九節 地下二五〇〇メートルの復讐(肆)

 コボルトの顔にまとわりついた炎がその呼吸を止めた。

 呼吸器に炎を詰め込まれたコボルトは苦悶しながら、ねじくれた槍を突き出したが、酸欠で霞む視界は遠近感を狂わせる。その攻撃は弱々しく、そして、正確ではなかった。左へステップを踏んだユーディットが槍をかわした。コボルトはその攻撃を最後に意識を失って倒れた。絶命したコボルトの首周りで、小さな炎の乙女たちがお互いの手を打ち合わせながら「ホウホウ!」と歓声を上げる。ユーディットの使役した炎の精霊たちサラマンダーがコボルトを炎で絞め殺したのだ。

 ユーディット率いる第二戦闘班は連合本部から指定された座標――合流地点まであと一歩の位置にいたが、そこで異形犬に包囲された。十字路に四つある小路のすべてをコボルトが埋めている。

「メンヒルグリン・ガーディアンズは何をやっている?」

 精霊の連続召喚に体力を奪われ呼気を荒げたユーディットが、十字路の南――第二戦闘班の隊列後方へ目を向けた。背後にグレンデル数体をつれたコボルトの軍勢が迫っていたが光球炸裂弾は飛んでいない。

「あいつらどうしたんでしょうね。後方にいないけど――」

 ユーディットの近くで、アマデウス冒険者団の団員の若い男が肩で息をしながらいった。第二戦闘班は緊張と戦闘が続いて体力的の限界に近い。元は二百五十名余いた人員も、今は百五十名前後まで数を減らした。ここにいないものは、もう帰らぬひとである。

「――背面から攻撃を受けています、ユーディットさん!」

 隊列後方から怒鳴り声が飛んだ。ユーディットが振り返るとコボルト数体が間延びした隊列の後方を襲っている。

「メンヒルグリン・ガーディアンズの奴らはどこへ行ったんだ!」

 ユーディットが怒鳴り返した。

 敵の追撃はメンヒルグリン・ガーディアンズが対応する手筈だったのだが――。

「メンヒルグリンの連中は本隊からはぐれてしまったようで――ぐほっ!」

 身を捻って報告したその中年男の首筋にねじくれた槍が突き立った。首に槍を受けたその男は、その場でぐらぐらと揺れていたが、やがて、くりんと白眼を剥いて崩れ落ちた。

「エレミア!」

 ユーディットが叫んだ。後方にいるエレミアがコボルトを相手に大斧斧を振るっている。この白鉄しろがねの戦乙女の奮闘で第二戦闘班の後方から追撃してくるコボルトを、どうにか食い止めている戦況だ。

「エレミア、北へ強行突破するよ、早くこっちへ来い!」

 ユーディットが火薬樽を手にとって呼んだ。

 だが、エレミアは戦闘をやめない。

 それは明日など要らぬといわんばかりの奮闘で――。


 §


 以下はアマデウス冒険者団の団員、エレミア・ルクレールという女性の話だ。

 エレミアは現在二十一歳なのだが、綺麗な黒髪を地味な長さで切り揃えて、すっきりと細い瞳をいつも伏せている小柄な彼女の容姿は実年齢よりもずっと幼く見える。だから、二十歳を超えても女性というよりは少女。それが、エレミアからたいていのひとが受ける印象だ。

 湾岸の大都市アンフィトリテの下街に、祖母、父、母、兄、妹の五人家族で住んでいたルクレール一家。その一家の次女がエレミアだった。エレミアの兄は王国軍東方学会に通う優等生で、その将来を周囲から期待されていた。小さな本屋を営んでいたエレミアの両親は兄の出来栄えに気を良くし、次女エレミアも王国軍東方学会へ入学させることに決めた。タラリオン王国において市民階級に生まれた女児が、軍の教育機関である王国軍学会へ入学することは稀だったが、愛情もあったし、子を持つ親の常で我が子に対する過大な期待もあった。

 ただ、エレミアは活発な兄とは違って内向的な女児だった。エレミアは男女共学制で校風に多少粗野なところがある軍学会へ通うのを嫌がった。実際、女児で軍学会に通うものは少数派でもある。生活に余裕のある家庭に生まれた女児はたいていエリファウス聖教会が運営するエリファウス女子神学学会へ通うものだ。白塗りの洒落た校舎へ着飾って通う神学生の女生徒はアンフィトリテに住む女児から憧れの目で見られてもいた。女児らしい女児のエレミアもやっぱり女学生らしい女学生に憧れていた。理由はともあれである。エレミアは男臭い軍の学校へ通うことに気乗りしなかった。

 しかし、幼い頃から――学校に上がる前の年齢から、なかなか難しい活字本を嗜むエレミアを見てきた両親は「我が子エレミアには勉学の才が大いにあるようだ」そう睨んでいたので、女児にも本格的な教育を施す王国軍学会へ通わせることを諦めきれない。エリファウス教会が運営する女学会は、公立の軍学校より授業料が高額で、ブルジョワ階級――大市民階級の箱入り娘だの貴族令嬢だのといったお高くとまった女学生が多いのだ。乱暴にいえば、エリファウス聖教会が運営していたのは、生活に余裕のある家庭に生まれた女子が「一通りの教育は受けましたのよ」と格好をつけるために通うお嬢様学校だった。教育の内実が伴わない割合に、むやみやたらと高い授業料を請求するエリファウス聖教会の女学校を、本屋を営み学問に関して一家言あったエレミアの両親は心良く思っていない。

 困ったエレミアの両親は近所に住む貧乏な末端貴族の一家――カラヴァッジオ家に頼みごとをした。

「臆病なエレミアが軍学会に慣れるまで、お宅のお嬢さんと一緒に通学させてもらえないだろうか?」

 そんな些細な頼みごとだった。

 カラヴァッジオ家の末の娘は王国軍東方学会の初等部に通う特待生で、その界隈ではよくできた娘と評判だった。区役所に務める下級行政員として、市民階級とさほど変わらない生活をしていた貧乏貴族のカラヴァッジオ夫妻は、ルクレール夫婦の頼みごとを善良な市民と変わらない態度で快く引き受けた。

 カラヴァッジオ一家の末の娘の名を、レオナ・デ・カラヴァッジオといった。

 レオナの年齢はエレミアより二つ上で、利発そうな顔立ちの、きびきびとした態度の、癖のある金色の長髪の、美しい娘だった。

 らんぼうなお兄さまよりも、きれいで優しいお姉さまが欲しかった――。

 そんな願望を抱いていた幼いエレミアはレオナにすぐ懐いた。五人兄弟姉妹の末っ子だったレオナも妹が欲しいと両親にねだって困らせることがあったらしく、エレミアを気に入った。

 二人はすぐ年齢差を超えた親友になった。そして、お互いが成長して思春期に入ると、そのまま二人は同性の恋人になった。女児から女性に近づいたレオナは自分の性愛の対象が男女の性差を問わないことに気づいた。エレミアは自分の愛欲を感じる対象が一般的な女子と違うことに気づいた。

 月日は流れ、王国軍東方学会の高等部に進級したレオナは高等部学徒組合(生徒会である)の組合員として、その運営に辣腕を振るうようになった。二年遅れて高等部へ進学したエレミアはレオナの誘いを受けて学徒組合に入ると書記係を務めた。レオナは学徒組合の活動を通し男性の恋人を作った。レオナが恋人として選んだのは同学年で一番の優等生であり、女生徒の人気を集め、学徒組合にも所属していた、シルヴァ・ファン・ハウツヴィッツ(今の姓はアマデウスを名乗っている)――今のシルヴァ団長だった。レオナは性に対して貪欲な傾向があり男女問わずの浮気をよくして、女性の恋人のエレミアをよく泣かせた。だが、エレミアのほうはといえば、それで益々、レオナへの恋慕を深めた。エレミアはとにかく他人とは愛の形が違う少女だったのだ。

 レオナはエレミアより二つ年上だ。当然、エレミアより二年先に高等部を卒業した。優等生のレオナはそのまま大学部へ進むものだと周囲から思われていたが、高等部を卒業すると王国軍東方学会から姿を消した。エレミアには何も告げていかなかった。最愛の恋人を突然失ったエレミアは以降、抜け殻のようになった。

 その一年後。

 エレミアの前にアマデウス冒険者団の副団長を名乗るレオナが現れた。

「学会を辞めて、アマデウス冒険者団へ入団しない?」

 レオナ副団長はエレミアを誘った。エレミアはあまり考えもせず誘いに乗った。レオナを失って傷心したエレミアは学業に身が入らず学会の成績が落ちていた。元より内向的な性格のエレミアは軍関係の仕事に――暴力に携わる仕事に興味がない。だが、皮肉なことにだ。エレミアには戦いの才覚があった。エレミアは導式具の扱いが得意で普通のものは扱いに熟練を要する導式鎧も難なく扱えた。周囲は褒め称えたが、エレミアのは自分の将来に嫌気が差して益々無気力になった。教育熱心なエレミアの両親は落ちる一方になったエレミアの学業の成績に激昂して毎日のように我が子を厳しく咎めた。だから、レオナ副団長に誘われたエレミアは冒険者になることを決断したわけではない。逃げる先はどこでも良かった。これはエレミアの家出だった。

 アマデウス冒険者団の団員と共同生活するなかで、女性に見境のないシルヴァ団長はエレミアを強姦した。その乱暴でエレミアは心身が傷ついて泣いたが、レオナ副団長はその事実を知っても憤らない。それどころかレオナは自分の男性の恋人であるシルヴァを愛するようエレミアへ強要した。絶望したエレミアはアマデウス冒険者団からの逃亡を図った。しかし、逃げたエレミアはすぐ捕まって、シルヴァの手で隷属の首輪をつけられた。これは飼い主に絶対逆らえなくなる呪われた首輪だ。こうして、エレミアはシルヴァ団長の従順な性奴隷となった。

 そのあとのエレミアは、アマデウス冒険者団の団員として、シルヴァ団長の姓奴隷として、レオナ副団長の玩具として不本意な生活を送った。エレミアは色々と良く働いたが、その精神は内側へ内側へ向かう。エレミアは幼少の頃から感情の波が少なかった。喜びも悲しみもせず、誰にも邪魔されない静かな時間を過ごすのを好む少女だった。平穏を好むエレミアにとって喧騒と暴力と旅を繰り返す冒険者の日々はただただ辛い。耐え難い毎日だ。耐え難いが、しかし、そこから逃げる手段はもはやない。

 幼い頃から読書が大好きだったエレミアは虚構から芳醇な世界を創造できる、繊細な感性の持ち主だった。しかし、暴力的で現実的で性的な冒険者の日常はエレミアから物事に対して感動する心を奪っていった。そのうちにエレミアは自分は辛いと考えることをやめて、シルヴァ団長とレオナ副団長の人形を演じる事に専念しだした。

 このほうが気楽でいいよね。

 エレミアはそう考えた――。


 §


 第二戦闘班の後方に残ったエレミアは、いつも通り何も考えず戦うことに集中した。

 エレミアの周囲に味方はもう誰もいない。

 エレミアは戦場で孤立していたが、まあ、これでいいよね、そう思った。

 エレミアは導式機関をフル稼働させて大斧槍を振り回した。全身が導式の炎で青く燃えている。青く燃えながら戦い続けるエレミアの周囲にはコボルトの死体が大量に転がっていた。ひとの死体もある。硝煙と黒煙と血煙で遮られた小路の視界は悪い。耳に聞こえるのはコボルトの悲鳴や唸り声、それに、グレンデルの絶叫だ。エレミアは獄炎が渦巻く冥界で戦いを続けているような気がした。実際、客観的に見てもそれは地獄のような光景だった。エレミアはまた一匹、襲いかかってきたコボルトを大斧槍を使って叩き伏せた。そこで稼働限界を超えた導式機関のいくつかが破裂した。エレミアの動きが鈍る。コボルトは弱った獲物を見逃さない。ねじれくた槍の穂先がエレミアを襲った。背後から突き立てられた犬の槍は装甲を突き破ってエレミアの肉体を貫いた。

「これで、いいよね!」

 声に出してはっきりいったエレミアは、グルリと一回転、周囲に群がったコボルトを斬り伏せた。そこで、エレミアのβ型導式機関鎧に巡っていた導式の光が完全に消えた。鎧に接続されていたすべての導式機関が稼働限界を超えて機能を停止したのだ。エレミアは防毒兜の面当て引き上げた。この視野と呼気を狭める窮屈な白い兜も本音のところ、エレミアは大嫌いだった。

 そうして、

「あはは!」

 エレミアは血を吐きながら笑った。強がりではない。本当に可笑しかった。平穏を望み、他人を相手に波風を立てるのを嫌い、結局は他人の意志に押し流され続けた自分の人生が、自分自身が呼び込んだ不幸せが、エレミアは可笑しい。背中に受けた傷は致命傷だ。その場に立ち尽くしたエレミアはコボルトの群れに囲まれている。南からグレンデルが何体も迫ってくるのが見える。

 エレミア・ルクレールは死ぬ。

 しかし、意識が薄れゆくエレミアは悲しくない。孤独も恐怖も感じない。とてつもない皮肉を原料に作られたくびきから、自身が開放されるのだと確信したエレミアは、今、ただただ可笑しい――。

「――ああそう。死にたい奴は勝手に死ね。でも、迷惑だから他人を巻き込むな――死んだ奴にも負傷者にも構うな。生きているみんなで北へ突破するよ。本部はすぐそこなんだ、がんばれ!」

 ユーディットは叫ぶ声と一緒に火薬樽を十字路の北へ向けて放り投げて炎の精霊たちを使役。自身が投げた火薬樽へ着火する。

 爆発が起こってコボルトの群れが混乱した。

「行け、みんな、北へ走れ!」

 ユーディットが北の小路へ突貫した。

 連合第二戦闘班の生き残り百名強は覚悟を決めてユーディットの背を追った。


 大通路に散開した、おおむねはスロウハンド冒険者団の団員から投射された光球炸裂弾は脇道から突撃してきたグレンデルの白い肉体を砕いたが、しかし、神経結束の破壊に失敗した。血塗れのグレンデルは泣き喚きながら手近にいた小集団へ突っ込んだ。グレンデルは巨大な拳を振り下ろす。叩き割られた石床と砕かれたひとの残骸が宙へ舞い上がって大通路が揺れた。

「――魔導式・陣雷魔槍ブリューナクを起動!」

 シルヴァ団長の左手から魔槍が飛んでグレンデルの背の中心を貫いた。魔槍はグレンデルの心臓の後ろ――神経結束がある位置へ突き立っている。グレンデルは魔導の槍を背に残したまま泣き喚き巨体を捩った。次の瞬間、グレンデルの白い首筋に虹の断線が奔った。シルヴァ団長が導式剣を横一閃に振り抜いている。距離と時間を無視して敵に届く亜空間斬撃だ。グレンデルの頭が路面へ転げ落ちた。戦場に出現した五体目のグレンデルはシルヴァ団長の手でまた倒された。

 シルヴァ団長は膝に手をついた。その鼻先から汗が滴り落ちている。大通路を駆け回ってコボルトやグレンデルへの対応をしていたシルヴァ団長が息を整えていると、脇道のひとつで爆発が起こった。

「おいおい。まだ敵が来るのか――」

 シルヴァ団長の顔が紙のように青ざめている。

「――あれは火薬の爆発?」

 シルヴァ団長の近くにいた若い探索者が呟いた。爆風に吹き飛ばされたコボルトが何体か吹き飛んで大通路へ転がり出てくる。手足が吹き飛んだコボルトはまだ息があるようだったが、路面でひくひく蠢いている様子を見ると戦闘能力を失っているようだ。続いて、犬以外の叫び声や銃声も脇道の奥から聞こえてきた。

「あっ、撃つな、撃つなよ!」

「撃ち方、止めろ!」

「そっちの脇道から来るのは味方だ!」

「第二戦闘班が生還した!」

「南から増援が来たぞ!」

 爆発が起こった脇道を封鎖しようと、銃やら収束器を持って駆け寄った男たちが騒いだ。シルヴァ団長が目を向けたところで、その脇道からユーディットが飛び出てくる。遅れて男たちがばらばらと走ってきた。

 ユーディットと第二戦闘班の生き残りが連合本部との合流に成功した。

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