的な男である。

 もうすぐ50を迎えようとしていたが、台湾での経験が後藤に深みを増していた。

 若い頃のほうが人生は輝いていると考える人もいるが、後藤はそうではない。

 生まれ故郷の岩手県奥州水沢いわてけんおうしゅうみずさわでは、高野長英たかのちょうえいの縁者ということで、近所の子から謀反人の一族と蔑まれて喧嘩をして暮らした。

 喧嘩して髪を滅茶苦茶にして帰ってきたことを怒る母に荒縄あらなわで縛り上げられ、裏の小屋に放り込まれるのもしばしばだった。

 9歳の時にせっかく殿の御小姓おこしょうに選ばれても、明治維新ですぐにその御小姓役を失った。

 北海道に移住して士籍しせきを保つか、水沢で帰農きのうするかを迫られて、後藤の父は帰農することを選んだが、そのため、武士の端くれであるという矜持すらなくなった。

 戦争に負けた地域の没落層ぼつらくそうとして、後藤は10代を送ることになったのである。

 給仕として働いたり、東京遊学とうきょうゆうがくに失敗したり、挫折して戻った実家も没落して金に不自由していたり、鬱々とした日々だった。

 それに比べて、後藤の40代は輝きに満ちている。

 輝きを象徴するように、後藤は精力的に活動していたが、その後藤が疲れるのだから、児玉の説得はなかなかのものだったのだろう。

「お疲れ様です。茶の用意をさせましょう」

 中村是公なかむら よしことは茶と菓子を持ってくるよう頼み、親分である後藤を労わった。

「大変でしたね。児玉閣下こだまかっかのお話は相当長かったようで……」

「三時間半だ。嫌いな人間ならいくらでも突っぱねられるのだが、大恩だいおんのある人にそんな真似は出来ぬし、大変だった……」

 後藤の輝かしい台湾時代は、児玉あってこそである。

 多忙な児玉に代わり、台湾で実務をしたのは後藤新平であったが、後藤が自由に実務を行えたのは、ひとえに児玉あってこそだった。

 児玉は自分が抜擢ばってきした後藤に自由な手腕を振るわせた。

 元々、戊辰戦争ぼしんせんそうで負けた側の出身である後藤だが、それを長州閥の次代を担う人間として期待されていた児玉が庇護した。

 児玉の庇護下であったからこそ、後藤はその能力を存分に発揮できたのである。

 後年、後藤は拓殖大学たくしょくだいがくの学長となるのだが、当時の記録に「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられた」とある。

 癇癪かんしゃく持ちで直情径行ちょくじょうけいこうと言われることもあった後藤がそのような態度をするようになったのは、自分を庇護ひごしてくれた児玉の影響であるのかもしれない。

 是公も児玉のことはよく知っている。

 台湾総督府たいわんそうとくふの総務局長兼財務局長に抜擢された是公にとっても、児玉は上司だからだ。

 後藤と是公が初めて出会ったのは台湾だった。

 広島佐伯ひろしまさえき五日市いつかいちで、酒造業の家の五男として産まれた中村是公は広島尋常中学から第一高等中学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学する。

 このとき大学予備門で知り合ったのが夏目漱石である。ちなみに漱石はここで正岡子規とも出会っている。

 東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入省。その後、秋田県収税長を経て、台湾総督府に是公は赴任する。

 そして、台湾総督府に民政局長として後藤新平が赴任してきたことで、後藤と是公が出会う。

 是公は祝辰巳いわい たつみ宮尾舜治みやお しゅんじと共に後藤腹心の三羽烏さんばがらすといわれたが、その中でも是公は腹心中の腹心とだった。

 運ばれてきた茶を後藤に勧めながら、是公は後藤に児玉との話を聞いた。

「やはり満州のお話でしたか?」

「ああ、新しく設立する南満州鉄道株式会社の総裁になれと児玉閣下にせっつかれた」

 普段は快活かいかつな後藤が眉を寄せる。

 しかし、是公は児玉の気持ちのほうを理解した。

「仕方ないではないですか。外務省も軍部も大陸の鉄道を注目しない中、後藤さんだけが唯一、東清鉄道南部支線の重要性に気づいて、その活用アイデアを戦争中からお伝えしていたのですから」

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