第2話 満鉄に関わる二人の人物

 満鉄設立を語る上で、欠かせない二人の人物がいる。


 一人は児玉源太郎こだまげんたろう

 児玉は長州の出身で、17歳の時に箱館戦争はこだてせんそう初陣ういじんを飾り、西南戦争せいなんせんそうでは熊本城籠城戦で西郷軍の攻撃から熊本城を守り、日露戦争では満州軍総参謀長として日露戦争を勝利に導いた。

 陸軍大将である彼を語るとき、戦争がメインになることが多いが、児玉にはもう一つの顔がある。

 それは台湾総督たいわんそうとくなど、政治家としての面だ。

 児玉はそれまで樺山資紀かばやますけのり桂太郎かつらたろう乃木希典のぎまれすけらが手を焼いていた台湾統治を確固たるものにした。

 硬軟こうなんを使い分け、台湾を包括的ほうかつてきに統治し、体系的な政策を展開して、安定的に台湾統治をしていく方向に児玉が導いた。

 四代目の総督である児玉源太郎以来、台湾統治は変化したと言われるほどである。


 しかし、児玉は台湾に心を砕きつつも、それだけに集中出来なかった。

 児玉は第四次伊藤博文内閣の陸軍大臣であり、第一次桂太郎内閣の文部大臣、内務大臣を兼務していたのである。


 多忙な児玉に代わり、台湾で実務をしたのはもう一人の人物・後藤新平ごとうしんぺいであった。

 児玉が軍人として語られることが多いのと同様、後藤は植民地経営者・政治家として語られることが多いが、後藤は本来は医者である。


 岩手県奥州水沢いわてけんおうしゅうみずさわで、仙台藩家臣の家に長男として産まれた後藤は、江戸時代の蘭学者・高野長英たかのちょうえいの遠縁に当たる。

 高野長英は蛮社の獄で幕政批判をしたという罪を着せられて永牢終身刑えいろうしゅうしんけいを言い渡され、脱獄後は硝酸しょうさんで顔を焼いて人相を変えてまで各地を点々としたが、江戸の青山百人町にいた頃に何者かに密告されて、町奉行所の捕方に囲まれて、十手で散々に殴打され、護送中に絶命した。

 捕手役人は奉行所に高野長英は自害したと嘘の報告を上げていたが、死ぬまで殴られ続けたという壮絶な死に方は親戚たちに伝わっていたのか、後藤の親や周囲は後藤が政治に関わるのを好まなかった。

 そのため、後藤自身は政治家を志していたが、17歳の時に医学校に入れられ、愛知県医学校の医者になる。

 気が進まぬ道であったが、後藤は優秀で、24歳の時には医学校の学校長兼病院長になっている。


 その後、内務省衛生局ないむしょうえいせいきょくに入り、このあたりから後藤の官僚色が強くなる。

 ドイツ留学を経て、内務省衛生局長に就任した後藤だったが、相馬事件そうまじけんが原因で失脚してしまう。


 ところが、日清戦争をきっかけに後藤の人生が動く。

 内務省衛生局員時代に局次長として後藤の上司だった石黒忠悳いしぐろ ただのりが、陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官をしており、陸軍次官兼軍務局長である児玉源太郎に後藤を推薦したのだ。

 それにより、後藤は日清戦争帰還兵の対検疫業務たいけんえきぎょうむを行う臨時陸軍検疫部事務官長として表舞台に復帰。

 広島・宇品港似島の似島検疫所にのしまけんえきしょで検疫業務に従事し、その手腕が児玉の目に留まる。

 ここで、児玉と後藤の縁が生まれる。


 台湾で手腕を発揮した後藤新平を、児玉は大いに評価していた。

 そのため、児玉は新しく作る満鉄の総裁は後藤以外にあり得ないと思っていた。

 児玉は後藤を呼び、満鉄の総裁になってくれないかと説得した。

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