第26話 内なる欲望の呼び声

 重苦しい沈黙が訪れた。部屋の中は物音一つしない。


 俺に聞こえるのは、リリアを抱き留めた腕から伝わってくる、激しい心臓の鼓動だけだった。

 俺は口を閉ざしたまま、リリアの反応を待つ。


 しれから数分——いや、数十分は待っただろうか。


「——いつから、気がついていたんですか?」


 長い沈黙を破り、リリアが声を震わせながら呟いた。


「最初から変だとは思っていたんだ」


 俺は慎重に言葉を選び、出来るだけ軽い口調でリリアに応じた。


「呪いに操られている人間が、わざわざドアをノックして、こちらの返事を待ってから入ってくるなんて不自然だと思ったんだ。入ってきた後の演技はなかなかだったが、初手でしくじったな」


「——やっぱり、エイジさんは頭の良い方ですね。それにとても冷静。たったそれだけの情報で見抜くなんて」


 実は、リリアの芝居に気付いた要因はそれだけじゃない。

 ステータス画面を見たとき、前の〈発作〉と違ってMPが0になっていなかった。

 それになにより、〈淫蕩の呪い〉の項目が光っていなかった。

 まぁ要するにズルをして知ったわけだが、それについては黙っておく。リリアが俺の能力を知れば、自分の身にかけられた呪いについて、詳しく知りたがるだろう。

 だが、〈淫蕩〉以外の呪いの存在を知れば、リリアは間違いなく強いショックを受ける。

 俺の能力や呪いのことは、いずれリリアに話さなければならないが、そのタイミングはいまではない。


「ははは……。大したもんだろ? でも俺にも分からないことがある。なぜ、リリアはこんなことをしたんだい?」


 できればしたくない質問だった。だがこれは、今後の俺たちの関係にしこりを残さないためには、避けては通れない問題だ。


 再び重苦しい沈黙が訪れる。しかし、今回は短かった。


「呪いの衝動が、だんだん強くなってきているんです」


 声は震えたままだが、はっきりとした口調だった。


「以前は、〈発作〉が起きるまで自覚症状がなかったんです。でも、あの——ゴブリンに襲われた後から、〈発作〉が起こるタイミングが自分で分かるようになりました。身体の奥から、強い衝動がわき上がってくるのです。そして、その衝動は日を追うごとに強くなっていっています……!」


 リリアの喉がゴクリと鳴った。


「——一人でじっとしていると、わたしの中にいるもう一人の自分が、囁いてくるんです。『お前は悪い子だ。悪い子は罰を受けなければいけない』って。『罰を受けるのは気持ちいいぞ』、『お前はその身の隅々まで蹂躙じゅうりんされねばならない』、『自らの欲望を解き放ち、他者の欲望を受け入れよ』、『それがお前への罰。お前の救い』……そう……言うん……です……!」


 リリアを抱きとめていた俺の腕に、一滴、二滴と涙がこぼれ落ちる。

 何かを言わなければいけないと思った。だが、言葉が出てこない。考えがまとまらない。


「じっとしているだけで、気が狂いそうになるんです。もう一人のわたしの声に従って、誰かに身をゆだねれば、楽になれるのかなと思いました」


「リリア……」


「わたしは楽になりたかった! だから今日、イリーナさんの話を聞いたときに思いついたのです……! わたしにも、イリーナさんにとってのザックさんのような、互いに信頼しあい、欲望を解放しあえる相手がいればいいんだ、と……」


「それが、俺ということか」


 なんてこった。ずいぶんこじらせちまっているな……。

 リリアはザックたちのことを根本的に勘違いしている。

 連中、口では身体だけの関係みたいなことを言っているが、あれはどう見ても相思相愛、本物の愛と信頼で繋がった恋人同士だ。息の合った口喧嘩からは、熟年夫婦の風格すら感じる。

 出会って一月程度の俺たちとは話が違うのだ。


「ごめんなさい。わたしはエイジさんを騙して、利用しようとしました。わたしのことを愛してくれなくてもいい。ただ、わたしの欲望を受け入れて、わたしを、欲望のはけ口に、して、くれないかと思って……」


 リリアはしゃくり上げながら、懸命に言葉を紡いだ——その瞬間。

 俺の脳内に危険信号がともった。


「か、仮にそうなったとき、わ、わたしは、あ、あ、あなた、あなたを心から、あい、あいあいあいあ、あ、あ、あ、あ、あ!!」


 リリアの口調——そして、俺の脳内に展開されたリリアのステータス画面に異変が起きていた。


 特殊スキル欄の〈淫蕩の呪い〉。それがいま、赤く点滅しはじめたのだ!


「リリア!」


 俺は慌ててリリアの肩を掴み、無理矢理振り向かせる。


「エイジさん……」


 俺の眼前に現れたリリアの顔。

 そこには、これまで見たことがない表情が浮かんでいた。


 泣き濡れた目は空虚で、まるで死人のようだった。反面、柔らかな唇は横に大きく広がり、なめらかな弧を描いている。

 弧の端からは、赤い舌先が突き出ていた。それはまるで意思を持ったようになまめかしく動き、唇の表面を湿らせていく——


「エイジさんはぁ、焦らせるのがお上手ですねぇ、うふ、うふ、うふふふ!」


 甘ったるいびを含んだ婬靡いんびな声が、俺の耳を打つ。


 さっきのような芝居ではない、本物の〈発作〉が始まったのだ。

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